第7話

「さて、腹も満たした事だし、そろそろお前の献身に報いる頃合いだな」

 食事を終えて満足した女は、ベッドに腰かけてそう切り出した。

 涼太は床にクッションを置いて座り、女をジト目で見上げる。

「そう思うなら出てってくれ」

「つれない事を言うな。訊きたい事があるのではないのか?」

「それは、あるよ」

「だろう? さぁ、なにが知りたい?」

 会話の主導権を渡された涼太は、頭に浮かんだ疑問を並べてみる。

 その中で最初に訊くべきはなにか。

「昨日のあれ……あれは、なんなんだよ?」

「あれ、と言うと……あぁ、あれの事か」

 僅かに頬を赤らめる涼太を見て、女は意地の悪い笑みを浮かべる。

 そして赤い舌を覗かせ、唇を湿らせた。

 何気ないような仕草だが、涼太にとっては昨夜の事を鮮明に思い起こさせるものだった。

 気を失う直前、目の前の女に唇を奪われたのだ。

「別に色情からしたわけではない。あれはな、お前の知識に触れるための行為だったのだ。いわば、そう……魔術、儀式とでも思うがいい」

「魔術って……ふざけるな。いくらなんでもバカにしすぎだろ」

「ふざけてなどおらぬ。そのおかげで現代というものに対する知識の補完がいくらかできたのだぞ? 全てとは言い難いが、日常生活はそれなりに送れるだろう」

 疑う事しかできない涼太に対し、女は真剣そのものだった。

 突拍子もない話で誤魔化すつもりかと、涼太は訝しむ。

 が、そもそも彼女自身が突拍子もない存在も同然だ。

 涼太はひとまず疑惑を棚上げし、女に話を合わせる事にした。

「わかった。仮にあれが魔法……じゃなくて魔術? とかいうのだとして、なんの意味があったんだよ?」

「言っただろう、知識の補完だと。わかりやすく言うのなら、そうだな。唇を重ねる事で、お前の意識に同調した、とでも言えばわかるか?」

「意識に同調……ん? 待て、じゃあ俺の記憶を覗いたって事か?」

「そう考えてくれていい。主な目的は現代に対する情報を取り込む事だったが、都合よく情報だけ、というわけにはいかなくてな」

 理解を拒みたくなるような話だが、涼太はある事に思い当たって顔を上げた。

「俺の名前……だから、知ってたのか?」

「その通りだ。他にもいくらか……お前の現状はそれなりに把握している。どうして一人暮らしをしているのか、もな」

「……お前」

 見透かしたような女の視線に、涼太は唸る。

 涼太がこのマンションで生活を始めたのは、高校一年生の途中からだ。

 この部屋に引っ越す前は、母親と二人で別のアパートに暮らしていた。

 一人暮らしを始めるきっかけになったのは、母親の再婚。

 本来であれば再婚と同時に、先方が用意した新居で暮らす予定だった。

 だがその新居は電車で数駅離れた場所にある。

 転校も視野に入れて話は進んでいたが、涼太はそれを最終的に拒んだ。

 少しの間は新居から今の高校に通学していた涼太だが、色々と話し合いをした結果、学校から比較的近いこのマンションで一人暮らしをさせてもらう事になった。

 友人でも限られた相手にしか話していない、秘密とも言える事情だ。

 それを女は知っていると、笑みを浮かべた。

「大したものではないか。学生という身でありながら働いているのは、その事情があるからだろう?」

「……まぁ、俺の我がままだし」

「だとしても、称賛に値すると思うがな」

「そんなもんじゃない」

「……ふむ。お前がそう言うのなら、それでも構わぬがな」

 この話は終わりだ、と涼太は無言でそっぽを向いた。

 女はその様子を、柔らかな視線で眺める。

「……で? 結局、あんたは何者なんだよ?」

 気持ちを切り替えた涼太は、二つ目の疑問でもあり、一番確かめるべき事を尋ねた。

 女は待っていたとばかりに腕を組み、背筋を伸ばして涼太を見下ろす。

「悪魔、と言えばわかるかな?」

 そして、不敵な笑みを浮かべてそう答えた。

 あまりにも堂々とした態度と物言いに、涼太は呆ける。

 が、すぐに気を持ち直した。

「やっぱりふざけてるだろ、お前」

「そう思うのも仕方あるまい。私が悪魔と呼ばれたのはおそらく数百年も前の話だからな。信じられぬというお前の気持ちも、理解はできる」

「いや待て待て待て! 数百年って、なに言ってんだ?」

「正確な年月は私にもわからん。なにせ、昨日まで封印されていた身でな。だが、百年やそこらの違いに拘る必要はあるまい」

「そうじゃなくて……あぁもう、なんなんだよお前」

 魔術と言われただけでもわけがわからなかったところに、今度は悪魔、そして数百年封印されていたなど言われて、果たして誰がすぐに納得できると言うのか。

 現状では、女の話が本当なのか嘘なのかを確かめるすべはない。

「なんなの、か。実は私にもわからんのだ」

「あのな、これ以上混乱するような事言わないでくれ」

「しかし事実だ。自分が何者なのか……名前はもちろん、あらゆる記憶が閉ざされていてな。わかっている事の方がはるかに少ない」

 女はそう言って、特に悲嘆する様子もなくやれやれと肩を竦める。

 あまりにもあっさりとした態度に、涼太は呆気に取られてしまった。

 もし彼女の話が本当なら、もっと狼狽えてもいいはずだ。

 だが悪魔を名乗る女には、一切そんな様子が見て取れない。

「一応訊いておくが、なにかないか? この土地にまつわる伝承の類は」

「いや、知らない。俺、ここに住んでまだ半年くらいだし」

「そうであったな。だがまぁいい。自分が何者なのかなど、そのうち思い出すだろう」

「随分と気楽に考えるんだな」

「悪魔、だからかもしれぬな」

「……いや、笑えないけど」

「そこは笑え」

「無茶言うなよ……」

 涼太はため息を吐き、まだ冷たいままの麦茶を飲んだ。

 女の話を信じるかどうかを決めかねている。

 頭の中で整理しようにも、どこからどう受け止めればいいのかがわからずにいた。

「とりあえず、あれだ。二度とあの魔術とかいうのはやるな」

「口づけの事か?」

「言い直さなくていい」

「もしや、照れているのか?」

「うるさい。とにかく、わかったな?」

「あぁ、わかっておる。記憶を読むのは本意ではなかった。すまぬ事をした、とは思っておる。誓って悪意はなかったのだ」

「……悪魔のくせに、変なところだけ常識的に謝るなよ」

 涼太はぼやくように言って視線をそらした。

 女の行為に物申したい気持ちはあるが、下手に誤魔化さずに謝られてしまい、ぶつける矛先を見失ってしまった。

 悪意はなかったという女の言葉は、不思議と信じられると思えたのだ。

 そんな涼太の横顔を見て、女は小さく笑う。

「現代の価値観を学ばせてもらったからな」

「……だったら、二度とするな」

「善処はしよう」

 からかうような女の答えに、涼太はジト目を向けて、これみよがしにため息を吐いて見せた。

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