逢魔が時の影踏みおにさ

若月 はるか

逢魔が時の影踏みおにさ


「辻の真ん中には、溜まりやすい――」

 なにとは表現しがたいのだけれど……と、苦笑しながら男は言う。

「そんなモン、普通は風化するもんだけど、時々……溜まりすぎて凝って障りになる」

 つまり、ここで起きていた数々の事故原因は、そういうものが引き起こしたのだと言うのだ――その男は。





 何のことはない、のどかな田舎の道路だった。

 三桁国道から、おそらく古くから使われていただろう山の一部を削ったような脇道に坂を下った先――田圃に囲まれ、だだっ広い平地ではないが問題のそこばかりは見晴らしの良い、アスファルトで整備された、よくある田舎の生活道路だ。およそ南北に、乗用車が二台ぎりぎり擦れ違うことのできる程度のセンターラインどころか車道外を示す白線もない道が伸び、同程度の東からの道が丁字にぶつかる角、山を背負うように東屋めいた茅葺のお堂が建っている。もう一方で十メートルほどずれて、今度は申し訳程度に車の通れる幅を保持した細い道が水田の向こうに建つ数軒の民家を目指して西に向かって緩やかに上りながら伸びていた。谷間といえば谷間だろうが、険しさのない――地方の山間の農村に見られる穏やかな景色だった。

 確かに、国道から降りてくる坂道と、西に見える民家の間を抜ける坂道は少々急ではあるが、互い違いに向かい合う二つの丁字路の間に特筆すべき特徴は見られない。

 実際、数件の報告書にもそう記されていた。

 午後の日差しの中、こんなところで数葉の書類のまとめられたクリップボードと何もない道路を見比べながら矯めつ眇めつしている、渋川しぶかわの職業は小さな調査会社の調査員である。とはいえ、特筆すべき専門知識を持っているわけでない渋川の仕事は、基本的には会社の受けた調査依頼を適切な業者なり専門家なりを探して下請けに出し、彼らの仕事の便宜を図り、あがってくる報告をまとめることであって、こうして現場に出向くことはほとんどない。そもそも会社自体、企業や自治体やまれに個人から持ち込まれる相談と、適切な調査機関とをつなぐ、いわゆるコーディネート業務会社であって、興信所や探偵業といった方向の職種ではないのだ。

 ゆえに、現場まで足を運ぶことは調査開始の案内が必要な時くらいであるし――今回のような地方の依頼であれば、それも現地に任せてしまうことが多い。もっと言ってしまえば、渋川がひとり視察に来たとて――さて、なにがわかろう……という話である。

 しかしながら、どうにも解決に至るに思えない報告に、自分もその場を知りたくなった。

 三か月ほど前、散歩中の親子が転んだのが、最初の事故であったらしい。

両親と三歳になる娘とが、手を繋いで歩いていたところ――小さな娘が、足元を弾かれたように転び、足下に倒れ込んだ娘を踏んでしまう事態を避けようとした父親も転んだ。娘は、膝と手のひらを擦りむいた程度で大事なかったが、父親の方は片腕の骨にひびが入り、全治一か月――ギプスの取れた今もリハビリ中である。

 次に転んだのは、犬の散歩中の老女だった。道路を北の方からやってきて、丁字路の角のお堂でひと休みしてから引き返し、帰路は西の方の道からぐるりと回って帰るのが定番であったらしい。突然、キャン…悲鳴を上げてシーズーの小振りな身体が跳ね飛んだのだという。幸い、酷く驚いたようではあったが、怪我をするような転倒には至らず――リードをひいていた老女は尻餅をついたが、こちらも幸い、散歩の際に携帯していたビニールやペーパータオルの入ったトートバッグが上手くクッションになり、怪我らしい怪我はなかったとのことである。

 それから、帰宅中の中学生が、別の生徒の自転車の前に突き飛ばされたかのように転がり出て、両者とも制服が破れるほどの怪我を負い、自転車も大きな修理が必要となった。

 以来、人間対人間、人間対軽車両の転倒や衝突事故が頻度を高めつつたびたび繰り返され――ひと月経つ頃には、それに自動車が絡むケースが現れ始めた。

 渋川の会社に依頼のあった時点では、急ブレーキで回避または軽くひっかけてしまう程度にとどまっていたようだが――エスカレートが懸念され、早急で確実な原因の究明が求められた。

 渋川はまず、道路の老朽化によって、それと意識しない程度の凹凸が生じているのではないかと考えた。それから、アスファルトの下の地面に問題が生じ沈下している可能性――弾かれる、跳ね飛ぶ、突き飛ばされる…との証言から、漏電や帯電の影響による可能性も想像した。

