4回表 新しい仲間たち

Top of 4th ininng ―新しい仲間たち―


 新たにGチームを創設し、7名の女子新入部員を迎えてから1ヶ月。

 当初は各自の体操着で参加していた彼女たちも年明けからは真新しいユニフォームに身を包み、寒空の下とはいえ野球部のグラウンドは活気に満ちていた。

 自称フリージャーナリストの立花が地方紙に持ち込んだ企画―新生女子野球部奮闘記―がまさかの採用を受け、定期的に取材を受けることも彼女たちのモチベーションアップに繋がっているようにも見える。

 体格や体力、筋力量の観点から流石に完全に同じメニューを課すことはしなかったが、慣れない彼女たちもこれまで持て余していた意欲で食らいつき、スポンジが水を吸い込むようにみるみる上達していく。

「いやぁ、教えるのって難しいなぁ」

「全くだ。まぁ、一つ一つのプレイを見直す機会ができて、俺は自分のためにもなっていると思えるかな」

 地面に座り込み澄んだ空を見上げる大庭に、二神が苦笑する。

 意欲的なメンバーが集まったとはいえ、経験値は体育の授業で少しだけソフトボールを嗜んだ程度である。

 短期間で試合をこなせる能力を身に着けるため、女子部員たちは希望と適正からポジションを予め割り振り、同じ守備位置の男子部員が付きっきりで指導することとなった。

「でも、少しずつ上達していく姿を見るのは楽しいしね」

 最近では三塁手を務める機会の多い大庭はバスケ部出身で2年生の財田を、投手も兼任し普段は遊撃手を担当する二神はバレーボール部出身の1年生齊藤を指導している。

 試行錯誤の指導は頭と身体の双方の体力を要するが、自身の動作一つ一つを見つめ直すことも多い。

 同じプレイヤーとしての観点から、教える立場の人間ができない訳にはいかず、自身の練習にも集中力と緊張感を持って取り組めている自覚がある。

「まぁ、夏菜は大変そうだがな」

 運動部出身ではない夏菜と琴音は、それぞれ左翼手と右翼手を任されることになった。

 琴音は意外にもそれなりの運動能力を有していたようで、運動部出身メンバーと比べれば遅れをとっているものの着実な成長を見せている。

 一方、マネージャーから選手へ転向した夏菜は周囲から考え直すよう説得される程に壊滅的な運動神経を如何なく発揮し、指導を担当する2年生外野手の山下は早くも匙を投げかけ、1年生の小川は知恵熱の余りについ先ほど保健室へ行ってしまった。

