第68話
「……本当に、なんだんだ、この状況は」
俺は今、非常に困惑……もういい。そんなものはすでに通り越している。
そんな、半ば諦めに近いため息を吐く俺は、どういうわけか先生の自宅のキッチンに立っていた。
あの後、先生を送り届けたまではいい。
だが先生は、玄関に腰を降ろした途端「腹減った」と、ぐぅ~と鳴るその腹を抑えながら言った。飯を食ったら酒が入らなくなるという理由で、ほとんど食べていないのだとか。
本当にどうしようもない。俺は知ったことではないと振り返り帰ろうとしたのだが、先生が俺の服を掴み「こ、こんな状態で飯なんて作れるかっ。頼む、なにか作ってくれっ!」と懇願してくるものだから、仕方ないとつい足を止めてしまったのである。
春花や姉さん……それから光に葵さん、先生といい、どうにも女性の頼みは断りづらい。そんな俺は甘いのだろうか。
「というか、ここで断ったりしたら休み明けになにされるか、わかったものじゃないからな」
きっと、あの意味不明な名称のハリセンで一刀両断されるに違いない。荒々しく恐ろしい、鬼神のような形相で。
「ん? ハリセンに、鬼神?」
はて、つい最近、それに似たような並びの言葉をどこかで聞いた気が……。
なにかが引っかかる。しかしその思考は、ぷしゅぅと噴き出した鍋の音で霧散した。俺は慌てて火を止める。
蓋を開ければ、鍋には冷蔵庫にあった余りもので作られた、かに玉雑炊もどきが美味そうに湯気を立てていた。
「冷蔵庫開けた時は驚いたが、なんとかなったか」
なにせビール缶数本に、つまみの缶詰と卵が1パック。あとは棚にチルドの米。これでどうやって生活しているのかと思うほどの内容だった。その中から使えそうな蟹缶と卵を材料に、簡単だが雑炊を作ったのだ。
それに、雑炊なら胃が弱った先生でも食べやすい。俺は居間の机に突っ伏している先生の元まで、鍋ごと雑炊を運んだ。
「先生、できましたよ」
「うぅぁ……あぁ、ありがとう」
先生は苦しそうに顔を上げると、目の前に置かれ鍋に目をやる。
「雑炊……蟹か、これは?」
「はい。冷蔵庫に蟹缶があったので」
「み、見たのか? あの中を……」
「見なければなにも作れないですからね」
「……恥ずかしいものを見せたな」
「いえ、そんな」
恥ずかしいのは冷蔵庫の中ではなく、これまでの醜態では? 飛び出そうになったその言葉を、俺はぐっとこらえる。
「しかし、なんだ。見事なものだな。あの中から、こんな美味そうなものを作れるなんて」
「別に大したものではないですよ。鍋に材料入れて煮ただけですし」
「私はその大したものではない、というものが作れないんだが」
「……あぁ」
この人もか。
先生も光と同様、1人暮らしに必要な料理という技術が欠けているようだ。あの冷蔵庫の中身を見れば、なんとなくそんな気はしていたが。
自分で言って悔しがる先生に、俺はある提案をする。
「これから料理を覚えてみては?」
「出来ると思うか?」
「大丈夫ですよ。それに、やる前から駄目だと決めるのはよくないですから」
「……そう、だな。少し、覚えてみるか」
「その意気です」
なぜだろう。俺は今、とても感動している。
あの先生が素直に俺の言うことを聞いてくれたのもそうだが、ようやくこの提案に耳を貸してくれる人物が現れるとは。光とは大違いだ。
「まぁ、それはこれからゆっくりと覚えていけばいいので。取り合えず、冷めないうちにそれ食べてください」
「ああ。では、いただきます」
手を合わせ、先生はスプーン片手に雑炊を食べ始めた。
「ふぅ、ふぅ……はむ」
鍋ごと持ってきたから、出来立ての雑炊はまだ熱い。息で冷ましてから口に運ぶ。租借すると呑み込み、先生は感嘆の声を漏らした。
「うん、美味いな」
「口にあってよかったです」
「いや、本当に美味いよ。まさか逢沢に、こんな特技があったとはな。意外だ」
「まぁ、知り合いの世話してたら、いつのまにか身についてたというか」
