第36話

「もういいや。」


キングナイトはあっけらかんと言う。そしてすんなりと立ち上がり、後ろ歩きで例の女から離れていく。


一見、ゆったりとした動きで余裕があるように見えるが、全くなかった。

離れていく際も、最後に腕を解放し立ち上がるスピードを活かしながら、相手の腕のリーチから早急に離れつつ、足蹴りを防ぐ予備動作まで構える。玉蹴りのリスクを捨てまで腹を守る。


それほどまでに、彼は腹への攻撃を恐れていた。


例の女は地面を蹴飛ばし後ろに下がりながら、素早く立ち上がる。そして息を整える。それに対しキングナイトは相も変わらず、ゆっくりと後退していた。


互いの手が届かないほどに距離を取ったが、最初のように突撃してくるかもしれない。相手の動きに注意しながら、更に後ろへと下がる。


4歩分も離れられた所で、キングナイトはその場で回転し例の女に背中を見せた。そして公園の外へと歩き出す。決して走らない。ゆっくりと歩く。まだ話し合いの時間だ。


「どこ行くつもりだ。」


背後から戸惑いの声が聞こえてくる。それにキングナイトは至極当然のように言った。


「帰るんだよ。」


「あ?」


戸惑いから一変、その言葉に威圧的な勢いがあった。

どうやら不満なようだ。不完全燃焼ってやつ?立ち上がれない程ボコボコにされないと負けを認めないし、認めようともしない底辺組かよ。やめてくれ。


まぁいい。これで最後だ。俺は帰る。最後に煽って逃げる。結局ストレス発散もできなかった。これなら木をサンドバックにして殴りまくった方がまだストレス解消できる。


「雑魚だって言ってんだよ。この程度でキングナイトに挑もうなど苛立たしい。出直してこい。」


後ろも振り返らず、そう言う。


これは本心だ。これであれば年老いたおやっさんにも勝てない。その程度でこの俺に挑もうなど……、もっと段階的に底辺組の勢力を潰しながら実績を積んでもらわないと困るよ。俺がめんどくさいだろ。


相変わらず歩きながら公園の外へを目指す。だがそこに、ザッ、ザッとこちらに走ってくるような音が聞こえてくる。ちょうど例の女が居た方向から聞こえてきた。


そしてちょうど6歩め。キングナイトは素早く動き出す。


それぐらい聞こえてるわ!背後からの攻撃程度不意打ちに入らぬ!


背中を向けたまま、最小限の動きで背後に蹴りを繰り出す。


「ぐっ」


大当たりってな。


感触的に腕やら足の細い部位ではない。そして振り上げた足の高さ的に当たるのは腹付近。つまりクリティカルヒット。


これは底辺組Bから学んだ背面蹴り。

背後が見えないため、細かい修正は音頼み。30cmも横にずれたら掠りもせず、少し対応されればそれは攻撃にすらならず、後は隙を見せるだけ。


まさに初見殺し。


この程度も対処出来ないとは、この数日間何してたんだよ。もっと底辺組で経験を積んだ後、頑張ってもろて。



背後から聞こえてくる足音は止まった。だけどもキングナイトはそれで安心しない。例の女がその程度で完全に諦めるようには思えなかった。


キングナイトは走り出す。全力疾走だ。もう満足した。全力で逃げる。奥の奥へ、公園の出入り口から続く直線を走り続ける。ここで持久力と走力の差を見せつける。


途中、チラっと後ろを伺うが、追いかけて来る影はなかった。メールを送った野郎は兎も角、例の女すら追いかけてこないとは、勝ったな。


後は帰るだけだ。


まさに栄光なる帰還。凱旋だ。


決してこれは敗走ではない。今日を凌ぎ、明日への問題の先送りだ。そして、明日も勝つ。


覚悟を改めたキングナイトは、先を見据える。

敵が追いかけて来ず、尾行すらないのであれば、最速で家に帰るべきだ。隠密などできないぐらい早く走れば、必然的に尾行する者が増えることは無く、0となる。


キングナイトは、最初の曲り角を右へと曲る。速度は落とさず、まるで運動会のトラックのカーブのように華麗に曲がる。


体を地面と垂直に戻し、一歩を踏み出そうとした瞬間、青い飛翔物体が顔面目掛けて飛んできた。


それに反応し回避するよりも、それが激突する方が早かった。

痛みを覚悟し目を閉じた。だけどもパーンと軽い衝撃がくるだけで、想像していた痛みには足元程度にも及ばなかった。


足を止めながら目を開くと、道路にはパンパンと徐々に小さく跳ね転がりながら遠退く青いボールがあった。


恐らくそのボールが投げられたであろう正面方向を見ると、道路に面した外観用の茂みから上半身を出しす髪ガキとその背中からこちらを伺う黄髪ガキと、塀の上で匍匐状態になりながらこちらを見るクソ橙髪ガキがいた。


