2・やっぱり推しは可愛かった。

「こ、こんにちは」

「……こんにちは」


 思い切って挨拶してみたが、ものすごく戸惑った顔で返されてしまった。違う、そうじゃない。不信感を与えてどうする。


「えっと、傘忘れたの?」

「ええ、まあ……」

「大変だったわね。良かったらこれ使って」


 気を取り直し、人当たりが良さそうに見える笑顔を作って、カバンに用意していた折り畳み傘を渡した。そう、紗良がこれを受け取ってくれれば、彼女は葵と出会うこともなく、刺されるかもしれない未来を回避、私は推しが無事に生存出来てハッピー、こはるはライバルが二人とも消えたことで葵を落としやすくなるし、みんなが幸せになれる。

 遠慮なく受け取ってもらいやすいように、渡す傘はコンビニでよく見るワンコイン傘だ。しかも、新品だとわからないように一度広げて中古感を出しておいた。ちゃんとしたものなら躊躇するだろうが、これなら受け取るハードルも低いだろう。


「そんな、悪いです」

「私はもう一本あるから。こんなずぶ濡れになってるのを見捨てて帰る方がいやだし、ね?」


 むしろ、雨より将来の修羅場が怖いので。受け取ってもらえなかった場合、年内に血の雨が降るかもしれないですし。


「じゃあ、ありがとうございます」


 お礼を言って、ペコリと頭を下げた彼女が傘に手を伸ばす。よし、これで最悪の未来は回避された! と、喜んだその時だ。私の右斜め後ろのあたりから、ハクション! と控えめなくしゃみが聞こえた。そっちに目をやった紗良につられて私も振り返ると、小柄なおばあさんが紗良と同じくらいびっしょり濡れていて、ハンカチで顔や髪を拭いているところだった。しかも、春先のこの季節のわりには軽装だ。あのおばあさんも先ほどまでの青空に油断してしまったのだろう。


「あの……この傘、良かったらあの人に渡してあげて下さい」


 うん、そうなるよね。フラグ回避のためとはいえ、ここでおばあさんではなく紗良に渡すのは不自然だと思う。そもそも、紗良は受け取ってくれないだろう。


「じゃあ、そうするね」

「はい」


 自分が傘を借りれなくなったのに、嬉しそうにはにかむ美少女の笑顔プライスレス!! なにこのめっちゃいい子。紗良ってこんなキャラだった? もう少しクールだった気がするけど、まあいいや。私の推し、可愛い上に超優しい。

 おばあさんに傘を渡してきた後も「良かったですね」と微笑む推し、大天使。元々は私ではなく前世の私の推しだけど、今この瞬間から私の推しになりました。


「じゃあ、私達も行きましょうか」

「え?」


 持っていたラベンダー色の傘をポンと開いて言うと、紗良がきょとんとした顔で首を傾げた。


「だって、折り畳みはもうないから。狭いけど入ってもらおうかと……あ、駅で良かった?」

「えっ、そんな、申し訳ないです。貴女まで濡れちゃうし」


 胸の前でワタワタと手を振って遠慮されるが、こちらも退く気はない。それにしても、この子、遠慮してばっかりだな。ゲームではもっとあっさり葵の傘に入っていた気がするけど、傘に入りたくないほど私って怪しいかしら。

 ゲームで葵はどんな風に誘ってたっけ?



葵『ねえ、傘入っていきなよ!』

紗良『えっ、あの……』

葵『あはは、遠慮しないで。ほら!』



 ……ああ、そうだ。紗良が戸惑ってるうちに、有無を言わせずさっさと傘に引き入れたんだった。さすが主人公、天然で最善策を取ってる上に押しが強い。でも、紗良のこの様子だと、それくらいしないといつまでも傘に入ってくれない気がする。こうしている間にも危機(葵)は近づいてきているのに。

 かくなる上は、手段は一つ!


「もう、人の厚意は素直に受け取るものよ。行きましょ」

「え、えっ?」


 葵の真似をするのはなんとなく癪だったが、さっさとここを立ち去りたい。面食らっている紗良の背を軽く押して傘に入れたが、本気で嫌がっているわけではなさそうだし大丈夫だろう。そこまでしたところで、ようやく観念したらしく「ありがとうございます」と申し訳なさそうにお礼を言ってくれた。

 推しからこの至近距離でお礼を言われるなんて、なんというご褒美! この距離で見ても毛穴が見えないくらいお肌はきめ細かいし、まつげも長すぎなんですけど。私もなかなか可愛い顔に転生できたと喜んでいたけど、紗良の美少女っぷりは桁違いだ。私の美少女偏差値が60くらいだとしたら、紗良の偏差値は余裕で70を超えてる。美少女キャラって本気で美少女なのね……美しい。


「ふふっ、心配しなくても、怪しい商品を売ったり宗教の勧誘したりせずに、ちゃーんと駅まで送るからね」

「そんな心配はしてませんけど……」

「うんうん。あ、あと敬語はいらないわ。私も高校生だし」

「あ、はい。じゃなくて、うん。……大人っぽいから、大学生と思ってた」


 そうでしょうね。なんとなく、そうかなって思ってた。まあ、『詩織』は先輩キャラってこともあって少し大人っぽいキャラデザだし、今は中身も26歳だから多少大人びて見られやすいのかもしれない。


