Vedete-13:再会にて(あるいは、清廉潔破/ノンヌヴォローソ/逍遥闊歩)

 ……闇が湯に溶けて、そこに俺も溶かされていきそうな感じだ。


 今宵はぬめるほどの満月であったものの、湿る厚き黒雲に遮られ、その形は目まぐるしく変わりつつ、徐々に朧ろとなりている。離れの露天は、石を荒く組んだものに過ぎなかったが、却ってそれが自然との一体感を浸かる者に与えるらしく、薬効と相まってすこぶる人気は高いのだと言う。とは言え夜も更け切った今、月光が上から降り注ぐゆえに際立つ暗闇の中、急な足場を伝ってここまで来る者はそうはおらず、黒く染まりし湯に胸の辺りまで浸からせているのは、おそろしく夜目の利くアザトラくらいのものであった。その闇と静寂に包まれたまま、独り思いを馳せる。


 俺は何を求めていたのだろう。


 詮無き問いは、今や過去形と成り果てた。喪ったものを、取り返すことなど出来ないと分かっていながら、分かった上で、追い求めた。追い求めるという行為自体が、目的だったのかも知れぬ。


 人を、救いたかったのだろうか。救おうとする自分に、何かを見出そうとしていたのだろうか。人と人とがせめぎ合う、この戦いを諫めようとした? 収めようとした? であれば今もまだ争乱は続いている。発端はそして、当の自分かも知れぬ。


 何をやりたかったと、言うのだろう。


 あらゆる答えを浮かべたのちの、詮無い自問であった。


 自らの「能力」にて、色氣使い達はその力を数倍にも巡らせることが出来る。殺戮の波動を。そして殺させた分だけ、自分はのし上がった。一度は祭り上げられ、一度は拒絶されたこの国を、この乱世を。


 そこに求めるものはあったのだろうか。


 自分は乱世の覇者となりたかったのだろうか。統べる存在へと、駆け上がりたかったのであろうか。


 答えが出ないのか、出したくないのか、それすらも分からなかった。ほのかな硫黄の香りを含んだ湯気を体内に取り込むかのようにして、アザトラはもたげていた首を起こし、思い切り空気を肚の底まで落とし込むようにする。と、


「……なかなかに風流よの」


 闇の隙間を擦り抜けるようにして、力の抜けた声が湯面を転がってきたかのように思えた。聞き覚えありと思えた声色ではあったものの、何か受け取る印象が違った。が、その声の主が立てし水音の方へと視線を向ければ、そこに在ったのは朧なる薄い月明かりにその輪郭だけを浮かび上がらせたかのような、しかして光の加減からか滑らかに艶めいて見える裸身なのであった。


「……どうした? 今更おなごの裸なぞ、見飽きたほどであろうに」


 思わず言葉を失った。腰くらいまでの高さの湯面に波紋を広げながら、静かにこちらに向けて近づいてくる。狭まる距離と、流れる雲の合間から差す淡き月光が、その身体を瞭らかにしていく。どれだけの鍛錬を施したのであろうか、しなやかな体躯は無駄の無い筋肉で覆われている。しかしてそれでも尚、アザトラの目を奪うほどの美しき曲線を描いているのであった。


「見違え……ましたな、リアルダ殿」


 せめてだらしなく寄っかかった姿勢は正すべき、と湯の中で畏まりつつも、努めてそのような物言いをしなければ、その姿に見惚れて何か他のことを口走ってしまいそうでもあった。


「無我夢中で戦さ場を駆け抜け巡ってみれば、このザマよ。色氣の力を放ち放たれ、撃ちつ撃たれつで、はは、そなたとあまり変わらぬ様相となったな。しかしてこれも司督の命がため。詮無きことよ」


 その言葉通り、その身体中を巡るのは、アザトラのそれと同じような数々の「傷」の跡。古く皮膚の攣れと化しているものから、未だ生々しく赤黒き瘡蓋に覆われているものもある。どれほどの戦場をくぐり抜けてきたと言うのか。「変わらぬ」などとは畏れ多い。自分のそれなどは「検分」紛いの戯れ事により付きしものでしか無いわけであり、「本物」の前には何も意義を持たぬもののように思えるのであった。


 凪いだ褐色の美麗なる顔にも、左側を覆うほどに黒き布が巻き付けられており、その下の状態も推して知るばかりである。そうまでして、この御方はあの御方の「命」……否、「約束」を果たそうとなされておるのだ。己が筆頭司督と成りし今でも、まるで自らにとって「司督」と呼ぶべき人はその方しかおらぬとでも言わんばかりに。


