宿なし悪魔は愛が欲しい
米澤じん
第1話
五十メートルをおよそ八秒。
男子高校生の平均タイムより僅かに遅い速度だが、状況を考えれば速く走れていると言ってもいいだろう。
夜の十時を過ぎた住宅街は静かで、もちろん人通りはない。
建ち並ぶ住居からは明かりが漏れ、中から穏やかな団欒の気配が漂ってくる。
が、全力疾走中の彼には一切関係なく、そこに飛び込んで助けを求めるという思考もなかった。
彼――
すでに数百メートル。
彼にとってこれほどの全力疾走は、生まれて初めての経験だ。
つい先日学校で行われた体力テストでも、同じように全力で走りはした。
しかしそれはあくまで記録のためであり、距離も短かった。
すでに肉体の限界は超えつつあり、呼吸もまともにできなくなりかけている。
尋常ではない汗を掻きながら、それでも彼は振り返ることなく、帰るべき場所を目指して走り続けていた。
理由は単純。
決して関わり合いになるべきではない厄介事から逃げるためだ。
冷静とは言い難い頭で、涼太は考える。
思い返してみれば、今日は悪いことが続いていた。
それこそ、目覚めた瞬間から。
寝相が悪かったのか、朝から酷い寝ぐせに苦戦させられたり。
学校では教師の気まぐれで荷物を運ばされたり。
極めつけは、先ほどまでしていたアルバイト。
本来なら今日は休みのはずだった。
授業が終わって友人と遊びに行く予定だったところに、アルバイト先のコンビニから連絡が入り、急遽代理でシフトに入ることになったのだ。
そんな予定外のアルバイトが入った結果、通学にも利用している自転車がパンクしてしまった。
パンクに気づいたのが十分ほど前、つまりアルバイトが終わって帰ろうとしたとき。
当然修理することなどできず、徒歩で帰宅する以外の選択肢はなかった。
不幸中の幸いと言うべきか、自宅であるマンションまでは徒歩でも十五分ほどの距離。
翌日の通学が多少面倒ではあるが、まだ許容できる範囲だった。
しかし最大の不運は、その帰宅途中に起きた。
いつもと変わらない帰り道。
違いは自転車が徒歩になっていたことくらい。
おかしなことになっていたのは、帰り道そのもの。
特に気にすることなく通り過ぎていたその場所に、それはあった。
一目見てわかる、絶対に関わってはいけない厄介事が。
だから彼はそれを見た瞬間、全力で走り始めたのだ。
まさに、脱兎の如く。
もしその場に留まり、なにか不用意なことでもしようものなら、間違いなく人生が狂う。
そう確信させるだけの厄介がそこにはあった。
いや、いた。
「――――っ!!」
うっかり思い出しそうになった光景を脳内から追い出し、涼太はマンションのエントランスに駆け込んだ。
普段ならエレベーターのボタンを押すところだが、今日は躊躇せず階段を目指した。
一瞬たりとも立ち止まってはならない。
一秒でも早く部屋に入り、鍵をかけるべきだ
そうすれば世は並べて事もなし。
明日からも変わらない、どこにでもある生活が送れる。
涼太はその一心で五階分の階段を一気に駆け上がり、三番目の部屋――503号室へと飛び込んだ。
この状況で玄関の鍵をスムーズに開けることができたのは僥倖、本日最大の幸運と言っても過言ではない。
そんなことを酸素不足の頭で考えながら、涼太は玄関に背中を預ける。
下半身が消失したような感覚に襲われ、情けなく尻餅をつく。
一年分に相当するほどの酷使をされた両脚は、生まれたての小鹿そのものになっていた。
だが、それくらいなんてことはない。
とにもかくにも、これで安全は保障された。
あとはシャワーでも浴びて眠ってしまえば、何も見なかったように戻れるはずだ。
「ふむ、ここが貴様の住処か」
心底安堵して油断していた涼太は、その声に飛び跳ねた。
いや、跳ねようとして腰は浮いたが、下半身に力が入らず背中から玄関に思いきりぶつかっただけだ。
落ち着きかけた呼吸も再び乱れ始める。
その元凶はもちろん、聞こえるはずのない声。
耳に心地よい凛としたそれは、女性のもので間違いない。
普段ならなんでもない声だが、今の涼太にとっては不吉の象徴でしかなかった。
「初めて見るものばかりだが、ずいぶんと様変わりしたものだな」
その声は間違いなく、薄暗いままの室内から聞こえてくる。
涼太が必死になって駆け込んだ、絶対に安全であるはずの部屋から。
玄関に尻餅をついたまま、涼太は慄きながらも暗闇を凝視する。
「聞きたいことは山ほどあるが、さて」
美しさすら秘めた声と共に、闇の奥からそれは姿を現す。
「――――っ、な、なな、なんでっ」
それは間違いなく、あれだった。
いつもの帰り道で出くわした、一目見てわかる厄介事。
ほんの一瞬だけ見た――いや、見てしまった姿と一切変わらない。
これ以上ないほどの厄介事――凛とした声の女が、座り込んだ涼太の眼前に立つ。
暗闇に浮かぶ、深紅の双眸。
目を逸らすべきなのに、逸らせない。
酸素がまだ足りないのか、驚きすぎて正常な判断ができないのか、それとも別の理由があるのか。
もはや涼太自身もわからず、茫然と見上げる。
ただ自然と、汗だくの頬が赤らんでいった。
「疑問があるとすれば……ふむ。どうして部屋の中にいるのか、だな」
そんな涼太の変化や戸惑いをどう受け止めたのか、女は得意げに頷く。
「簡単なことだ。向こうから入って来たまでだ。あぁ安心しろ、特に破壊はしていない。わざわざ壊さなくとも、あの程度の障害物をすり抜けるのは造作もないからな」
女はそう言うと腕を組み、唇の端を吊り上げて笑う。
その姿と笑みはまさに魔性であり、逃げることを選択して正解だったと涼太に確信させるには十分すぎた。
「しかし、わからぬ……なぜ逃げた?」
なぜもなにもない。
堂々と仁王立ちして見下ろしてくる女を見れば、答えは一つだ。
あまりにも単純明快すぎて、涼太は僅かながら落ち着きを取り戻していた。
だからこそ意を決して、涼太は唇を戦慄かせながらも、決定的な事実を突きつける。
「お、お前が裸だからだよっ!」
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