「私は百合の宮女子高校の二年で、杉村詩織。あなたの制服、椿ヶ丘高校でしょ?」

「藤岡紗良、一年生です。あの、杉村さんの方が先輩だから、やっぱり敬語の方が……」

「同じ高校じゃないからいいのよ。オッケー?」

「オ、オッケー」


 やっぱりかなり遠慮がちなタイプっぽいな。ゲームでの紗良のイメージだと、敬語は必要ないって言われればさらりとタメ口になるか、「そういうわけにはいきません」とか言って敬語使い続けるかのどっちかだと思っていたけど。少なくとも、こんなワタワタするようなキャラではなかった。

 ただ、ゲームでの紗良は葵以外のキャラとの絡みが皆無だったから、これもゲームでは見られなかった彼女の一面かもしれないと思うと、知らなかった推しの顔が見れてちょっと嬉しい。これだけでも、今日ここに来た意味があった。


「入学早々、大変だったわね。おうちに帰ったら、制服干して、お風呂であったまるのよ」

「うん、そうする。でも、杉村さんが傘に入れてくれて本当に助かったよ。雨、全然やむ気配ないし」

「ふふっ、私もこんな可愛い子と相合傘できてラッキーだったわ」

「かわ……それ、反応に困る」

「あはは、ごめんねー」


 ああああああああ、可愛い!

 予定では傘を渡すだけで終わる予定だったのに、おばあさんのお陰で推しと相合傘できて、こんな可愛い照れ顔まで見せてもらえて、私ってば前世でどんな徳を積んだの! 百合作品追い求めてた記憶しかないけど!

 あまりの尊さに打ち震えながら他愛もない雑談をしているうちに駅に到着し、私たちはそこで別れた。私が葵なら、後日また偶然の再会イベントが発生するのだが、それはもうないだろう。この出会いイベントがなければ、次のイベントで二人がお互いを認識することもないはずだから、知り合うこともない。そして、今後私と紗良が繋がることもない。

 紗良はバッドエンドを回避して、私の知らないところで平和な高校生活を楽しむだろう。残念な気持ちもあるが、幸せになってくれるならそれが一番だ。


「さて、私はこれからどうしようかな」


 推しを脅威から遠ざけたとはいえ、『詩織』としての私の日常はまだ続いている。紗良に出会ったことで、ここが『未完成ラプソディ』の世界なのは確定してしまった。明日から始まる学校に行けば、きっと葵やこはるもいるのだろう。あまり関わらないようにするつもりだけど、葵が同じ部活に入れば嫌でも接点は持つことになるのだから、絶対安全とは言えないのが辛い。百合は無関係な場所からニヤニヤ眺めるから楽しいのであって、巻き込まれるのは勘弁してほしいのに。


「ま、考えてもどうしようもないか」


 あれこれと心配したところで、何かが解決するわけではない。今はとにかく、紗良を守れたことを良しとしよう。予定通りとはいかなかったが、結果は上々だ。私はよく頑張った。

 もう紗良の姿が見えなくなった改札をもう一度眺め、私は達成感をかみしめながら帰路についた。



※ ※ ※ ※



 翌日。ついに今日から葵やこはると関わっていくのだと気を引き締め、私は通学の電車に揺られていた。寝不足のせいで、窓から差し込む朝日が眩しく、目に痛い。緊張のせいか昨夜はなかなか眠れず、今朝も目覚まし時計が鳴るよりずっと早い時間に目が覚めてしまったため、いつもより二本も早い電車に乗ってしまった。どうせ家にいても落ち着かないのだから、さっさと登校してしまった方が気もまぎれると思ったのだ。

 この時間の電車は、座れるほど空いてはいないが満員というわけでもない。大きな乗換えの駅に向かう逆方向はぎゅうぎゅうの満員電車みたいだが、こちらは随分平和なものだ。早い時間とはいえ、同じ高校の学生もちらほら乗っており、その中には皺ひとつない制服をきっちり着込んで、『いかにも新入生です』といった雰囲気の女の子も存在した。

 新入生といえば、紗良はあの後どうしただろう。確かめようもないが、風邪などひいていなければいいのだけれど。


「あの……」


 窓の外を流れていく景色を眺めながら紗良との昨日のやりとりを思い出していると、いつの間にかすぐ隣に立っていた女の子がトントンと肩を叩き、声をかけてきた。聞き覚えのある声に顔を向けると――、


「えっ、紗……」


 そこにいたのは、もう会うこともないだろうと思っていた相手、紗良だった。


「やっぱり杉村さん。昨日はどうも」


 驚きのあまり固まったままでいる私に、ほっとしたような顔で「違ったらどうしようかと思った」と彼女が笑った。その拍子に、肩にかかっていた髪がサラリと背中に流れる。昨日は濡れて額や首筋に張り付いていたから、こんなにも艶やかな髪をしていたなんてわからなかった。淡く緑がかった瞳も、昨日より血色の良い頬も。とんでもない美少女だと思ってはいたが、朝の明るい光の中で改めて見ると神々しさすら感じられる。


「おはよう、びっくりしたわ」


 どうにか返事をした私に、紗良が頷いて同意する。


「私もびっくりしたけど、また会いたいと思ってたから嬉しい!」


 私がポーカーフェイスでいられたのはここまでだ。

 ああ、やっぱり私の推しは世界で一番可愛い。

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