実方教授と自由恋愛の代償

荒野羊仔

実方教授と自由恋愛の代償

 四つか、五つの頃の話だ。母に連れられて母方の祖母の家に行った。風一つ吹かない、むし暑い、雲一つなく晴れた夏の日のことだっだと記憶している。

 祖母の家に立ち入るのは初めてだった。

一人娘だった母は祖父の反対を押し切り、男と駆け落ちしていた。そのこともあってか、祖父は母が生家に戻ってくることを頑なに拒んでいた。

 その祖父が亡くなり、祖母は密かに連絡を取っていた母に戻ってこないかと提案した。母は母で、駆け落ちした男が失踪し、女手一人で私を育てていたため、実家に戻ることは都合が良かった。

 田舎の家は、それまで暮らしていたアパートと違い、広く、部屋が数多くあった。その部屋の多くには畳が敷いてあり、田舎特有の匂いがした。

 祖母と母が話をしている間、私は庭に面した和室にいた。和室には床の間と、異様に大きなアンティークの柱時計があるのみで、遊ぶものなど何もなかった。私は縁側に座ってただぼうっと庭を見ていた。

 庭には木々が生い茂っており、中央に池があった。池には小さな橋が架けてあり、縁石で縁取られていた。池自体は浅く、子供の自分でも足がついただろう。鯉でも住んでいそうな池だ。

 不意に、池に波紋が現れた。生き物の姿は見えなかった。近付けば、何か生き物が見えるかもしれない。そう思って、庭へと降りた。

 縁側に置かれた、大きなサンダルを履いた記憶がある。祖母か、或いは祖父が使っていたものだろう。母は、常々、私が靴を履かずに外を歩き回ると、こっぴどく叱った。この日も母を怒らせないよう、目についたサンダルを履いた。足はサンダルの半分ほどしかなく、歩く度にバランスを崩しそうになる。サンダルが脱げないように注意深く歩いた。

 池に架けられた橋の中央部に行き着くと、しゃがんで池の中を眺めた。池水は緑色に濁っており、底が見えない。生き物の姿も見当たらなかった。葉が落ちている訳でもなく、風が吹いた訳でもない。先程の波紋は何だったのだろうか?

 しゃがんでいる足が痺れてきた。そろそろ部屋に戻ろう。勝手に外に出ていると母に怒られるかもしれない。そう思い踵を返そうとしたところ、言い様のない感覚が私を襲った。

 目の前に、何かがいる。

 私の視線はまだ池の中を向いていた。緑色の水から、生白い二本の足が突き出ていた。雲一つなく晴れていたはずなのに、視界が突如として暗くなった。上から視線を感じる。足の主が上から私を見下ろし、影を作っているのだ。粘り気のある、じっとりとした視線だ。湿度が上がる。私は顔を上げることができない。