 それぞれが過去の指導や経験を踏まえながら苦心して教える姿を、鬼頭はベンチから満足そうに見つめていた。

「そっちはどうなんだ、浩平。”あの”水田先輩は」

 大庭から話題を振られた浩平はユニフォームの裾で汗を拭うと、珠音と一緒に短距離ダッシュを繰り返す舞莉を苦笑交じりに眺める。

「いや、何か、あの人すげぇわ。教える前はハチャメチャなんだけど、少し教えただけでもう完璧」

「へー......まぁ、二塁送球も最初から届いた上に安定しているし、持ち前の運動神経がよほどいいだろうね」

 遊撃手は守備連携の都合により、捕手の練習メニューに付き合うことも多い。

 当初は山なりで2回ほどバウンドさせた送球も、指導と数度の反復練習ですぐに矢のような球を投げられるようになった。

「”走り回るのは向いていない”って言っていたけど、足も速いよな」

 浩平もそれなりの脚力を持っている方だが、短距離走で余裕の表情を見せて並ばれた時には度肝を抜かれたものだ。

「こんなことを言っちゃいけないんだろうけど、あの人、本当に女子だよな?」

「出るとこ出てるし、間違いない」

 二神も同じ経験をしたからか、激しく頷いている。

 舞莉を見ていると、男女の体力や運動能力差とはいったい何のことなのか分からなくなってしまう。

「あの人は何で吹奏楽部なんだか」

「ついでに、写真部で新聞部だもんな」

 大庭と二神が顔を見合わせ、溜め息を漏らす。

「やぁやぁ、お三方」

 先程まで激しい運動を反復していた噂の種が、余裕の表情を浮かべ汗一つかかずに爽やかな表情で近寄ってくる。

「みんなどうしたの?考え事?」

 一方で練習パートナーを務めた珠音は息を切らし、冬とはいえ額に汗が滲んでいる。

『たった今、考えるのをやめた所だ』

 合図を出したわけでもないのに、3人の言葉がピタリと揃う。

「いかんなぁ、若人たちよ。人類が長い進化の歴史で獲得した唯一無二の能力を放棄するとは、偉大な先人たちへの冒涜だよ」

 あっけらかんとした表情の舞莉を前に、3人の溜め息はまたも揃った。



 練習後、鬼頭はキャプテンの野中の他、指導を担当する部員と珠音に加え、Gチーム結成の発起人である夏菜と琴音を集め、照明の下で即席のミーティングの場を設けた。

「皆に集まってもらったのは外でもない。Gチームの状態を聞きたいからだ。女子硬式野球の春の全国大会の参加締め切りが今月末に迫っていてな。締め切りもまだ先だし、開幕まで2ヶ月はあるが、大会への参加は指導者の立場から見てどうだろうか」

 Gチーム創設から春の大会まで僅か4か月。

 いくら男子の中でも際立つ珠音の才能と、もはや変態じみた能力の舞莉を要するとはいえ、野球はバッテリーの2人でできるスポーツではない。

「サードの財田とファーストの吉田はボールへの恐怖心も少ないみたいで、万全とは言い切れませんが、見込みはあるかと思います」

 野中の意見に、一同が頷いて賛同する。

 ボールのサイズ差はあれ、迫りくる白球を目で見て捉えられるのはバスケットボール部出身ならではかもしれない。

 他の部員からも各ポジションの状況が伝えられ、概ね形になるだろうという意見が多数を占めた。

 何とか試合に間に合いそうだと評価され、吹奏楽部と二足の草鞋を履く琴音も安堵の表情を見せる。

「そうなると、問題はショートとレフトか」

 当初より問題視されていた夏菜については予め守備負担の少ないポジションを割り振ったのだが、それを上回る不出来さに当の本人も顔を覆うしかなかった。

 現状で最大の問題は、内野守備の要である遊撃手の状態だった。

「齊藤もよくやってるとは思いますが、流石に運動量も多くて負担も大きいポジションだけに、ついていくのでアップアップな状態です。本人も時折焦りを見せているだけに、少し心配ですね」

 ポジションだけではなくクラスも同じ二神も精一杯のフォローをしているが、優れた成長スピードも要求水準の高さを満たすには間に合うか怪しい。

「水田先輩の能力だったらショートも何なくできるでしょうが、そうなると珠音の球を捕球できる人がいなくなってしまう」

 浩平の指摘に一同が納得の表情を見せ、場に沈黙が流れる。

 Gチーム結成と前後して、珠音の様子が変わったと部員たちは感じている。

 これまでは練習への取り組み方も他の部員と同様で、ただ”凄い”程度の女子選手にすぎなかった。

 チームが生まれ変わって以降、普段の生活については相変わらずの活発さを見せる一方、練習時に見せるストイックさは並外れている。

 部員たちも男女問わず、珠音の姿勢に触発された部分が大きく、個々の成長に多大な影響を及ぼしているといっても過言では無い。

「......もう一度、説得してみようと思います」

 沈黙を破ったのは、意外にも琴音だった。

「前に行っていた、断られた人?」

 珠音の問いかけに、琴音が小さく頷く。

 Gチーム結成の際、他の女子部員とは異なり夏菜と琴音が唯一本格的に勧誘を試みた人物がいたが、残念ながら取り合ってもらえなかったと聞いている。

 野球部員たちはその存在のみ聞いており、クラスや名前は感知していない。

「俺も聞いていないんだが、いったい.誰なんだ?」

 鬼頭もその存在を聞かされておらず、鬼頭の言葉に視線が琴音に集まる。

 伝えるべきか暫く躊躇った琴音も、溜め息の後に覚悟を決めたような表情を見せる。

「1組のまつ......伊志嶺さんです」

「伊志嶺......伊志嶺って、あの陸上部の伊志嶺か?」

 大庭の驚いたような声を合図に、視線が隣のグラウンドで居残り練習に励むスレンダーな体躯に向かう。

 陸上部に所属している”伊志嶺まつり”は隣接する藤沢市の出身で、入学以来短距離走者として優秀な成績を収めている。

 練習姿勢のストイックさも有名で、全体練習の終了後も下校時間ギリギリまで居残り練習を続けていることを知らない運動部員はいない。

「私と同じ中学校でクラスも同じ、仲は良かった方だと思います。確か、シニア......?って所で野球をしていると言っていました。当時は詳しくなかったのでうる覚えですが、ポジションはショートと言っていたような気がします」