 そこで、土木関係者や電気工事業者、地質研究者や気象学者などに順に依頼し、互いへの連携もサポートしながら一か月余りかけて調査を行った――にもかかわらず、いずれも末尾に『異常は見受けられず』との記載された報告書が提出されるばかりとなった。

 ただし、期間中――調査関係者のいない日時を狙うように、大怪我にいたらない程度ではあったが、転倒事故は続いていたらしい。



「なにか、通行人の目を射るような発光物でもあるかと思ったんだけど……」

 さすがに、なにもわかりません…で済ませるわけにもいかず――急ぎ、新幹線とレンタカーを手配して、実に片道四時間かけて現地にやってきたものの、広がるのはどう見てものんびりとした片田舎の景色ばかりである。

 さらに――平日の昼日中である。田畑を持っているとはいえ勤めが本業という農家の多い地域であれば、見渡す限り誰もいない。

「車に戻るか――」

 繰り返すが、戻ったとて――渋川になにができるわけでなく、せいぜい終業時刻を待って駐車場を借りた町役場の支所の職員に聞き取りを行い、報告書の内容を再確認するのが関の山だろうが。

 踵を返そうとした、その時――。


 思い出せ。いつからここにいる……?


 足元から――声がした……気がした。

「は?」

 ぐるり…足元を見まわし――しかしすぐに、それは莫迦な行為だと我に返って、改めて辺りを見渡した。

 いつの間に現れたのだろう? 北側から歩いて来て、おそらくは渋川を認めて足を止めたのだ――思いがけない近くに、若い男が立っていた。

 進学しているなら大学生くらいだろうか? 中肉中背……取り立てて特徴がないと自負する渋川と変わらない背丈であれば、決して高くはないだろう。かつ、ほんの印象として童顔に思えたのは、綺麗なアーモンド形をした目元と薄く笑みを湛えて見える口元が、ネコ科の動物を連想させるせいかもしれない。襟足は短く整えられているが、無造作を装った今風の若者然としたスタイルの少しばかり赤毛がちな黒髪からは、家猫よりももう少しばかり野性感のある山猫味を覚えなくもない。濃色のジーンズに裾のアシンメトリーがまず目を引く癖のあるデザインのショート丈のフード付きジャケットを羽織る姿は、失礼ながらこんな田舎町には不釣り合いに思われるので、時期的に長期休暇ではなかろうが、なにがしか用事があって帰省している……といったあたりと見た。

 初対面の人間に警戒するでなく好奇心を丸出しにするでなく――目が合うとおもむろに会釈する落ち着きは、ひょっとすると真実に童顔なだけで、社会人数年目の渋川と同世代の可能性もなきにしあらずだが、少なくとも近くにあるという公立高等学校の生徒の年頃ではありえまい。

「町長さんから聞いた調査会社のひとって――兄さん?」

 身体ごと傾ぐような仕草には、誤解されることの多い仕事の肩書上たびたび向けられた非難や疑惑の気色はなく――かといって、過度に好感を持たせて媚びる様子もない。調査と称して乗り込んでくる人間に対する、およそどちらの態度でもなかった。

 むしろ、自分の方が警戒すべきでは? 別に極秘の調査というわけではないが、渋川自身がいわゆる足で稼ぐ営業的業務向に向くタイプでもないので、想定していない状況をどう裁いていいか……応対と判断の必要に戸惑う。プライベートなら、先に思い浮かべた男子高生よろしく、人見知りを発動して逃げ出しているところだ。

「名刺とかないんだけど、同業……?……みたいな」

「探偵さん……ですか?」

 しかし、急かした思考が解答を見つけるより早く、もごもご……気持ち視線を彷徨わせつつ少々口ごもりがちになる自己紹介は、なるほど――調査報告の遅れている渋川の会社とは、また別方向からの調査が始まったのらしい。

 正直、渋川もそろそろその方向を疑わないでもなかった。

 事故でなく――事件かもしれない、と。

 物理的な環境に問題がないのは、専門家が調査に訪れている間は鳴りを潜めた――他人を害する意思を持った犯人がいるからではないか、と。

 ひとまず、あっち……茅葺屋根と背後の山のおかげで影の深い辻堂を示される。若干の好奇心があったことを否定はしないが、いつもなら、ここは辞退していただろう……自身気が付いたのは、かつて街道を歩く旅人の休息のために建てられたという開放的なお堂の縁に腰を落ち着けてしまってからだった。それはそうだ――相手は、どうやら町長から依頼を受けたと推察されはするもの、実際としては身元の知れない男である。さらに、探偵であるならなおのこと――今回は、個人のプライバシー等センシティブな事情の絡む案件ではないとはいえ、業務上知り得た情報を手続きなく……おそらくは、探られるのだろうと予測するに難くない。

