第39話 優しい人

「……もしかしたら、私も同じなのかもしれません」

「同じ?」


 彼女の言葉に俺は首を傾げた。


「私も何かができるような身体ではありません。それでも生かしてくれたこの世界に、恩を返したいのかもしれません」


 生かされたから、恩を返す。確かに同じなのかもしれない。俺を生かしてくれたのは彼らだ。動くだけの死体だった俺に命を吹き込んでくれたのは彼らだった。


「それならまあ……納得いくかな。世界に対してって部分だけは、相容れないが」

「私の言う世界とあなたの言う世界は別物ですから。私にとっての世界はこの教会で、恩を返したいのはここに来る人々。あなたにとっての世界は世の中の全てで、あなたが恩を返したいのはあなたの内側に住む彼ら。私はここに来る人々を救い、あなたは彼ら、そして彼らと同じ境遇にある人々を救う」

「そうか、そういう認識なのか。だから、俺たちが世界を壊そうとしていても止めないんだな」

「ええ。目指していることは同じようなものですから。きっとあなたたちなら、この教会に来る信者たちのことも救ってくれると私は思っています」


 話を一通り終えて、俺たちは思う。このシスターは本当に聖女のような部分を持っている。普段、表に出ている性格に嘘はない。皮肉屋だし口も悪い。

 だが、本物の慈愛を持っているのも確かだ。そうでなければ、ここまで他人のために尽くせるはずがない。


 彼女の手がまた俺たちの頬に触れる。暖かな熱を感じながら、最後に聞きたいことが思い浮かんだ。


「なんで、俺たちにそこまでするんだ?」


 同じ質問を以前にもした。それでももう一度聞きたくなった。

 教会に来る人々への彼女の慈愛は本物だ。それはずっと見てきたから分かる。だが、どうしてそれを俺たちにまで向けているのだろうか。俺たちもこのシスターにとって救うべき対象なのかもしれないが、それ以上の何かを感じる。

 そもそも俺たちは愛されなかった存在だ。今更、愛情を受けてもそれを信じることができない。


「同じ答えを言っても、納得できないのでしょうね」

「ああ。だからこれは……そうだな、無意味な質問だ」

「あらゆる答えに納得がいかないだろうからといって、質問そのものが無意味となるわけではありません。少なくとも私は、今でもあなたたちが不安に思っている、ということを知ることができました。それだけでも十分に意味のあることです」


 シスターは俺たちの気持ちを、不安を否定せずに目を伏せる。言葉を選んでいるように見えた。


「今言ったことを実践するならば、同じ答えを繰り返すこともまた、無意味ではないのでしょうね」

「……そう、かもしれないな」

「私はあなたたちを癒したいのです。特に──を」


 なんとなく、予想はしていたから驚きはしなかった。ただ余計に、信じられない気持ちになった。


「どうしてだ。どうしてこんな人間に拘るんだ。俺は力づくで世界を壊そうとしている罪人だぞ」


 罪の意識があるわけではない。だが客観的に見たときに罪人だという自覚がないほど、俺はまだ狂っちゃいなかった。


「でもそれには理由があるでしょう?」

「ただの欲望だ」

「欲望であっても理由よ。人を害したいのが欲望なら、人を助けたいのも欲望。どちらも同じことよ」


 同じだと彼女は言ったが、結果があまりに違いすぎる。俺には同じだとは到底、思えなかった。


「俺の欲望は人を害したい欲望だ。誰かが認められるようなものじゃない」

「──いいえ。それは違うわ」


 俺の言葉を、目の前の女ははっきりと否定した。


「あなたが言ったことよ。って。あなたは誰かを傷つけたいんじゃない。あなたは人を助けたいのよ。たとえそれが見ず知らずの誰かであったとしても。あなたの中にいる彼ら。路地裏にいる可哀想な人たち。死なせてしまった子供。あなたはその人たちの誰も彼もを救おうとしてる。人を害する欲望などではないわ」

「だが話したはずだ。俺たちは不満の発散のために人を殺す、と」

「それは彼らの欲望であってあなたの欲望ではないわ。少なくとも、私にはそう見える。あなたは彼らの欲望を叶えようとしているだけよ」


 優しげな笑みを向けられているのに、俺の心は乱れていた。

 心の中の何かが、彼女の主張を受け入れようとしなかった。


「俺が……そんな立派な人間に見えるのか、お前は」

「ええ。初めて会ったときから、ずっとそう。あなたは優しい人よ。だからお願い。あなたは優しいって、私にだけは言わせて。そうでないと」

「そうでないと?」

「この世界で誰も、あなたの優しさを知らないままだわ。そんなの、悲しすぎるもの」


 その声には、悲哀と祈りが込められていた。どうかこれだけは許してほしい──そんな願いが込められているように聞こえた。

 こいつは、俺をひとりにしたくないのだと、ようやく理解できた。

 黄金色の瞳は、今でも俺だけを見ている。


 ──ああ、綺麗だ。素直に、そう思えた。


「……分かった、俺の負けだ。今でも受け入れ難いが、お前のその言葉だけは否定しないようにするよ。それにしても、こういうときはまるで本物の天使みたいだな」

「純粋で綺麗な心、という意味?」

「ああ。聖女やその類に見える」

「ふふ。それも間違いよ。私だって欲望で動いているもの」

「俺を助けたいという欲望か?」


 一瞬だけ彼女の言葉が止まる。吐息を一度だけついてから、俺を見据えて彼女は言った。


「いいえ──あなたのことが好きっていう欲望よ」

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