第43話


 予鈴が鳴る前の廊下は、生徒たちの談笑の声であふれてにぎやかだった。その中でも、1年B組の教室だけは、異様な騒がしさで他より目立っている。


 なにかあったのだろうか。俺はちらりと中の様子を窺った。


 目に飛び込んできたのは、泣きじゃくる日向と雀。そしてその2人に抱き着かれ、おろおろとした桜井の姿だった。


「ごめんね春花ちゃんっ、私があそこで帰っちゃったばっかりにっ」


「……ぐすっ。ごめんね。私、怖くて見てることしか……うぅ……」


「あ、あの2人とも、大丈夫だから。怪我とかもしてないし」


 ああなるほど。どうやら桜井は、日向にも昨日なにがあったのかを話したらしい。なにも知らないクラスメイトたちも困惑しているし、それでこの騒ぎか。


 テツとトワはどうだろうか。


 2人は少し離れたところから女子3人の様子を、これでひとまず一件落着かと見守っている。口元はわずかに苦笑いを浮かべていた。


 けれど、テツがふと視線を入口の方に移すと、俺と目があう。ちょいちょいと手招きされれば、俺は自分の席へと向かった。


「タツも来たな。おはようさん。やっぱ全員揃わねぇと、締まりが悪ぃかんな」


「リュウくんおはよぉ~」


 テツがかっかと笑い、トワが気の抜けた挨拶をする。いつもの朝の光景だ。


「ああ、おはよう。今朝は随分とにぎやかだな」


「当事者がなに言ってんだよ。それより……よくやったな」


「……あぁ、まぁな」


 俺は微笑み、簡潔に返した。


「やけにあっさりしてんな?」


「特段、誇ることでもないからな」


「んなことねぇと思うけどな。結構大変だっただろ? 桜井は大丈夫だったみてぇだけど、お前は怪我とかしてねぇか?」


「脳震盪を起こしたくらいだ」


「脳震盪って、お前……」


 テツは表情を引きつらせる。なんだ、脳震盪くらい普通だろ。


「ま、まぁお前たちが無事ならそれでいいや。これ以上は聞かねぇよ」


 テツはそう言って話題を変える。どうやら昨日のことについては詮索しないでいてくれるらしい。


 そして、予鈴まであと数分といった頃。がやがやと喧騒に満たされた教室に、バンッと扉が開く音が響き渡る。途端にクラスメイトたちは静かになり、弾かれるように音のした方に視線を向ける。当然、俺たちもだ。


「龍巳、いるかっ?」


 扉を開けて中に入ってきたのは葵さんだった。急いで来たのか肩で息をしている。


 しかし、なぜこんな時間に? もうすぐ予鈴だぞ。


 葵さんは息を整え、俺を見つけると、驚くクラスメイトたちには目もくれず、一直線に俺の元へと向かってくる。


「どうした葵さん。もうすぐ予鈴がな――ぶふっ!」


 なにごとかと訝しむ俺の声は、途中で苦悶の声へと変わった。突然、葵さんに思い切り抱きしめられたのだ。


 豊かな双丘が真正面から顔面に突撃してきたため、頭がもげてしまうかと思うくらいの衝撃が首を襲う。


「龍巳っ!」


「むぐっ……」

 

 男女の熱い抱擁。思春期真っ盛りの高校生が湧きたたないはずもなく。女子たちの「きゃぁぁっ!」という黄色い声と、男子たちの「ぎゃぁぁっ!」という耳障りな声がうるさく響く。


「ああ、龍巳。よかった。無事そうだな」


 だが葵さんはそんな声には耳もくれず、放すものかと俺をきつく抱きしめる。姉さんに負けず劣らずの柔らかい感触に俺は落ちる寸前だ……意識が。


「お前がなに者かに攫われたと聞いた時は、本当に焦ったぞ」


 その後の話も聞くと、どうやら葵さんは、俺が光に攫われたという間違った話を、今朝方に職員室で小耳に挟んだようだ。


 詮索はしないと言っていたが、そういったところまではどうしようもない。しかも人伝に辿っていけば、噂話なんて拗れに拗れまくるのが世の常だ。

 

 俺はなんとかその間違いを正そうとする。


「ん、んんっ……」


 しかし、未だに顔を圧迫されているため声が出せない。早く抜け出さなければ、そろそろ息も限界に近かった。苦し気に身じろぎしていると、不意に第3者の声が入ってくる。


「ちょっと葵っ、龍巳になにしてるのよっ⁉」


 声を荒げて現れたのは姉さんだった。これは、助かったか?


