第2話 合言葉

「始まりの鐘が響く世界へ」

レンタルビデオ二本を、店員に差し出しながら若い男性客が言った。

男性店員は顔色ひとつ変えずに

「特急未来?特急過去?」と、訊く。

「特急未来で」

店員は馴れた手つきで、レンタルビデオとチャック付きポリ袋に入った白い粉を黒のビニール袋に忍ばせた。

「3ね」と、店員が言った。

男性客は何も言わずに財布から三万を出して黒いビニール袋を受け取って出ていった。

今にも潰れそうな小さなレンタルビデオ店に、また一人の客が入ってきた。

その客は薄茶色のスーツに、七三で固めた髪型で、べっこう眼鏡を掛けている。

店に似つかわない客に、店員は目を見張った。

「…らっしゃい」

客はビデオには目もくれず、波のように店員がいるカウンターに来た。

「すみません。始まりの鐘が響く世界へ…」

「えっ…」

「始まりの鐘が響く世界へを」

「あっ、えーと、それ単品では渡せないから、何でもいいからビデオを持ってきて」

と、呆気に取られながらも説明した。

「いえ私は、始まりの鐘が響く世界へ。を、求めてます。他のものは要りません」

「いやーだから、それだけじゃ渡せないのは、分かるでしょ」

「いえ、分かりません。ここにあるのは知っています。始まりの鐘が響く世界へ。を、ください」と、微動だにせずに求めた。

店員は、客の不気味な雰囲気に「分かったよ。売るから、とっと帰ってくれ」と、言った。

売る。という言葉に、無表情だった客の口角が上がった。

「で、特急未来?特急過去?どっち?」

客は、また無表情になった。そして口を閉ざした。

「あのさ、未来と過去どっちがいいのか言わないと分からないだろ」

スーツの客は、べっこう眼鏡の奥からギラリとした眼で、店員を見つめている。

「あんた未来と過去が、分かんないのか?未来がアップで過去がダウンだよ。で、どうすんの?」

「未来…」

「未来ね!」

「過去…」

「は?なに、両方ってこと?」

「私は思います。未来も過去も一緒だと」

「…は?あんた、違うものやっているのか?」

「未来・現在・過去は生きている中で、同じ空間にあるものです。ですから未来も過去も一緒なのです」

「意味分からないこと言うなら、帰ってくれ!」と、怒鳴って、追い払おうとした。

だが、客は動じずに話し続ける。

「今、貴方と話しているこの時は、未来ですか?現在ですか?過去ですか?」

「現在に決まってるだろ!もう帰れよ」

「本当に現在だと思いますか?未来でもあり、過去でもあり、現在でもあるのではないでしょうか」

「あーもう!店長!やべー客いるから、こっち来てよ!」と、バッグヤードに向かって叫んだ。

そして振り返ると、目の前に居たスーツの客は、忽然と消えていた。

「えっ…」

店員はカウンターから身をのりだして、辺りを確認したが、誰もいなかった。

「おい、どうした?」

と、言いながら、バッグヤードから店長がきた。

キョロキョロしながら口をパクパクしている従業員を見て、店長は鼻で笑った。

「なんだよ、金魚の真似か?」

「い、い、いま、客が、消えたんすよ!」

「は?消えた?」

店員は、頭を激しく上下に振った。

「何言ってるんだ。客が消えるわけないだろう…まさか、お前、売り物に手を出したな!」

「いや使ってないすよ!」

店員は必死に、今の出来事を説明した。そして客の容姿を言うと、店長の顔色が真っ青になっていた。

「…店長?大丈夫すか?」

「あぁ…まさか、あいつが来たのか…」

「あいつ?あいつ、って誰です?」

店長は、カウンターに置いてある煙草に手を伸ばした。

そして火を付けると、深く吸い込んで、ふぅーと吐き出した。

「俺とあいつは大学の映画サークルの仲間だったんだよ。お互い映画が大好きで、映画監督になる夢を持っていたけど、あいつに会ったなら分かると思うけど、めんどくさいタイプだろう」

「そっすね」と、言って、苦笑いした。

「だから、なかなかあいつの考えが受け入れてもらえなくてな…けどよ、俺はあいつの考え方が気に入ってて、一緒に映画を作ったんだよ。そのタイトルが【始まりの鐘が響く世界へ】だ」

「合言葉…」

「最初で最後になった思い出の映画だ。だから合言葉した」

「最初で最後ってことは…」

「あぁ、随分、昔に死んだよ」

「やっぱり…」

店員の血の気が引いていた。

「あいつが死んで、もう三十年近く経つのに、なんで今日来たんだろうな…」

「さあ…てか、その合言葉、もうやめません?」

「ん?なんで?」

「また来たら怖いじゃないっすか」

「また来たら、すぐ俺を呼んでくれよ。久しぶりに会って話したいからよ」と、言って、バックヤードに戻っていく。

嬉しそうな店長の後ろ姿を見ながら店員は

「……勘弁してくれよ……」と、呟いた。

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