 けれども、巧みにそう仕向けられたのだろうと得心したのは――軒下に入ると同時、雲に陰ったかと思われた陽射しが、それどころか自分の認識していたよりも随分と傾いていたことに気付くから。

「期待を外して悪いけど、俺は探偵じゃあない」

 ざわり…男の足下――現在ではコンクリートで整備されている地面が波打った、気がした。



「兄さん、ハーマングリッド現象…って知ってる?」

 軒下から、暮れなずむ田舎道に目を眇めつつ――男は、有名な錯視のひとつの名をあげた。有色の背景に白線で格子を描くと、白線同士の交差点にぼんやりと影の見える現象のことだ。

「博識で、ご結構。あの絵面を想像してもらえる……? あんな感じで『辻』の真ん中には、けっこう溜まる――たまに見えることもなくはない…かな……? 周辺から漏れ出して溜まるものもあるし、通った誰か彼かがこぼしていくものもある。まぁ、いっこいっこは碌に形も持ってなくて、それこそ人間の往来で蹴散らされて消えるような塵やほこり程度のささやかなもんなんだけど――十字路の真ん中を突っ切るって、実はあんましないだろ? そんなで、そいつらが吹き溜まっちまって凝りやすい」

 なにを言っているのだろう?……とっさに理解のおよばぬものの質す言葉も浮かばない渋川を置き去りに、男は再び軒先へと踏み出した。

「あんまり凝りすぎると、障りになる――兄さん、初の死亡事故の被害者になるところだったな」

 怖いことをさらりと言われて、思わず腰を浮かせた渋川は、しかし――ぞくり…別の理由で、青ざめた。

 足下? なに……?

 足が、動かない――恐る恐る見下ろした先は、もとよりのお堂の影と黄昏時の薄暗がりとでよくわからない。ただ、自身の靴のシルエットは確認できる――けれども、同時に感じるそれは……知っている感触としては、手だろうか? 地面から伸びる指を持つ手の感触が渋川の足を縛り付けて……?

「そこに、じっとしててくれる?」

 これは、この男が?……意味するところに弾かれて顔をあげれば路上、色彩の判別のぎりぎり可能な残照に佇む男の背。

 じゃらり…往来に視線を向けたまま、男が右手を振る――上着の袖口から、金属音と共に鞭を想起させる紐状の影がこぼれ出た。ちゃり…震わされ波打つそれは、予想に反して鎖ではなく、幾本かの棒状の金属を繋いで作られているようだ。持ち手側のしんがりに赤い房。鞭の先は刃物になっているのだろうか? 繋ぎ目に赤いスカーフのような布の結びつけられた、先細りのシルエットがちらりと見て取れた。

 それから。

 ぼそぼそ…二言三言、渋川には内容までは聞き取れなかったが――会話の気配。男のそばには誰もいようはずはないが、確かに応えるもうひとり分の声がした。強いて言えば――彼と顔を合わせる直前、足元から聞こえて思えた声に似ていた。

 また少し空が陰る――。

 時間を忘れて遊んでいた子供時分なら、帰宅を焦る頃合いだろう。

 じゃらん…硬質な響きとともに、金属の鞭の先が男の足下に弧を描いた。軽く跳ねて軌跡を避け、着地と共に輪が閉じる――とたん。

 さわっ…アスファルトであるはずの路面が揺らめいた。

 実際には目に見えないはずの円の縁に、波があたって砕けるかのような――影の飛沫が踊る。

 たんっ!…男の靴の踵が地を打つと同時――次第に濃さを増しつつあった輪の影が、突如ぽこぽこと沸き立ち始める。二度三度、男がなにやら短い言葉を吐き捨てながら、伸びあがるあぶくを蹴飛ばすのが見えた。

 説明を求める暇どころか、渋川には目にした光景をそれと認識するだけで精一杯だった。

 さらに空が明度を落とし――視野の彩度が鈍る。

 ちゃらり…鞭の揺れる音に意識をひかれ見やる先――広くはない道の中央から、ぞろり…這い上がり、鎌首をもたげるぼんやりとしたもの。ムカデだと思ったのは、上下に厚みの乏しい黒い靄の両縁が、不鮮明のあまり毛羽立って見えたせいだろう。

「――!」

 息を呑むのは、ふよふよとしばし頭を彷徨わせた靄のムカデが、男の存在に気が付いたと感じたから。

 右回り左回り、九十度ずつ扁平な頭が回転して――弾かれたような素早さで一度ひとたび、首を退く。逃げる仕草ではない、むしろ――攻撃に移るための普遍な溜めの挙動だ。

「あ……」

 とっさ危険を知らせようとして、渋川は男の名を聞いていなかったことを思い出したが――端から、その必要は存在しなかった。もちろん想定していたはずだ――男の反応の方が早かった。