 それは女だった。足しか見ていないが、女に違いなかった。、と直感的に思った。

「長らく、お前を待っていた。愛しい男の血を引く男子おのこ

 女は声を上げた。低くこだまする、この世のものとは思えない声だった。

「お前の祖はちぎりを交わした。己が血を引く男と婚姻させると。十五の歳月としつきを経て、婚姻は成立する」

 言葉の意味は、理解しかねた。ただ、その声を忘れることはできず、一言一句違わず脳裏に刻まれた。

「他の女と婚姻してはならない。婚姻を結べば、三日の後に、お前は死ぬ」

 女はそう言い残すと、池中へと消えていった。女が消えると、再び日が照りだし、体の毛穴と言う毛穴から汗が吹き出した。髪が肌に張り付き、不快感を覚えた。

 どれくらいそうしていたかは分からない。やがて汗が冷え、体温が下がった。

 母は私の姿を認めると、池から離れるよう声を掛けた。やがて微動だにしない私を自身の手で池から引き離した。その時、サンダルが片方池に落ちた。

 池から白い手が伸び、サンダルを池の中へ引き摺り込んだ。後に母と祖母はサンダルを探したが、遂にどこからも見つからなかった。



 それから数年、その家で暮らした。その後女が私の前に現れることはなかった。あれは夢だったのではないか? と思い始めていた。

 十年ほどが経過したある日の夕飯時、子供の頃に見た夢として話した。

 途端、祖母は手をわなわなと震えさせ、茶碗を取り落とした。畳に茶碗が落ちる鈍い音がして、米粒が転がった。

「まさか、そんな……。あの人の言うことが……」

「お母さん? どうしたの?」

 母が祖母に駆け寄り、放心状態の祖母の肩を揺すった。祖母は何事かを呟いていたが、その声は明瞭ではなく、何を言っているのか全く聞き取れなかった。

 やがて祖母は弾けるように立ち上がると、私たちに向かって言った。

「……あの人が亡くなったからと言って、この家に立ち入らせるべきではなかった。出ていきなさい。すぐに」

 祖母は理由も明かさずに、突然そう言った。

「待って、お母さん、どうして」

「出ていきなさい‼︎」

 祖母はこれまでに聞いたこともないような大きな声を出すと、私たちの荷物を外へ投げ、私たち親子を追い出した。門が閉まる。そして、火の手が上がった。母の悲鳴が響き渡った。悲鳴を聞き付けて、近所の人が集まってくる。塀や門は頑丈で、井戸水でバケツリレーをしようにも、中に入ることができなければどうしようもなかった。一晩中火は上がり続け、私たちの家は全焼した。母は一晩中、門を叩き続けた。手の皮が剥げ、肉が露出していようと。その手を止めることはなかった。

 

 その後、鎮火した敷地内から、祖母の遺体が発見された。その遺体は奇妙な点があった。祖母が見つかったのは庭であり、その死因は焼死ではなかった。祖母は庭の池にまで灯油を撒き散らし、庭の橋が落ちていた。祖母の死因は、溺死であった。

 後日池が攫われたが、生き物も含めて何も見つからなかった。祖母が何を燃やそうとしたのか、何故池で溺れたのか、全て分からず仕舞いだった。気がちがったのだと、噂された。それ以来、母と私はその家に帰っていない。



 それからの母は、抜け殻のようだった。自立も儘ならず、自治体の支援を受け、施設に入居することとなった。母は手をだらりと下げ、日がな一日窓の外を眺め、どうして、と呟いた。話し掛けると、の女性と結婚するのよ、と繰り返し言った。手の傷は瘡蓋ができ塞がっていたが、心が回復することはなかった。

 祖母が投げた荷物の中に、見覚えのない袋が紛れ込んでいた。印鑑と通帳、そして多額の現金だ。母があの状態であるため、未成年後見人と、成年後見人制度を利用することとなった。施設の所長がそれを請け負ってくれた。幸い、後見人となった人は良心的な人で、施設の入居にかかる費用、生活費以外は全て残してくれた。

 私は母を残し、施設を出た。隣の県の大学に進学して民俗学を専攻することにした。あの女が何者なのか。祖母の身に何が起こったのか。類似する逸話はないか。初めの一年は講義の合間に図書館に通い詰め探したが、思うような事例は見つからない。

 二年目の六月ようやく、変わり者だらけの学部の中でも、トップクラスに変わっている教授に相談することにした。信じてもらえないにしろ、言い触らすような人ではないと判断した。



「それは、水の精だね」

 民俗学の教授、実方さねかた佐和子さわこは乱雑に髪をまとめながらそう言った。

「水の精、ですか?」

 水妖を思い浮かべた。日本では河童やアマビエなどの異形のイメージが強い。川姫や濡れ女など人間の女の形をしたものは調べ尽くしたつもりだった。

「西洋の伝承だ。フリードリヒ・ド・ラ・モット・フケーの小説『ウンディーネ』、パラケルススの『妖精の書』に記載される水の精霊」

 教授が水の精霊の逸話について曰く。

 騎士は水の精霊である乙女と出会い、愛を交わす。乙女曰く、他の誰とも結婚せず、一人にだけ愛を捧ぐなら愛に応えるが、約束を破り誰かと婚姻を結んだなら、騎士は三日後に死ぬことになる、と。