――この争乱を、乱世を、その力に依りて鎮めてみせよ


 血の気のほとんどを喪いし顔にて、それでも毅然と言い放たれた言葉が、脳裡に甦る。あれは、この自分にも言われし言葉では無かったか。


 ……求めるべきものなど、とうに決まっていた。


「美しゅうお成りになられましたな、リアルダ殿」


 殊更に自分を鎧った言葉であったものの、その真意は変わらぬと自分では思った。果たして、ばーか、という鼻から抜けたる声が降り落ちてきたかと思ったら、激しき水飛沫と共にその艶めく鳶色の右目が眼前に迫って来ている。


「なんじゃ? その他人行儀さは? お主にとっては数多の中の一人に過ぎぬじゃろうが、我にとっては唯一人の男なのじゃぞ?」


 こちらを悪戯っぽく覗き込んでくる瞳には、しかして何がしか濡れそぼる光も確かに湛えておるようで。それにしても外面は……「内面の外面そとづら」も、大層お変わりになられたものよ、とアザトラはむせ返るほどに漂う尋常ならざる色氣、いや「色気」に圧倒され少し身を反らせつつそう思う。


 見違えた、それは確かにそうなのであろう。戦場だけに非ず、この御方はありとあらゆる艱難辛苦をいなしそして薙ぎ倒してきたのであろう。その末に纏いしこの風格。大したものだ、と自然と口許が綻ぶ。今の今までぐずぐずと捏ね回しておった己の逡巡など、如何ばかりのものか。


 胸の内を、一陣の風が吹き抜けたかのように感じた。自分は、自分の進むべき道を探し、そこを行くほかは無いのだと。今まさに、アザトラの凪いだ黒き瞳に、確かな光が宿って見えたのであった。しかして、


「こ、此度はそのぅ……どうも近頃『孔』の具合が思わしく無いゆえ、貴殿に今一度ブチ……あいや『施術』を頼もうと思いて参ったのじゃ。忙しい身の上とは承知しているが、そこをよしなにお頼み申したい」


 眼前で目を逸らされつつのたまわれる、一気に切れの無くなったそのような言葉に、頭の中を疑問が飛び交うのであった。


「それは面妖な。ひとたび開けば、内外よりの色氣の流れは澱み留まることは無きと思うておりましたが……何か、それがしに落ち度があり申したか……」


「ああー、いや、そのぉ、軽微なるものと思われるがのう。ちらと診ていただけたらと思うまでであるよ」


 ここまで来て何やらその妖しき眼光にただならぬ気配をわずかに感じ取ったアザトラでありしが、基本朴念の者である。はぁ、さすれば鼠径部のあのあすこでございまするかな、などとのたまいつつ、では失礼つかまつるとの言葉と共に右掌を上に向けると、気持ち中指のみを持ち上げた独特の型を保ちて湯中の秘中へとその手刀を滑り込ませようとするものの、


「いやいやいや失礼つかまつり過ぎだろ!! あ、いや……いきなりそこは無かろうて。そ、そうでは無くてじゃな……」


 歯切れの悪き物言いは、此方には似合わぬな、などと呑気なことを思いつつ、では何処であろう、とその湯滴を弾きし艶やかな肌の描く稜線のそこかしこを見やるが、そ、そのような釣った魚を見るような目をするでない、と窘められてしまう。そして、


「な、七十一の型……」


 耳元でそう、湿度を含んだ吐息と共に囁かれる。その言葉に、流石でござる、あの時の一度だけで九十六の型全てを覚えておられたか、と脳が色氣の諸々にしか演算能力を振れなくなっている哀しき男はそう勝手に感嘆を覚えたりしているのであるが。なるほど、盲点やも知れぬ。あまり重要では無き箇所と、思い込んでいただけやも。


「……しかれば、舌下に在りし『孔』を我が舌尖にて解きほぐし開く業……『七十一式:深腔吸デュオドーパ』の術式を、これより執り行いまする」


 そ、その業務みたいな言い方やめよッ、と、ふと素に戻ったかのような顔に、その尖らせたる艶めいた唇に。


「……」


 いわく沸いた形容しがたき感情をうまく咀嚼できぬままであったが、身体の方はもう幾度となく繰り返したる術式の挙動をなぞっている。差し入れた一瞬は強張りを見せたその肢体でありしも、整いし鼻から切なげなる吐息をゆっくりと放ったのちは、目の前の強靭さを増した胸板に両手を当て、全身の力を抜きてしなだれかかって来ていた。それを受け止めつつ、しなやかにくびれた腰に腕を回していくアザトラ。しかして、


 これは……試されておるのか? リアルダ殿の舌が執拗に絡みついてきてなかなか先に進めぬ……とのまたしても至極残念な思考を残念脳に浮かばせるばかりなのであった……


 断続的に響く水音。それを吸収するかのように厚みを増してきた黒雲が、二人の姿も月光より遮り隠していく。


 そして、辺りには静寂が訪れた。

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