それを見て、キングナイトは一瞬で現状を理解した。


「当たった?」


一人の黄髪ガキが驚いているようにそう言った。その言葉に赤髪ガキがハッとなる。


「逃げるぞ!」


そう言いながら茂みから飛び出す。遅れて黄髪ガキが飛び出した。そして塀の上に居た橙髪ガキが更に遅れて飛び降りた。


それほどの時間があるならば、準備も行動も終わる。


まったく、例の女から逃げ帰ることばかりで忘れていたよ。ここは底辺組だということを。


少しだけ遠くに行ってしまったボールを素早く拾いながら、投げる準備をする。そして橙髪が塀から地面に着地するその瞬間を狙い、側頭部へ全力投球する。


「ヘブラッチョ!」


そんな意味の分からない事を叫びながら橙髪は大げさに地面へと倒れていく。そんな彼を2人は心配する様子を見せながら近づく。


「大丈夫かラギ!」

「ラ、ラギーーっ!」


だがそんな様子など気にも留めず、キングナイトは淡々と言う。


「一つ、首より上はヘッドボールとなり無効となる。」


これはゲームだ。いわゆるボール鬼だろうか。こっちはキングナイトただ一人、向こうはクソガキ不特定多数。

これはただのゲームではない。キングナイトの誇りと己のプライドと小学校から続く無敗記録が賭かったゲーム。


助かった。ガキ共がもう一工夫でもしていたら取り返しのつかないことになっていた。

待ち伏せはちゃんと当て逃げする退路か、確実に相手を潰しきる方法を考えないとだめだぞクソガキどもが。


絶対に通信機とか使っちゃだめだよ?あとボールの軌道を調整して俺に当てた後屋根上とか川に落として全員でシェルターに立てこもりとかもやめてね。

そこまでされたら勝てないから。俺は勝ち逃げしたい。


いつもなら付き合ってあげてもいいのだが、今日ばかりは無理だ。例の女が公園に居るのだ。


未だに足音は聞こえてこないが、これから聞こえてくる可能性がある。もう話し合える自信も、再び喧嘩する気もない。もうね、逃げる。そして撒く。


例の女を撒くとすればこの町中だ。町を出てしまうと周囲は大自然となり、撒ける場所が自然の中だけになってしまう。そうなれば遭難者第二号になる可能性がある。そうなれば俺は死ぬ。


例の女がガキ共々、仲良く遊んでくれるとも思えない。

俺の安眠コースを妨害されないためにも、こいつらに拒否の一言を突き付けさっさと帰らなければならない。


丁度、戦いから逃げる言い訳がすんなりと思いついた。


「そして一つ。」


しっかりと間を置いた。そして叫びだす。


「今何時だと思ってるんだあほんだら!!クソガキは寝んねの時間じゃ!!」


怒った顔をしながら走り出す。

もはや流れだ。追い掛けられたら逃げる。当然の理。いくらガキ共といえど違いはない。たとえまだ寝んねの時間じゃないとしても、今それに気が付くことはない。


誰よりも早く動いたのは黄髪ガキだった。


「キングナイトがキレた!逃っげろーー!」


最後尾に居たそのガキは、誰よりも早く逃げる。少し遅れて赤髪ガキがそれに続く。


「ちょ、シグロ!勝手に逃げるな!」


「やっべ。」


更に地面に座り込んでいた橙髪ガキが焦りながら2人を追いかけていく。


3人が無事逃げ出したのを確認したキングナイトは少し歩を緩める。途中、地面に転がっていたボールを拾いながら「おいゴルゥルラァ!」と野次を飛ばす。


最後尾のガキと一定の距離を取りながら軽く走る。

そして時たま、走りながらボールを投げる。最後尾に居るガキの背中にボールをぶつけて急かさせたり、的確に逃げられては困る道へと投げ、素早く回収する。そうしてガキ共を追いやっていく。