 王は騎士に人間との結婚を命じた。騎士の不実を乙女はなじり、死の宣告を受ける。披露宴の最中、死の宣告のしるしである乙女の片足が天井から現れ、その三日後に騎士は命を落とした。

 天井から現れる乙女の片足。池から生えた女の白い足が脳裏によぎる。

「……確かに、似ていますね。特に三日後に死ぬところが。川姫や濡れ女よりはピンときます」

「騎士が望めば、乙女はどこにでも現れたと言うが、君の場合はどうかな?」

「ありませんね、一度も」

 望んだことはあったかもしれない。女が語った祖とは、祖父のことだったのだろうか。祖母の最期に、一体何が起こったのか。聞きたいことは山ほどあった。だが、女が私の前に姿を現すことはなかった。

「水の精は水があるところにならどこにでも現れる。例えば上下水道、何ならペットボトルの水の中から。現代において水の精から逃げることは不可能だ。君の祖母は池から君を離そうとしたようだが……」

 無駄だった、とは言わなかった。

「でも、西洋と言うことはキリスト教圏の話ですよね? そんなのが日本にいます?」

 ましてやピンポイントに祖母の家に。

「君は祖父母の家を描写する時に『床の間と、異様に大きなアンティークの柱時計』と言ったね。大抵の場合、田舎の家は『床の間と仏壇』がセットになっている。君の記憶の中の家に、仏壇はあったかな?」

「……ないです」

「ならば、君の先祖の誰かに着いてきたんだろう。北米かどこかの伝承に、異類が海を渡った話があったはずだ。日本にいてもおかしくはないんじゃないか?」

「そんな、バカな」

「バカなも何も、実際死の宣告を受けているわけだからね。いい加減現実を受け入れたまえ」

「死をですか?」

「バカ、現実だけでいい。なに、対処法はなくはない。水辺で乙女を罵ると、水に帰らなければならず、魂を失うという。しかし夫が他の女を愛した場合、夫を殺さなければならない。何故なら水の中で彼女は生きているから。重婚になってしまうのだ」

「……乙女と結婚して一生独身でいろとか言いませんよね?」

「それも一つの手だ。だが、婚姻が成立する前に、乙女を水に帰してしまえばいい。十五の歳月を迎えて、と言ったね。今君は何歳かな?」

「……明日で、二十歳になりますね」

「…………さらばだ、君のことは忘れない」

「諦めやがった!」



「そもそも、何故結婚なんでしょうね」

「水の精の場合は、魂の獲得のためだろうね。形は人間に近しいが、水の精は魂を持たない。愛を以って人間と婚姻を結び、子を成すことで魂を得ることができる。水の精霊から着想を得て描かれた人魚姫の物語もそうだ。想い人と結婚できなければ、泡となって消えてしまう」

「キリスト教圏では魂がないと天国に行けないんでしたっけ? 動物も魂がないから天国に行けないとか何とか、読んだことある気がしますけど。そもそもクリスチャンでも何でもないので、意味がないと思うのですが」

「君の祖先がクリスチャンだったなら、君もそうだと思っているのではないか? まあ、あくまで水の精の場合は、だ。仮に池の乙女としようか。池の乙女の目的が想い人と添い遂げることだった場合、それ以上でもなく、以下でもない」

「つまり他の女と婚姻するなと言うのは?」

「嫉妬深いだけだね」

「人外重いな……」



 結局、その後誕生日を迎えたが、特に何かが訪れることはなかった。祝杯も上げず、危うく脱水症状で病院行きになるところだった。やはり、気のせいだったのでは? そのまま日常に戻るかと思われた。

 試験最終日のことである。教授に呼び止められた。

「例の出来事があったのが何月頃だったか覚えているか?」

「八月くらいじゃないでしょうか。蝉の鳴き声が夏休みの後半に鳴いているもののような気がします」

「なるほど、合点がいった。君の誕生日ではなく、池の乙女が君の前に現れた日から十五年なのでは? となればまだ猶予はあるはずだ。どうかな、一緒に君の田舎に行くと言うのは」