「兄さんは、動くな!」

 振り向きはしない――しかし、抑えた声に圧され、無意識に浮かしかけていた腰は、尻餅をつく勢いで堂の床へと突き戻されていた。

 じゃっ…男が手首がしなり、赤い房が大きく揺れる。ムカデの頭同様、背後に振られた切っ先は――次の瞬間、投擲と呼ばわしめる速度で、靄の中央へと銀色の尾を引いた。

「――!」

 ざっ…同時に、男は靴底で足元の輪の縁を切る。聞き取れなかった男の声は、命令の色を帯びて思われた。

 ぶわ……っ!

 とたん、彼の足下の影は大きく立ち上がり、文字通り堰を切って流れ出し――先を飛ぶ、刃を追った。

 既に、男の姿もシルエットにしか見えなくなりつつある空の下、靄に突き刺さった影から、さらに――境界を突き破って、ふたつみっつ、今少し濃い影が分離する。


 鬼――?


 一番大きな影は、禿頭の筋骨逞しい人型をして見えた――ただし、目にしたまま思い浮かべた言葉の通り、頭部に二本の角と思しき突出物が目立っていた。

 他に確認できたのは、狼だろうか……大型でマズルの長いイヌ科の獣と、成人が両手を広げたほどもあろう猛禽と思しき鳥類の影。

 いまだ未分化ながら、ふよふよと靄にとりつく影を従えながら――悶えるムカデを拘束し、引き裂き引き千切る。投げ捨てられ吐き捨てられた端から、断片はしゅうしゅうと崩れ解け、粒子となって霧散する。

 ほんのしばし――空が夜の色に染まってしまい、既にいくらか昇ってしまっていた月の輝きに驚かされるより前には、長く伸びた黒い靄のすべてが、そうして消え去ってしまっていた。

 それから、時化の海のようだった男の影も――改めて見遣れば、当たり前の月明かりに照らされた、彼ひとり分の影でしかなかった。



「ちょっと間延びしてわかりづらくなっちゃってるけど――ここに辻堂をたてるくらいには、交通の要所にあった…ってことなんだろ、ここ」

 そして、近年まで充分に南北東西ひとは行き来し、辻としての機能していた。ところが聞くところ、二年ほど前に中学校の校舎が移転し、それまで通学路であったこの道を東西へと往来する若者が激減した――そのせいだろうと、その後、懐中電灯を持ち出して改めて道の端々を見分しながら、男は告げた。

「ひとからこぼれて溜まっていくものってのは、まぁ……つまり、愚痴みたいなもん……?」

 もはや質し直す言葉もない渋川に、男が砕いて説明してくれた話を要約すれば――その一般的に嫌な気分の残滓を正しく蹴飛ばす多くの希望を内包する学生の足が遠のいたことで、これまで保たれていたバランスが崩れた結果、あのムカデのような靄が通行人を転ばせるほどに凝り固まるに至った……ということであるらしい。

 渋川自身、自分が実際に巻き込まれ目にしてしまっていてさえ、なにを荒唐無稽なことを……と思わないではいられないのだから、とてもそのまま報告書に載せるわけにはいかず――しかしながら、男の方は町長の個人的な依頼に応じただけであると知れば、町の機関に公的に提出する報告書に渋川がどこまでを記載するべきか。数日、大いに迷った挙句――それまでの各分野の調査報告と共に、道路わきの側溝の奥に既に腐敗が進み流されつつあった獣の死骸を認め、変化状況から報告された最後の自転車転倒事故の頃合いに死んだものと思われるため、事故の原因として該当の獣の通り道となっていた可能性が考えられる、推定を付記することとした。それ以降事故が無くなったこともあるだろうが、最終的な処理権限が町長にあったからでもあるだろう――それ以上の追求もされぬまま、調査は完了となった。



 少しばかり、仕事を遂行しきれなかった気のする後ろめたさと不満は残ったが――その件は、それで終わりだった。すぐに、新しい案件の取次を割り振られ、それがまた終わり、次の案件にとりかかる頃には――あまりに現実味を欠いていただけに、返って思い出すことも稀になった。

 ただ――。


「ちょっとだけ、俺らの仕事減らしてやろうと思ってくれんなら――」


 その時だけは、別れ際の男の言葉が耳によみがえるから。

 スクランブル交差点は、敢えて斜めに――できるだけ、真ん中を歩くようになった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

逢魔が時の影踏みおにさ 若月 はるか @haruka_510

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