悪霊の多い料理店

瘴気領域@漫画化決定!

第1話 特製松定食 1/3

「悪霊は、この中にいます!」

「へい、らっしゃい! って、いまなんて?」


 昼下がりの商店街。

 シャッターの降りた店がちらほら見える、少々寂れたその片隅。

 古びた2階建ての1階、定食屋間田木またぎ食堂での出来事だった。


 その少女は建付けの悪い引き戸をガラリと開け放つと、店内の一角をびしりと指して黒い前髪をかき上げた。白地に朱色の縁取りが入った巫女服の袖から細い指が伸びているが、その先をたどっても別に何もいない。


「悪霊です。そこに悪霊がいるんです!」

「ああン? ちょっと待て、イヤホン外すから」


 オープンキッチンのカウンターの中にいた赤髪の女が、怪訝な顔をして片耳に挿したイヤホンを抜き、念入りににらんでいた競馬新聞を置いた。爪を短く切った人差し指で、こめかみをぽりぽりとかきながら聞き返す。


「えーと、あっしの聞き間違いじゃなきゃあ、悪霊っつったか?」

「ええ! 悪霊です! このお店は悪霊に取り憑かれています!」

「で、て、い、け」

「はい?」

「出てけっつってんだこの三流詐欺師がっ!」


 赤髪の女は刺身包丁を握りしめ、血走った目で少女をにらみつけた。

 巫女服の少女はその剣幕にたじろぎ、思わず二歩、三歩と後ずさる。


「ここ何日か客がぱったり来なくなったのを見透かして、ペテンにかけようってンだろ! テメェら詐欺師のやり口なんてわかってンだからなっ!」


 そう言うと、女は刺身包丁の切っ先で入り口の脇を指した。

 そこには、奇妙に捻くれた壺やら極彩色の仮面やら招き猫やらなんとも醜怪な笑みを浮かべる七福神像などが並んでいた。


「い、いかにも怪しげな霊感グッズの山……」

「もういい加減だまされねえ! そこに並んでるのはな、あっしの血と汗と涙が染み込んだなけなしの売上と引き換えに手に入れた反省の結晶だ! あっしからこれ以上一銭でもむしろうってンなら容赦しねえぞ!」

「ええと、あの、お金とかはいいんで、とりあえず話を聞いてもらえると……」

「ハッ、ここはメシ屋だぜ! お話をするところじゃねえ。注文しねえんならさっさと帰りな」

「ううんと、それならこの日替わり定食の『松』を……」

「ハハッ! いくら1200円の松定食を頼んだってあっしの気は変わら……えっ、松定食? お客さん、マジで松定食?」

「は、はい。お昼はまだだったのでついでに……」

「松定食一丁! かしこまりやした!」


 赤髪の女は鬼の如き形相から一変し、にこにこしながら包丁を握り直す。

 まな板を拭くと、カウンター下の業務用冷蔵庫から食材を取り出して丁寧に並べた。


「へへへ、今日はマグロの赤身のいいやつが入りましてね。うっすーら脂の入ったほとんど中トロみたいなやつで。最近増えてきた養殖マグロってやつでね。あっ、養殖ったって馬鹿にしちゃぁいけませんよ? ンなことを言うと下品だが、天然物よりかえって高ぇくらいで――」


 しゃべりながら、女は包丁を使う。

 刺身包丁の背に人差し指をそえ、刃元から切っ先までをすっと引いて桜色のサクを厚い平造りにしていく。刺身の角はびしりと立って、切り口はみずみずしく覗き込めば顔が映りそうだ。

 その鮮やかな手付きに見惚れ、少女は思わずカウンターに身を乗り出していた。


「あ、松定食は刺身とフライのセットなんですけどね。フライは選べるンすよ。コロッケとホタテはぜんぶに付くンすけど、メインはエビかアジで選んでもらえるようになってて。エビは産地直送のでっかいブラックタイガー。アジはそこの生け簀で泳いでるやつをさっとさばいてすぐに揚げるって寸法で」


 ツマを乗せた角皿に刺身を盛り付けながら、赤髪の女が目線でカウンターの奥を示す。そこには幅1メートルほどの水槽があり、エアレーションの水泡の中で数匹のアジが鱗を銀色にきらめかせていた。


「すごい。定食屋さんなのに生け簀があるんですね」

「へへへ、あっしは釣りが趣味でね。店で出せそうなもんが釣れたらあそこに放り込んでおくんでさ。おっと、エビの方もお見せした方がいいっすかね。これもめったに手に入らない上物ですぜ」


 女は冷蔵庫から木箱を取り出すと、カウンターの上にそっと置いた。

 蓋を開け、おがくずを丁寧に取り除くと、中から姿を現したのは片手に余る大きさの、でっぷり太った見事なブラックタイガーだった。くっきりとした黒い縞模様が美しい。


「一昔前はブラックタイガーなんて安いエビの代表だったらしいンすけどね。いまはもう、天然物のクルマエビなみに美味いもんも出回っててね。なかなか馬鹿したもんじゃあないんですぜ」


 少女の視線が、水槽のアジと木箱のエビの間で右往左往する。

 もう口の中は唾液でいっぱいだ。溢れたそれが、唇の端から垂れていることに気がつき、少女は慌てて口の端を指で拭く。


「あ、あの、両方食べることはできますか?」

「えっ、追加ですかい!? さ、三百円ほど追加でお代をいただけたら――」

「お願いしますっ!」

「ありがとうございやすっ!」


 女の説明に、少女が食い気味で応じる。

 女は威勢よく返事をすると、水槽からアジを掴みだしてあっという間に三枚におろし、エビの殻を剥いて身に斜めに包丁を入れていく。それに小麦粉をはたいて卵液にくぐらせ、パン粉をたっぷりとつけると、フライヤーに静かに沈めていく。

 しゅわしゅわ、ぱちぱちと油の弾ける音がして、香ばしい匂いが店内に立ち込めた。


 キッチンタイマーが鳴り、女がアジとエビを油の海から引き上げる。

 色はもちろん黄金色。肉厚なアジも太ったエビもびしりとまっすぐで、尾っぽの先まで曲がっていない。揚げ物の専門店でもここまでのものはそうそうお目にかかれないだろう。


「へい、松定食エビ・アジフライセットお待ちどおっ!」

「ふぁぁぁあああ……お、美味しそう……!」


 少女は、眼前で香気を上げる定食に目を奪われた。

 背後に忍び寄る、黒く不吉なもやには気がつくこともなく――

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