「願ってもないことです。しかし、家に入れるかどうか分かりませんよ」

「なに、庭が視界に入ればいいだろう。必要なのは『水辺で乙女を罵る』ことだ。思いつく限りの罵詈雑言をノートに纏めてきなさい」

「嫌な宿題だな……」



 祖母の家は××県にある。母のいる施設も同様だ。祖母の家を訪ねるにあたり、一度施設に顔を出すことにした。私が成人したことで必要な手続きもあったが、後見人ならあの家の所有権が今誰にあるのか、知っているはずだと思ったからだ。

 手続きを終えた後、事情は伏せて、祖母の家に行きたいのだと話すと、後見人である所長は私に鍵を渡した。あの重たい門の鍵だ。曰く、祖母が亡くなったことで土地の所有権は母に相続された。とは言え母はあの状態である。私が成人するまで鍵を預かっていたとのことだ。

「何もすぐに行かなくてもいいのよ。それより外で待っている女性は誰? 紹介してよ。早く結婚してお母さんを安心させてあげなさい」

 出会った頃に比べると、所長は幾分目尻に皺が増えていた。私にとって、第二の母のような人だ。できることなら心配させるようなことはしたくないが……。

 実母の様子を見に行く。前回訪ねた時とほとんど変わっていない。相変わらず、窓の外を眺めて、何事か呟いている。彼女も皺が増えた。所長とは違い重力に負けた皺だ。

 母は譫言うゎごとのように繰り返した。の女性と結婚しなさい。

 この場合の普通とは、人間の、という意味だ。……母は、私が人間の女性を連れてきたら、正気を取り戻すだろうか。

 扉を開けると、煙草を吹かせながら教授が待っている。

「教授、お願いがあるんですけど」

「何だ? 条件次第で聞こう」

「それが年長者のすることかよ……。母に会って欲しいんです。母はいつもの女性と結婚しなさいと言うので。嘘でもいいので婚約者になってくれませんか?」

「この際普通の定義は問わないが……。ようは人間でさえあればいいんだろう? 引き受けよう」

「えらくあっさりと引き受けたな」

「なに、魂胆は分かっている。仮に君が死んだところで悲しまない人間であるのが望ましい。そうだろう?」

「分かってるじゃないですか」

「随分薄情な女だと思われているようだが、然もありなん」

 少しくらい否定して欲しかった気持ちもあったが。

「僕が死んだら、論文にしていいですよ」

「バカ、与太話だと思われて学会生命絶たれるだろう。ネタにするなら小説にするね。みんながフィクションだと思うような、ね」


 

「御母堂の反応は薄かったね。やはり普通の女ではなかったのがお気に召さなかったか」

「まぁ、予想通りと言えなくもないです。可能性があればと思っただけで。お付き合いいただきありがとうございました」

 教授を紹介してみたものの、母の反応は相変わらずで、回復の兆しはなかった。これからその根本を絶ったとて、彼女が正気を取り戻すことはないのかもしれない。

「行きましょう」

 未練を断ち切るように、歩き出した。

 施設と母の生家は同じ市内にある。とは言え交通の便は悪く、徒歩で一時間強かかる。教授は車を持っていたが、外車だった。こんな田舎で目立たずに動けるはずもなく、やむなく歩くことになった。

「……前言撤回。クーラー至上主義」

 などと言いながらうちわで生温い風を自身に向けて送っている。こうして見ていると教授としての威厳は皆無だ。

 田園が広がる平野を小一時間歩くと、見覚えのある坂道が見えて来た。急な斜面を少し行ったところに、母の生家がある。

 急に辺りが暗くなる。人の住まない土地は荒れ、木々が生い茂り、大きな影を作っていた。門は赤黒く錆びた跡があった。経年劣化によるものか、母の血痕か。門には縄が掛けてあったが、古く朽ちており、この土地を離れていた年月を感じさせた。

