67・いってらっしゃい

 決して甘く見ていたつもりはない。前世の記憶が戻ってからはずっと、紗良がバッドエンドを迎えないようにと気を配ってきたし、細心の注意をはらってきた。

 しかし、夢とはいえ実際にあの場面を見てしまえば、自分には覚悟も想像力も足りていなかったと痛感せざるを得ない。ああいうことが起こるのは知っていたが、知っているだけなのと見るのとでは全然違う。どこまでも恐ろしく、絶望しか存在しない光景だった。

 今はまだいい。紗良と葵に直接の接点はないし、むしろ紗良は葵に対してあまり良い印象を持っていない。このままの流れなら、紗良がこはるに刺されることはないはずだ。

 しかし、何かのきっかけで紗良と葵が親しくなり、更に付き合うなんてことになったらどうだ。こはるが紗良を強襲する可能性だって出てくるだろう。

 血溜まりに沈む紗良の姿を思い出し、ぶるりと身体が震えた。私の小さなミスや見逃しが二人の命を失わせるかもしれないなんて、一体何の冗談だ。その責任は、16歳の小娘にはあまりにも重すぎる。

 何より、惨劇の原因がわかっても回避策が浮かばない。少し前までは葵とこはるが両思いになればいいと思っていたが、そう単純な話でもなさそうだ。ゲームとは違い、エンディングの後も私達の人生は続いていくのだから、不安要素の残る選択はしたくない。


「どうしたらいいのかしら……」


 結局、朝日がすっかり昇ってしまうまで考えても、これだという案は思いつかなかった。せっかく転生したのだから、チート能力とかあれば良かったのに。たかが26歳の一般人の記憶なんて、こんな時には何の役にも立たない。唯一のアドバンテージがあの夢だけど、情けないことに役立つというより振り回されているのが現状だ。

 己の無力さを噛み締めつつ、ベッドから重い体を引きずり出すが、寝不足のせいで体感体重70kgくらいに感じる。ああ、紗良に会いたい。なんで気軽に会えない夏休みに限って、こんな夢を見るんだ。生きてる紗良の可愛い笑顔で、悪夢の疲れをリセットしてほしい。

 こんな気分の日に部活なんて行きたくないけど、こはるを陽子に丸投げするのも気が引けるし、行かないわけにはいかない。紗良セラピーを諦め、「おはよう」とスタンプをひとつ送っただけで止まった私、超偉い。

 その後、電車に乗ってる時に「おはようのチュウ」とうさぎが投げキッスするスタンプが送られてきて、あまりの破壊力に悶えたのはご愛嬌だ。紗良セラピーは、間接的でも効果はてき面でした。


「うわー、顔ヤバいね」


 おはようの挨拶より先に、顔のヤバさを指摘してくるのはやめていただきたい。こんな失礼な人は一人しかいないわけだが、まったくその通りなので返す言葉もない。

 まぶたは腫れぼったいし、目の下にクマは出来てるし、お肌のコンディションも最悪だ。もし今の私がスチル絵になったら、多分背景にどんよりした紫色の空気を背負ってることだろう。


「ちょっと寝不足なだけよ」

「えー、無理せず休んだら良かったのに」

「まあ、そうなんだけど。お昼食べたら、早めに帰るわ」


 そう言うと、察したのか「ああ」と納得顔で陽子が頷き、「優しいっスね、せんぱーい」と肩を当ててきた。うーん、殴りたい、その笑顔。

 ちなみに、こはるはといえば、相変わらずいつもの定位置で黙々とキャンバスに向かっている。孤立しているという程ではないが、やはり他の一年生との間には少し溝が出来ているようだ。


「寝不足になるほど、遅くまで何してたの?」

「夜更かしじゃなくて、ちょっと夢見が悪くて……起きちゃった後に寝付けなかっただけよ」

「へえ、どんな夢?」

「別に……もう忘れちゃった」


 まさか紗良がこはるに刺される夢だとは言えず適当に濁すも、なんとなく見透かされてる感じがする。しかし、特に追及されることもなく流してもらえて、ほっと胸を撫で下ろした。