「知り合い?」
不味い、つい口が滑った。先生は知り合いという単語を聞き、不審な視線をこちらに送る。
「知り合い、というのは、この前お前を連れて行った人間か?」
まだ記憶に新しいから、先生は光のことを連想したようだ。
黙る俺をじぃっと見て、しかし途端に息を吐くと、止めていたスプーンを再び動かし、追及するような空気を霧散させる。
「そう警戒するな。前にも言ったが、別にお前のことを咎めるつもりはない」
「はぁ……」
先日と同じで、先生はこのことについてはなにも聞かない。
「それは、どうしてですか?」
「……そうだな。飯も作ってもらったし、軽く話すか」
立ち上がり、先生はふらふらした足取りで冷蔵庫まで向かって、中からビール缶を取り出した。俺は呆れて言う。
「まだ飲むんですか?」
「酔ってなきゃ、こんなこと生徒に話せないからな」
先生は手に持つ感をひらひらと振って見せる。席まで戻ると、プシュっと音を立ててプルタブを開け口を付けた。
「ぷはぁ……そうだな……」
なんどか喉を鳴らし、アルコールの匂いが混じった息を吐いて、思い出すように上を見上げる。
「前にも言ったように、私は学生時代、あまり褒められたことをしてこなかった。正直、荒れていたと言ってもいい」
「荒れて、いた?」
それは今もだろうと思ったが、余計なことを挟まず黙って先生の話を聞く。
「ああ。そんな私を更生させてくれたのが、橘先生……鈴華学園長のお母さまだ」
「ほぅ、そんなことが」
「そうだ。だから私は、橘先生にあこがれて、教師になろうと思ったんだよ」
「なるほど…………ん? ということは、先生は桐生ヶ丘の生徒だったんですか?」
「入学時の自己紹介で言ったと思うが?」
「すいません。先生もご存じの通り、なにも聞いてなかったので」
「……まったく、お前という奴は」
呆れてため息を吐くと、先生はまた缶に口を付ける。
「話がそれたな……まぁ、荒れていたといっても、そう悪いことばかりじゃなかったよ。仲間もいたしな」
「仲間、ですか?」
俺は自然と、自分の仲間である光たちを思い浮かべる。
先生も自分の仲間であった人たちを思い出しているのであろう。缶の飲み口を憂いた瞳で見て、口元には笑みを浮かべていた。
「だからかな。この前来た奴も、多分お前の仲間なんだろうなと、そう思っただけだ。違うか?」
「……いえ、その通りです」
俺は迷わず答えた。
「先生にとって、その仲間は大切な存在だったんですね。顔見ればわかります」
「……そうだな、大切だったよ。お前も、自分のピンチに駆け付けてくれる。そんな仲間を大切に思え」
先生の言葉に、俺は深く強く頷く。俺のピンチに駆け付けてくれたあいつらは。俺に居場所をくれたあいつらは、紛れもなく大切な存在だと。
「ふふ。いいな、やっぱり。仲間というのは」
先生は頷く俺を見て、目を細めて微笑んだが。
「……私も、今度また久々に……会って……みる」
やはり、相当酒が回っていたのだろう。言葉が途切れ途切れになって船を漕ぎ始め、缶を手に持ったまま机に突っ伏し眠ってしまった。
「だから、そんなになるまで飲むなと言っただろうに」
俺は苦笑し、後片付けをしてから先生を担ぎ上げると、ベッドの上にそっと寝かせる。
流石に着替えさせたりはしなかったが、布団だけはかけておき、今度こそ帰ろうと玄関へと向かうのだが。
「逢、沢……」
「ん?」
呼び止められたので、立ち止まって振り返る。
「今日は……ありが、とう……すぅ、すぅ……」
どうやら寝言だったみたいだ。
寝ている時まで律儀な人だなと、少しおかしくて俺は微笑む。
そして、気持ちよさそうに寝息を立てている先生に向かって。
「どういたしまして」
と小さく呟き、明かりを消して部屋を出た。
* * * * *
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