「ここです。中に入りましょう」

「いかにもだな」

 辺りを見渡し、誰もいないことを確認して鍵を回した。長い間人が足を踏み入れていない土地に侵入する。炭の匂いがした。家屋は解体されず、当時のまま残されていた。そのほとんどが既に焼失しているため、面影を感じない。一部の土は黒く変色していた。

「あれがくだんの池だな?」

「……そうです」

 かつて縁側にあった踏石から池の橋にかけて延焼した痕跡が見受けられた。池そのものにさしたる変化はなく、幼い頃と同じように、緑色に濁った水を湛えるのみだ。

 近寄って池の中を眺める。底が見えるほど浅い池だ。当時は底なし沼に見えた。あの時消えたサンダルはどこへ行ったのだろう? 横穴でもあるんじゃないか? そう覗き込んだ時だった。

 突然、何の前触れもなく視界が翳り、重圧感がこうべを垂れさせた。また、白い足が池から生えている。それ以上視界を上げることができない。足首から下は水が濁って見えない。幽霊には足がない、と言うが。その足とはどこからを言うのか。この女に足首から下は存在するのだろうか。女が声を発する。

「あの女は」

「婚約者です」

 そう言った瞬間、息を飲むような音が聞こえた。震えるような声が、言葉を紡ぐ。

「お前の祖は、既に婚姻を結んでいから私との婚姻は叶わぬと言った。だから男が生まれたら婚姻させる契りを交わした。先代は女子おなごしか生まれなんだ。今代、ようやくお前が生まれた。まだ婚姻を交わしていないのなら、契約に基づき、お前と婚姻を交わす。例外は許さぬ」

 悲しみと怒りを孕んだ声だった。空気がずしりと重くなったような、重圧感が身体を襲った。私はそれを振り切るように、目線を上へ向けた。

 美しい、女だった。息を飲むほどに。整った顔。全てを見透すような澄んだ瞳。想像していた和製の幽霊のような、悍ましい姿とはまるで異なる姿だった。

 祖とは、やはり祖父のことだったのだろう。彼女は愛しい男と添い遂げるためだけに、この汚い池に長年身を置いていたのだ。

「貴女は、水の精霊ですね?」

「いかにも」

「私の祖父はクリスチャンだったかもしれません。ですが、僕はそうではない。もしも魂を得ることが目的なのであれば、婚姻を交わしても貴女の目的は果たせない。それに」

 女の身体が強張る。

「——僕は、貴女を愛していない。帰ってください」

 悲痛な叫びが上がる。身も世もなく嘆く、乙女の泣き声だ。乙女から流れる涙は清らで美しく、池の水をも浄化した。乙女が身をよじり、水の中へと消えていく。

 これで、良いのだ。こんな場所で、来るかどうかも分からない者を待たなくても。水の世界へ帰ってしまえばいい。



 乙女が消えてからも、私は乙女のいた中空を茫然と眺めていた。空は晴れ渡り、陰鬱な空気は既に消え去っていた。辺りは静寂に包まれている。

「祖母君の死については分からず仕舞いだったが、一件落着だな。意外と物分かりのいい女だったな。用意した罵詈雑言は必要なかったか」

 少し離れた位置から見守っていた教授は私の顔を覗き込むと、目を丸くした。

「お前、本当はあの女のこと——」

「言わないでくださいよ」

 蝋のように白く細い足。陶器のように滑らかな肌。

 あの日、あの瞬間から、私はあの足に恋をしていたのだ。その美しい爪先に柔らかな接吻することを夢見ていた。

 乙女に望まれて結婚しても、たとえ死んだとしても、そこには安らぎがあったのではないか。

 あの事件からずっと、乙女を追いかけていた。乙女を拒んでまで、生きている意味は、あるのだろうか。

「——帰るぞ。願いを聞いた代わりに研究室の掃除を手伝ってもらうからな」

「……はい」

 かくして、私は恋愛の自由を手に入れる代わりに、初恋を失った。

 生きていく意味は、これから見つけるより他にはないのだ。当面は、教授の雑用をこなしながら、それを探すとしよう。


(了)

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