 話を切り上げ、手早く部活の準備を整えてからはいつも通りの時間が流れ、気づけばお昼時に。お腹を空かせた一年生たちが連れ立って部屋から出て行ったところで、おや? と違和感に気がついた。

 今、こはるに声をかけずに出ていかなかった? 昨日までは形だけでも誘っていたのだけど、今日はそれすらなかった。

 私たちと食べるようになったから声をかけるのをやめたのか、はたまた他に何か理由があるのかはわからないけれど、あまり溝が深まるのはよろしくない。お昼ご飯を食べながら少し話を聞いてみようと、何を思っているのかわからないこはるの背中を見ながら考えていた。──が、やはり私は考えが甘いのかもしれない。こはるから話を聞いた私は、またまた自分の力量不足に撃沈していた。

 こはるをお昼に誘ったことで、葵から多少の嫉妬はあるかもしれないとは思っていた。そこまでは想定内なのだが、問題はここからだ。


「まさか、若島さんが私に好意を寄せていて、島本さんを出し抜くために距離を置いたと誤解するなんて……何がどうなってそんな考えになるのよ」

「杉村先輩には振り向いてもらえず、幼馴染も距離を置き始めたと思ったら、何故かその二人が一緒にお弁当食べてて、わけがわからず疑心暗鬼に……ってとこでしょうか」

「解説ありがとう。意外と冷静ね」

「昨日の夜、急に電話かかってきて、それを言われた後はショックだったし、混乱もしましたけどね。……なんかもう一周して落ち着いちゃいました」


 悟りを開いたような凪いだ瞳のこはるにつられて、私の心も少し落ち着きを取り戻す。葵の件も頭が痛いが、昨日の夢でのこはると今の彼女のギャップも酷くて、どうにも頭がついていけない。

 いやいや、こっちの状態の方がいいんですけどね。


「若島さんが私を好きだなんて、ありえないのに。私、生理的に無理とか死ぬほど嫌いとか、散々言われてるのよ」

「えっ、何それ知らない。若島ちゃん、そんなこと言ったの? やるじゃん!」

「あっ、あれはちょっと言い過ぎました! ……すみません、ただの逆恨みです」


 落ち着いた様子から一転、こはるは大慌てで謝罪する。うんうん、素直なのはいいことだ。

 確かに、今のこはるからは少し前みたいな敵意は感じないし、そこまで嫌われてはいないと感じる。葵が私に好意を向けなければ、おそらくもっと打ち解けることも出来ただろうに。

 そうすれば、こはるが抱える問題にももう少し踏み込めたかもしれないと思うと、残念でならない。


「だって、美人でスタイル良くて、綺麗な彼女がいるのに葵ちゃんにも好かれてて、成績も学年一位とか、もう妬む要素しかないじゃないですか」

「待って、他はともかく綺麗な彼女ってとこだけは違うから!」

「綺麗より可愛い彼女の方が良かったですか?」

「そういう意味じゃなくて、彼女じゃないから! まだ付き合ってないから!」


 あ、と思った時にはもう遅かった。語るに落ちたとはまさにこのこと。『まだ』って何だ、『まだ』って! こんなアホなミス、リアルでする人なんていないと思っていたのに、まさか自分がする日が来ようとは。

 二人の生温かい眼差しが辛い……! やめて! そんな目でこっち見ないで!