 多くの中学校が部活動として取り組む軟式野球とは異なり、各地には中学生を対象とする硬式野球チームも存在している。

 所謂リトルシニアと呼ばれ、中学軟式野球大会とは別団体として大会を独自運営しており、中には学校では部活動に所属せず硬式野球チームに所属する生徒も多い。

 この状況で硬式野球経験があり、ポジションも目下の課題と合致している可能性が高いとなれば、是が非でも得たい人材である。

「でも、3年生の夏を過ぎた辺りから急に疎遠になってしまって......名前みたいに、明るい性格だったのに、急にトゲトゲとした感じに......」

「この前、思い切って声を掛けたんですけど、野球部の話をしたら急に態度が険しくなって、取り付く島もないって感じでした」

 口ごもる琴音を励ますように、夏菜がフォローする。

 珠音を介して知り合った2人も、今ではすっかりいいコンビである。

「今度は私も一緒に行くよ。2人ばっかりに迷惑を掛けられないし、むしろ行かせて」

「迷惑だなんて......ありがとう、明日にでも声をかけてみよう」

 翌日の段取りを決めた後、集合した部員たちが解散していく。

 最後まで光に照らされていた珠音と浩平の姿を、スレンダーな少女は恨めし気に見つめていた。



 現役野球少女と元野球少女の対面は、仲介する琴音がいくらか胃を痛めた程度で無事にセッティングされた。

「ここ、生徒は立入禁止のハズなんだけど。しかも寒いし」

「確かに寒いよね。でも、ゆっくり話すにはここが一番だと思ったから。手短に済ませようか」

 最も、フランクに話しかけようとする珠音に対し、珠音より少しだけ小柄な背丈、切れ長三白眼が特徴的な元野球少女はとても友好的とは言えない態度で応対し、気弱な琴音は緊張と寒さで早くも指先の感覚がなくなっていた。

「私は楓山珠音。野球部でピッチャーやってます」

「自己紹介なんてしなくても、あなたは”有名人”だから分かるわ。私のことも琴音から聞いて声をかけてきたんだろうから、しなくていいでしょ」

 にこやかな珠音に対し、無愛想な少女。

 暫くの無言の時間が続くと、少女は寒さに耐えかねたのか観念したように口を割る。

「伊志嶺まつり」

 まつりは溜め息をつくと、珠音は満足そうな表情を見せる。

 その様子を、こっそり後をつけて来た浩平と大庭、二神、夏菜の4人が出入口で固唾をのんで見守っている。

「ありがとう。伊志嶺さんをこうやって呼び出したのは、あなたの力を野球部に貸して欲しいからなの」

 珠音の言葉を聞いた途端、まつりの表情が無愛想から険しさへと変化する。

 若干の垂れ目から放たれた鋭い視線が琴音を突き刺すと、琴音は海からの寒風に晒されたのと相まり震え上がった。

「琴音から何を聞いたか分からないけど、私は野球部に貸すような力は無いし、あったとしても貸すつもりはない。それに今は陸上部だってあるんだし、手を貸すなんてできる訳ないでしょ」

 話は終わったとばかりに、まつりは屋上を後にしようとする。

「待って」

「何で」

 呼び止めに対して怒ったような口調で返し、流石の珠音も怯む。

「私はもう野球はやらない。決めているの」

 凄味のある口調に珠音は言葉を続けることができなかった。

「琴音も吹奏楽を続けてるんでしょ。コンテストも近いんじゃない?野球なんかやってないで、フルート頑張ったら」

「まつり、待って!」

 まつりは琴音の呼び止めにも応じず、屋上の出入口を乱暴に開く。

 勢い良く開かれた出入口付近で隠れていた野次馬に睨みを聞かせた後、珠音には一瞥もくれず姿を消した。

「ごめんね、珠音」

「大丈夫、ありがとね」

 夏菜の表現の通り、まさしく”取り付く島”もない様子だ。

 順調に進む硬式野球部Gチームの前に、最初の壁が立ちふさがった。



 某日の昼休み、寒空の下で行われた対談における交渉が不調に終わって以降、珠音は再びの機会を得ようと試みて続けた。

 しかし、昼休みに声をかけようと教室を訪ねれば彼女はおらず、クラスメイトすら行く先を知らない。

 部活前を狙っても使用するグラウンドが異なることもあり「急いでいる」、部活後は「疲れている」の一言で顔を合わせてくれず、呼び止めようとするものなら全速力で逃げられて追いつくことができない。

