プロローグ


 世界は静かだった。

夜明け前の、どこまでも青く澄んだ空、不自然なくらいに風も凪いでいて波音一つしない、そこは何者の気配もない瑠璃色の舞台だった。

 深い青を湛える海が見える岬の先端には、一人の男が横たわっていた。

 既にこと切れていた、おそらく数時間前に息絶えたのだろう。

 腹部に大きな傷を受けながら仰向けになっている男。

 しかしその表情は満足気でとても晴れやかに見えた。

 何がその男の身にあったのか、それは最早確かめようがない、果たしてその死を知るものがいるのだろうか、弔いもないままこの地で朽ちていくのだろうか…

 空が白み始めたその時、いつの間にか男の傍らには少女が立っていた。

 ゆるりと屈みこみ少女は男の顔を両手で優しく包んだ。そこにはもうかつての温かみはない…

「ようやく…っ…やっと逢えたね」

 少女はそう呟き、男の厚い胸元に耳を傾けるように顔を埋めた。

 幾時が過ぎたのだろう。

 少女は決心したように立ち上がる。

 大きく息を吸うと、そのまま歌いはじめる。

 それはとても優しくも切なく、悲しくも最後は希望を与えるような、そんな独特な調子の歌だ。

 少女の声は素晴らしく綺麗で遙かに響き渡り、世界のすべてがその歌を聴いているかのようだ。

 少女の表情もまた、とても深い悲しみに溢れていながらもどこか、期待をその奥底に感じさせるものだ。

 静寂が訪れる。

 少女は歌い終わり、涙が一粒…男の頬に触れた。

 その瞬間、世界は命を取り戻したかのように動き始めた。

 鮮やかな海風が少女の長い髪を揺り動かした。

 それと同時に男の体が水色に光りながら、さらさらと消えていった。

 光る水色の粒子が浮かび上がり、空へと戻っていく…

『…きみは誰だい?』

 声が聞こえた、声質からしてそれは男の声だろうか。

「あなたは私をもう知らないよね…っ…でもね、私達はあなたを知っているの…ずっと、前から」

 少女は泣きそうになるのを堪えながら、そう言った。

『そうなのか…きみが俺を弔ってくれたようだね…ありがとう』

 男は既に自らの姿を失くしていたので表情は読めなかったが、その口調はとても優しかった。

『それに、とてもいい歌だった…俺は…この歌を何処かで聴いたような気が…』

「これはね、あなたのために私の大切な人が作った歌だよ♪」

 少女はここで初めて、自然な笑顔を見せた、それはとてもとても綺麗な微笑みだった。

『…そうか、ありがとう』

 男はそれだけ言った、申し訳なさそうな…それでいて嬉しいような

「きっとあの人も喜んでくれてると思う…こちらこそありがとうね」

 少女は両手を組み瞳を閉じる、まるで何かを祈るように…

「ひとつ…聞いていい?」

 少女が微かに言う、それは自分でその言葉を敢えて確かめるような、そんな趣きだった。

「もし、もしもね…私にあなたをここで今すぐに蘇らせる力があるとしたら…あなたはそれを望む?」

 少女は冗談ともつかぬ様子で男に問いかけた。

 ひとかたの沈黙が流れる。

『…いや、厚意はありがたいが、それはこの世の摂理に反するだろうし、俺はここで精一杯生きた…もはや悔いはないよ』

「本当に?」

『ただ…あるとするならば、きみの名前を含めて何か大切なものを忘れているのではないかと思うことだが…それもきっと叶わぬ夢だったのだろうな』

 男は本当に少女にここで初めて逢った、しかし心の奥底で何か感じるものがあるのも事実だった。

「そっか…それはそうかもね…ありがとう、そう感じてくれて」

 男の心が読み取れたかのように少女は言葉を繋げた。

「あなたの人生はきっと…ううん、それはもういいよね」

 …

『そろそろ…お別れのようだ…な』

 男の声が弱くなる、漂う水色の光の粒子が消えかけていた。

「そうだね…さようなら…」

『ありがとう…さよう…なら…』

 最後の粒子が空に向かい、そして消えた。

 日が昇る、あたたかな光が少女に浴びせられた。

「…さようなら……っ…」

 不意の潮風が少女の言葉をかき消した。

 海鳥が歌う、遠くの街は消えかけてはいたが炎に包まれていた。

 何かが、男とこの地で起きたのだろうが、それももう終わったことだった。

 今はただ、爽やかな風が少女を包む。

「どうか…そう、もうひとつの真なる世界での…あなたの旅路の幸運を心から祈っているね」

 そして黎明が新しい世界を照らし出したのだった。

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