定期的に「止まらんかクソガキ!」やら「止まっちまえよ楽になんぞ!」と叫んでみたり、バスケットのようにボールをドリブルさせて音で威圧してみたりする。


そうして時間を潰していると、目的の場所が見えてきた。ここまで来るとボールを投げて脇道を潰さなくても、ガキ共は逃げるようにそこへ駆け込んでいった。


キングナイトは、その敷地の入り口で立ち止まり、それを眺めた。


そこはガキ共が住むマンションだった。螺旋状の階段を駆け上がり、自分の部屋に慌てながら入っていく3人組。


「フンッ雑魚め。」


誰も聞く人はいないが勝利宣言をする。このイベントも終わったと。


ボールを敷地内で近くにある茂みにボールを投げ置く。

そして再び意気揚々に帰ろうと振り返ると、遠くに見えた。見えたくない物が視界の奥にしっかりと見えた。先ほど殴り合った相手だ忘れるはずもない。


例の女が、黒いダウンジャケットを上下させながら荒い呼吸を繰り返していた。

壁に手を突き、髪の隙間から真っ赤な眼光を飛ばしてくる。目と目が合う感覚がした。嫌な感覚だ。


数秒もすれば壁に置いた手を放し、こちらへ走ってくる。先ほど追いかけっこで見たよりも遅く、動きが大雑把だった。


よくここがわかったな。いや、あれほど叫んでいれば嫌でも場所が分かるか。


例の女が走りながら近づいてくる。距離はまだまだ、30mはあるんじゃないだろうか。逃げようと思えば逃げれる。撒こうと思えば余裕で撒ける。


だけども、キングナイトは足を動かそうとはしなかった。


ここまで根性を見せてくれるのならば1、2言聞いてやろうという気持ちになったのだ。わざわざ追いかけて来るというからには、言いたいことがあるのだろう。せめて、それぐらいは言わせてやろう。


ただ待つ。そうしていれば、例の女が目の前に来る。ちょうど道路一車線分の距離を開け、例の女は立ち止まった。


はぁはぁと息切れしている。明らかに疲れている。やはり体力不足か。


更にしばらく待っていると、ガバッと顔を上げ髪を揺らしながら、こちら見た。


「まだ終わってねぇぞ。」


しっかりとその言葉は吐ききった。肩で息をし、額に汗が滲み、こちらをどこか辛そうに睨み汗を拭うが、視線だけはずらさない。


お前の事、過小評価してた。根性だけは底辺級だわ。


今、鬱陶しそうに黒いダウンジャケットを脱ぎ捨てた。その代わりに見えたのは、そのほとんどが黒く染まった灰色のタンクトップ、黒の短パン。更には肘と膝にサポーターをし、白い湯気が肌から漂っていた。


明らかに動きやすそうな恰好。季節など気にしない露出。どうやら俺の想定は間違っていない。その雰囲気を楽しみ軽くやるタイプのエンジョイ勢でもない限り、間違いない。そしてただのエンジョイ勢が初手頭突きなんてしないので、確定だ。


例の女はボクシングとか格闘技とか合気道とか全部習ってる系ガチ女子なんだろう。勝てる未来が見えない。危うくサンドバックにされるところだった。ふー、ほんと真っ向から戦わなくてよかった。


もはやしつこい、なんて言葉も出さない。一種の敬意を払おう。貴様も底辺組の一員だ。


だが逃げる。そのよくわからない覚悟を裏切るようで悪いが逃げる。今更態度は変えねぇぞ。もう逃げるって決めたんだ。俺とて覚悟がある。貴様も底辺組ならば理想を押し付けてみろ。


「面白いことを言うな。」


どこか深みがあるような渋い声で言った。


しっかりと例の女を見ながら斜め前へ歩き、一瞬だけ例の女に背中を見せる。ひょいっと身軽にマンションの塀の上に登り、立った。


そして例の女の方を見降ろして言う。


「ならば追い付いてみよ。」 


そう言い切った瞬間、塀の上を走り出す。後ろは振り返らない。真っすぐ進む。


圧倒的な差という物を見せつける為にあえて直線的に進む。もう例の女のやる気を削ぐ方法がこれぐらいしか見つからない。これでも追いかけに来たらどうしようか……まぁ逃げ切るから関係ないよな。


これは3次元立体空間移動、パルクール。忍者オタクから学んだパルクール。

忍者オタク曰く、忍者走術らしいがただのパルクールにしか見えないパルクールだ。唯一の忍者要素が走っている時に両手を後ろに持っていく忍者走りのみ。


その起源では3つの力を培うものだったらしい。

1つはエネルギー的センス、すなわち意志力、勇気、冷静さ、堅実さ。

2つはモラル的センス、すなわち援助、自尊心、正直さ。

3つは身体的センス、すなわち筋力、呼吸。


さすがの俺でも習得に半年以上を必要とした。あんの忍者オタク……煽りに煽りおって……結果的に俺がマスターするまで付き合ってくれたから許すけど。もう煽らせない。


パルクールとは身体の機能性、可動域を知り、現状の限界を理解し、鍛錬を通じて更なる限界を超えるものだ。終わりがないのが終わりとはよく言ったものだな。

だがその代わりに得られるのは、どのような環境でも自由に、そしてより機能的に動くことができる強い心身。


恐怖を恐れぬ行動力、命の危機に反応し足掻く根性、極限状態でも瞬時に空間を把握し歴戦の感で使い動かす筋肉。


いかなる状況にも適応できる能力が得られると同時に必要である。心身は言わずもがな、環境に至っては都市環境に自然環境で掛け算方式で必要能力知識等は増えていく。


まさに初心者お断り。

さすがの例の女もそこまで学んでないだろう。パルクールどころかロッククライミングやら水泳、剣道、球技、馬術、ラジオ体操と全てを網羅する究極人かもしれないが、そこまでやっているにしては圧倒的に体力が足りていない。つまりそこまでやっていないという証明。既に逃げ切れることは確定しているのだ。

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