「前はお友達とか言ってたのに、やっぱり好きだったんじゃないですか」

「…………自覚したのが最近なもので」

「なになにー、若島ちゃんも紗良ちゃんのこと知ってたの?」

「はい、陽子先輩も知ってたんですね」


 私としては、紗良のことをこはるに言うつもりはなかったんだけどなぁ。

 二人の間に接点を作りたくなかったっていうのはもちろんあるけど、何より紗良は私の弱点だ。万が一、こはるの憎しみが私に向いた時、紗良が巻き込まれる可能性は排除しておきたかった。私が紗良を想っているとこはるに知らせることで、葵に気がないとわからせるメリットはあるけれど、天秤にかければ紗良の安全が優先される。


「わ、私のことはいいから! それより、ごめんなさい。私がお昼に誘ったから、そんなことになって……」

「いえ、私もまさかこうくるとは思っていませんでしたから」

「そうね。私、島本さんってそういうこと言うタイプだとは思ってなかったわ」


 私の知る限り、葵はポジティブモンスターだ。相手がそっけなくてもすれ違っても諦めず、誰かを妬んだり傷つけたりするより、まず自分で行動する。そんな前向きな性格のはずだ、少なくともゲームでは。

 唯一の例外が、他のヒロインのルートに入った時のこはるへの対応なわけだから、シナリオ通りといえばそうなんだけど、それにしたってキャラが違いすぎじゃなかろうか。


「多分、誰かに何か吹き込まれたんでしょうね。葵ちゃん、単純だから」

「あー、なるほど」

「……葵ちゃん離れをするいい機会かもしれません。今回のことで、私は完全に対象外なんだってよくわかりましたから」


 それは、残念ながら否定できない。少しでも恋愛感情があれば、そうは言ってこないだろう。

 こはるには言えないが、恋愛感情どころか友情すら気持ちに温度差があるように見える。葵はこはるが自分から離れるわけがないと思っているのか、もしくは離れてもいいと思っているのか。どちらにせよ、こはるをナメ過ぎだ。

 昨日の夢で、両思いがハッピーエンドとは限らないとわかったし、こはるが葵を諦められるなら、それも悪くない選択肢かもしれない。


「私に出来ることがあれば、遠慮なく言ってね」

「じゃあ、さっさと紗良さん口説き落としてください」

「……出来れば苦労しないわよ」

「ですよね」


 それ、私に出来ることじゃなくて、私が出来たらいいなと思ってることじゃないか。

 口説き落とせるのなら! とっくにやってる!!


「はぁ、友達としては間違いなく好かれてるけど、そこから先に進むのってどうしたらいいのかしらね」

「そーれーはー、詩織のそのナイスバディで悩殺したらいいと思います!」

「陽子、おじさん臭い」

「ひっど! っていうか、やっぱり詩織、今日はもう帰ったら? さっきの失言も含めて、頭働いてないでしょ」

「そんなこと……あるわね」


 確かに、いつもより頭の回転が鈍い。睡眠不足って、本当にごっそりと思考力を奪っていく。

 お昼のこはるの相手という役目も果たしたことだし、帰って寝ようかな。外に出て気が紛れたおかげか、今なら横になればちゃんと眠れる気がする。


「そんなに眠いならさー、紗良ちゃんに『眠いの~』って言って、膝枕お願いしちゃえばー?」

「膝枕って、なんでっ……!」


 まさか紗良から聞いたのかと、思わず動揺が顔に出てしまったが、私の反応に驚いている悪友の顔を見て、早とちりだったと気づいく。

 ああ、やっぱり頭がうまく回っていないせいだ。いつもならこんな凡ミスしないのにと悔やむ私に、目の前の二人がニヤリと悪い笑顔で目を合わせた。


「若島ちゃーん、この人、もう膝枕してもらい済みみたいですよー?」

「ですねー、これで付き合ってないって意味わからないです」

「ここは私の独自ルートを利用して、詩織が紗良ちゃんの膝枕を所望していると伝えるべきかと」

「いいですね」

「全然良くないわよ! ちょっ……やめてってば、陽子!」



 結局、逃げ回りながら器用に文章を作成する陽子を止めることは叶わず、寝不足の私が膝枕をして欲しがってるという内容が紗良に送られてしまい、数分後にはその返事が私のスマホに届いた。

 簡潔に『おいでー』と書かれたそれを見て机に崩れ落ちた私に、悪友と後輩が揃って「いってらっしゃい」と言う。息ぴったりですね、貴女達。

 ええ、行きますよ。喜んで行かせていただきますけどね、──後で覚えてなさい。特に陽子。

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