ひとくちBL
階田発春
美容師の咲山さんは可愛いだけじゃない
「いらっしゃいませ。今日も来てくれたんですね」
美容院「esora(エソラ)」のドアをくぐると、さわやかな金髪の男性がにこやかに出迎えた。ネームプレートには『咲山』と書かれている。
「お席に案内しますね。今日はどのようにしましょうか」
「esora」のリピーターである俺は、行くときはいつも咲山さんを指名していた。
「えっと、ちょっとボサボサになってきたので、整える感じで切ってください」
「かしこまりました。カットとシャンプーですね。それではシャンプー台までご案内します」
咲山さんに連れられて、いつものようにシャンプーをしてもらう。顔に布を賭けられ、ぱしゃぱしゃとシャンプーを粟立てている音を聴きながら、ぼんやり思う。
「(今日も咲山さん、可愛いな……)」
俺が咲山さんを指名するのは、カットが上手いからだけじゃなく、なんと言うか、その、気になっていたのだ。咲山さんのことが。
最初に一目ぼれしたのは、「にへへ」と柔らかく笑うところ。それから、美容師にも関わらず丁寧で、言葉遣いがちゃんとしてるところ。ちゃんとカットの技術があるところ。それから……、
「おかゆいところはございませんかー」
咲山さんの言葉で我に返る。「あっ、ないです」と少しどもり気味に返事をすると、咲山さんはくすっと笑った。ふわっと、さわやかなシトラスの香りがする。
「今日のシャンプーの匂い、いい匂いですね」
「気づきました? これ、いつも御贔屓にしてくれるお客様のために、特別に少しいいものを使ってるんですよ。俺、嬉しい気持ちはすぐ返したいので」
他の皆さんには内緒ですよ? と、咲山さんはハミングするように笑った。
(そんなことされたら、ますます好きになるのに……)
めちゃくちゃ嬉しい反面、俺は少し悩んでいた。美容師である咲山さんとただの客の俺、はたして距離を詰めることは出来るんだろうか……。
「お疲れさまでした」
トリートメントが終わって、カット台に戻る。これからブロー専用のスタッフに代わるので、咲山さんは髪が乾くまでその場を離れることになる。
「ちょっと、咲山さん」
おそらく上司のようなスタッフが、咲山さんを呼んだ。「はい」と軽く返事をして、咲山さんは奥のスタッフルームへ入っていく。
他の美容師にブローをされている間、なんとなく耳をそばだてた。少しきつい口調の上司が、咲山さんを注意している、そんな雰囲気のように聴こえた。
髪が乾いたところで、スタッフが咲山さんにバトンタッチをする。咲山さんはいつもと同じ表情に見えたが、少し目が疲れていた。
「咲山さん……」
俺が思わず呟くと、咲山さんは恥ずかしそうに頬をぽりぽりかいた。
「あれ、バレちゃいました? はは、俺、いつもそうなんですよ。新人で、わかってないことが多くて。上司の地雷踏んじゃって。でもまあ、言われているうちが華なんですよね。ああ、恥ずかしいな。ははは……」
誰も聞こえないような声で呟いて、弱ったように笑った。
「あのっ、咲山さん……!」
俺はスマホ入れに持ってきていたサコッシュから、包みを出した。包みの中には買ったばかりのマシュマロが入っていた。
「あの、これ、あげます」
「え……?」
マシュマロをもらった咲山さんは、目をぱちくりとさせた。
「急にすいません。でも、どうしても、咲山さんの力になりたくて……。甘いものって、大事なんですよ。糖分とって、リフレッシュしてください」
「お客様……」
咲山さんは困ったようににへへ……、と日だまりのように笑った。
「ありがとうございます。……お客様って、優しいんですね」
「(咲山さんが俺に優しいって言ってくれた……!!!!!!)」
咲山さんが切ってくれた頭を振りながら、俺はるんるん気分で美容院を出て歩いていた。
気持ちが届くと、嬉しい。有頂天気分で歩いていたから、俺はつい、気づかなかった。
どん、と肩があたる。振り向くと、そこには黒ずくめの男がこちらを睨んでいた。頬は上気しているので、おそらく酔っぱらっているのだろう。
ふと周りを見渡すと、ここの路地はあまり治安が治安が良さそうな場所ではなかった。浮かれて帰っていたから、気がつかなかった……。
「おい、お前。今ここでお前を殴ってもいいんだからな」
「す、すいません……」
「慰謝料」
黒づくめの男は払え、と言うようにぱっと手のひらを出した。……逃げよう。俺は全速力で駆け出した。……と思ったが、勢いあまって足首をひねってしまった。焦って足がもつれる俺。せせら笑う黒ずくめの男。
もうだめだ、と思ったその時だった。
突然細い足が伸びて、黒ずくめの男の足を払った。よろめいて転ぶ黒ずくめの男。
「てめえ、何しやがる……!」
「さ、逃げましょう」
背後から突然やってきた細身の男は、なんと歩けない俺を、
「よいしょっと」
軽々とお姫様抱っこした。
「……!!」
あまりにも急展開すぎる中で何も言えない俺を、全力疾走で俺を抱えて走る男。やがて、
「ここまで来たなら、もう大丈夫かな」
路地を抜けて、大通りが見えてきたところで、男は俺を抱く力を緩めた。ふと顔を上げると、その人は咲山さんだった。
「さ、咲山さん……!? どうして……」
「言ったでしょ。嬉しい気持ちはすぐに返したい、って」
おどけたようにウィンクをして、また日だまりのような笑顔で笑った。目の前にある咲山さんの顔から漏れる吐息は、ほんのり甘いマシュマロの香りがした。
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