「離れなさいよっ、それに、もう予鈴鳴るわよっ」


「そんなもの、構うものか。心配で仕方なかったのだぞ。もう少しだけ、龍巳を――」


「ふざけんじゃないわよっ」


 救いの手を差し伸べられると思っていたが、とんだ援護射撃だった。姉さんが俺を引っ張り、負けじと葵さんも抱き寄せる。先程よりも密着度合いが酷い。


 不味い、意識が遠のいてきた。


 目の前に靄がかかり、いよいよ冗談を言ってはいられなくなってきた頃。俺の願いが届いたのか、この状況から救ってくれる福音が鳴り渡った。


 予鈴だ。今日ほどこの音が綺麗だと思ったことはない。


「全員席に……ん? おい、そこの2人。クラスどころか学年も違うだろ。さっさと自分の教室に戻れ」


 絶対に放さないと、俺を綱に見立てた合戦を繰り広げていた2人も、柊先生が入ってくると渋々自分の教室へと戻る。俺も大きく深呼吸をして、数分ぶりの酸素を肺一杯に吸うと、よろめきながらも席に座った。


 すると、同じく隣に腰を降ろした桜井が、顔を近づけ、おずおずと耳打ちをする。


「たっくん、今日の放課後、屋上に来てもらってもいい? 大事な、話があるの」


 真剣な声音だった。俺はとうとうこの時が来たかと、瞳を伏せて頷いた。


「……ああ。わかった」


* * * * *


 放課後、俺は桜井の待つ屋上に向かおうと、やや浮足立った足取りで階段を上っていた。


 流石にこの時間になるとこの辺りには人はいない。皆下校したり部活に励んだりと各々の時間を過ごしている。


 だからだろうか。しんと静まり返った空間に、俺の足音がやけに大きく響いていた。


「大事な話、か……」


 屋上扉の前まで来ると、視線をドアノブに落として呟く。


 聞くとは言った。だが、いざこの時になるとやはり緊張はする。俺がこの調子なのだ。桜井の胸中は計り知れない。こっちがよそよそしい感じだと、上手く話せないだろう。


 俺は平常を保てるよう、1度大きく深呼吸をすると、よしと毅然とした表情で意気込み、少しガタついたドアノブを回した。


 ガチャリと錆びついた音を立たせて扉を開ければ、外の風が中に吹き込んでくる。もう4月も下旬。その風は暖かい。


 今まで薄暗い階段を上ってきたせいか、茜色の夕陽が眩く映る。俺は思わず目を細めた。


 やがてその光にも慣れてきた頃、ようやく視界がはっきりする。


 すると、目の前に人影が。


「たっくん……」


 それは、夕陽に照らされて佇む桜井の姿だった。


「ごめんね、急に呼んじゃって」


「いや、謝ることじゃない。大事な話があるんだろ……聞くと、言ったからな」


「……うん。来てくれて、ありがとう」


 震える声。身をすぼめて、心臓を落ち着かせるよう胸に手を当てている。やはり、緊張しているのだろう。


「それで、話とは?」


 俺がきっかけを作ると、桜井は唇をきゅっと噛み締め、今にも泣き出しそうに顔を歪ませ、思い切り頭を下げた。


「――ごめんなさいっ!!」


 気弱な彼女から出たとは思えないくらいの、大きな声。後悔や必死さ。あらゆる感情が滲んでいて、それが俺の胸に届き、心を揺さぶられる。


「……桜井」


「あの時、たっくんのこと傷つけて、約束破っちゃって、本当にごめんなさいっ!」


 桜井はただひたすらに謝り続ける。頭を下げるその姿に、俺は胸を締め付けられるような痛みを覚えた。


「頭を上げてくれ。あれはお前が悪いわけじゃないし、それに……約束を破ったのは、俺もだろ」


 俺が突き放した。俺も傷つけた。


 だから、桜井がそこまで思い詰めるようなことではないと諭すが、彼女は頭を振るだけで上げようとはしない。


「私、たっくんがあの約束を大切にしてくれていたこと知ってたのにっ。いつだって私の隣に居てくれていたのにっ。それなのに、自分が傷つきたくなくて、たっくんのこと裏切っちゃったっ。いつも隣に居てくれたからそれに甘えちゃって、たっくんがどんな気持ちで私と一緒に居てくれてたか気づいてなかったっ!」


 桜井は今までため込んでいた思いを止めどなく吐き出す。その目からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。


「いつかちゃんと謝ろうって、そう思ってたけど勇気が出なくて長い間謝る事が出来なかったっ。でも、このままじゃ嫌だってっ……ぐすっ、今更許してもらえるなんて思ってないっ。そんな資格ないってわかってる。でもこれだけはっ……私のこの気持ちだけは伝えたいのっ!」


 懺悔の言葉を言い切ると、桜井は頭を上げてごしごしと涙を拭う。


 悲しみに揺れた、しかし真剣な眼差し。きっと本当に伝えたい気持ちは、これだろう。


 ……1度目も、こんな表情だったな。


 そして彼女は、その言葉を口にした。


「あなたが、好きです」

 

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