第1話 悲劇から始まるバレンタイン

 2月の穏やかな小春日和の朝、美羽がいつものように教会の早朝ミサを終え寮へ戻ろうとしていた長い廊下の途中で、後ろからポンと肩を叩かれ驚いて振り向いた。


「美羽、来週はバレンタインデーがあるでしょ? チョコをあげる予定でもあるの?」


 美羽と同じ教会の大学寮にいる同学年の木村紗枝きむらさえだ。



「紗枝! あぁ、そういえばバレンタインデーのこと、すっかり忘れてた。そういう紗枝は?」


「私のことはいいから。美羽は噂によると、カッコいい芸能人の彼氏がいるらしいね?」


「え? どうして、それを……」



「あ~、やっぱり! この間テレビに出てた『独身貴族』の裕星でしょ? ただの共演者じゃないと思ったのよ」



「でも、あれは……」


「隠さなくたっていいよ。絶対に他の人には言わないから大丈夫よ! でもさ、海原裕星かいばらゆうせいが彼氏だなんて羨ましいわ! 私なら絶対周りに言いまくっちゃいそう。あの時出会って運命的な縁があったんだね?」



「(出会ったのはもう少し前なんだけどね……)――そ、そうね、私たちは縁があったんだと思うわ」



「わあ、だって! ご馳走様! でも、芸能人はスキャンダルが多いから気を付けてよ。裕星に限ってないとは思うけど、遊びでモデルとか一般人と付き合うタレントって割と多いみたいだから」



「遊びだなんて、裕くんと私はそんな……」



「あ、ゴメンゴメン、言い過ぎた。まあ二人はちゃんと信頼し合ってるでしょうから安心よね」


 美羽は紗枝の悪気ない言葉にも傷ついていた。


 裕星たちのような売れっ子タレントは、必ずこういう印象をもたれてしまいがちだ。


 ──何もしていなくても、誰かがそんな事件を起こしたりするたびに、まるで他の皆もそうであるみたいに思われちゃうのね……。



 部屋に戻った美羽は裕星にメールを打っていた。実は来週、裕星と久しぶりに逢う約束をしていたことを思い出したのだ。


 <裕くん、イタリア旅行以来忙しくなってなかなか会えなかったけど、元気にしてる? 来週は予定通り会えるかな? もうすぐバレンタインデーでしょ。またプレゼントを交換しようか? 何が良いかな? リクエストがあったら教えてね。>


 しかし、その日、裕星からは返信も既読すらもなかった。





 翌日、美羽は久しぶりの休みに紗枝と街に出かける約束をしていた。冬物がセールになっている今、裕星に会うための新しい服を買いたいと思っていたのだ。


 街に出ると、ウィンドウの中に装飾されているのは殆どがバレンタインデーを意識したものばかり。

 チョコを持ったマネキンや、プレゼントの大きな箱に入ったマネキンが、ハッピーバレンタインと書かれた派手なリボンにグルグル巻きにされているものもあった。



「街はバレンタインデ一1色ね!」美羽がため息を吐いていると、


「ねえ、美羽。バレンタインデーの由来ゆらいって知ってる?」

 隣りを歩いている紗枝が訊いた。



「バレンタインデーの由来? 詳しくは知らないけど、バレンタインさんって人が作った日なんでしょ?」


「そうだけど。そのバレンタインさんがこの恋人達の日を作るまでにすごくご苦労があったそうよ。まさに命を掛けた、ね」


「命がけで? そんなに大変なことがバレンタインデーの由来なの?」



「そうみたいね……」

 紗枝は自分のケータイを出して、検索したものを見せた。



【ローマ皇帝クラウディウス2世は戦士の士気の低下をおそれて兵士たちの結婚を禁止した。

 ヴァレンティヌスはこの禁令に背いて恋人たちの結婚式をおこなってあげたために捕らえられ処刑された。

 彼は、結婚したばかりのカップルに自分の庭から摘んできたばかりの花を贈っていた。

 ヴァレンティヌスが監獄かんごくに居たとき、看守かんしゅ召使めしつかいの盲目の娘が監獄の彼を訪れては説教を聞いていたとき、娘の目が見えるようになった。

 この奇跡を信じた彼女の家族がキリスト教に転向したため、皇帝は怒って彼を処刑した。

 処刑の前日に彼がこの娘に宛てた手紙は「あなたのヴァレンタインより」と署名されていた。

 ウァレンティヌスは、恋人たちの守護聖人として崇敬すうけいされてきた。

 彼の殉教じゅんきょうの日、2月14日は、彼の名をとってバレンタインズデーとされている】(バレンタインデーWikipediaより参照)



「――そんな悲しい由来があったのね。でも、何も悪い事をしていないのに、愛する人達の幸せのために働いて殺されてしまったなんて……あまりにも悲しすぎる」



「本当よね。だからバレンタインデーは本当に神聖しんせいな日なんだと思う」


「でも、なんで女性が男性にチョコレートを贈る日になったの?」


「それはね……」


【1932年、モロゾフが日本で初めて〝バレンタインデーにチョコレートを贈る〟というスタイルを紹介。「欧米では2月14日に愛する人に贈りものをする」という習慣を米国人の友人から聞き知った創業者が、この素晴らしい贈りもの文化を日本でも広めたいと考えたことがきっかけ】(モロゾフHP参照)


「……というわけよ」



「へぇ、紗枝ってすごい勉強家ね。私なんて調べてみようともしなかったわ」


「っていうか、それ昨日にわかにネットで調べた情報だけどね」エへへと笑った。



 二人が談笑しながらショップを回っているとき、本屋の店先にある週刊誌の広告の一際ひときわ大きな見出しに二人の視線は釘付けになってしまった。




『深夜の密会 モデル美女をお持ち帰りして半同棲──』


 よく見かける週刊誌のくだらない熱愛定型文だ。しかし、問題なのはその後に続けて書かれた赤く大きく書かれた名前だった。



『ラ・メールブルーの海原裕星』とあったからだ。





「――裕星って、美羽の彼氏のことでしょ? どういうこと? 美女ってまさか美羽のこと?  でも、モデルじゃないわよ」



 美羽は言葉が出なかった。――まただ。そう思っただけだった。


 これまでに幾度いくどとなく裕星はガセネタを出されては見知らぬ熱愛彼女を増やされ続けてきた。

 少し落ち着いたと思う頃、映画やドラマの主演が決まる度に乗っかり商法で、すぐにどこぞやの名前も知られていないモデルとの熱愛記事を出されるというイタチゴッコだった。


 美羽の方は、記事が出される度にショックは大きいものの当然信じてはいなかった。

 今回に関しても裕星がまた新しい仕事が発表されるからだろうと思っただけだった。

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