 吹奏楽部として舞莉と琴音が出演したアンサンブルコンテストの東関東大会を野球部で応援に行った際は支部大会会場で鉢合わせたものの、金賞を受賞した琴音に声を掛けるとすぐに帰宅してしまい、話しかける隙すら見いだせなかった。

 タイミングを見計らっては声を掛けと勧誘の日々を続けていると、気が付けば大会参加への申し込み期限は間近に迫り、1月最後の週末へと突入してしまっていた。

「改めて、野球で瞬足のランナーが重宝される理由がよく分かったよ」

 珠音はクタクタといった様子で、ベンチに力無く横たわる。

 土曜日も部活動があるとの情報は仕入れていた珠音は、今日も今日とてアタックを仕掛けるも、圧倒的な走力差を前に成す統べはなかった。

「これで19連敗か」

「うわぁ、プロ野球の連敗記録超えた......」

 その都度、様子を見守っていた浩平の呟きに、珠音は溜め息で応える。

「もう無理なんじゃないの」

「私が頑張るから!」

 大庭の言葉に代表されるように、周囲からも諦めの声が上がる。

 事の原因の一端でもある齊藤も、焦りを必死に隠して珠音を励ましている。衣服で見えない少女の柔肌には多数の痣や擦り傷があり、どうにも殻を破れていないといった様子だ。

「それにしても、どうしてあんなに邪険にするんだろうか」

「あそこまで頑なだと、かえって原因が気になるね」

 浩平の疑問に、二神が同調する。

「でも、暫く疎遠になってた友達のコンテストにわざわざ駆け付ける律義さや優しさがあるんだ。諦めるのは早いさ」

「どこかに解決の糸口が転がっていないだろうかねぇ......できれば、私と会話してくれるような優しい糸口がいいなぁ」

 珠音が澄んだ空に浮かぶ丸い雲を眺めている。

 近頃のストイックさなど微塵も感じられない呆けた表情に、浩平も打つ手なしといった様子で肩をすくめる。

「優しい糸口ねぇ。例えば、あんな感じか?」

 大庭が指さす方向。

 野球部のグラウンドを見渡せる場所に、鎌倉大学附属高校とは異なる制服に身を包んだ女子生徒が1人で立っていた。

 気が付いた他の部員が、グラウンドに招き入れる。

「あ、あの!」

 緊張の面持ちの少女が珠音の前に立つ。

「私、シニアで野球をやっていて......レギュラーではなくて控えだったんですけど、鎌大附属に女子野球部ができたって新聞で見て、野球を続けたくて、願書を出しに来たんです!」

「シニア!?経験者なの!?」

 珠音は驚きの表情を浮かべ、大袈裟なリアクションをとる。

 思えば湘南杯以降、珠音を中心に鎌大附属硬式野球部は極めて小規模ながら度々メディアに取り上げられている。

 立花の記事が掲載される都度、女子硬式野球に関する問い合わせがあると、最近になってヘアマニキュアで白髪を隠し始めた鬼頭に言われたことがある。

 一学年下で必死に喋る少女も、その内の1人なのだろう。

「それじゃあ、受験に合格したら君は後輩だ」

「頑張ります!......あの、ところで」

 激励を受けて気合の入った少女が、もじもじと周囲を伺っている。

「まつり先輩は、野球部にはいないんですか?確か、鎌大附属に進学したって聞いたんですけど」

「まつり先輩......?」

 珠音は横にいた琴音に確認を取り、返事を聞く前に少女が口を開く。

「はい、伊志嶺まつり先輩です。学校は違ったんですけど、同じシニアチームで二遊間を組んだこともあるんです。女子野球部ができたのなら、てっきり野球部にいると思っていたんですけ......ど?」

 少女が話終わるまでに、野球部員がわらわらと集まってくる。

 名もまだ名乗っていない緊張の面持ちの少女に年長の男女が詰め寄る様子は、見るからに尋常では無い。

 自分たちの奇行に部員たちが気付いたのは、少女が今にも泣き出しそうな表情で弱々しい悲鳴を上げた瞬間だった。



 プルタブが引かれ、てこの原理で口金が押し込まれると、”カシュ”という心地良い音と共に柔らかな湯気が立ち上る。

「重ね重ね、うちの部員たちが申し訳ない」

教え子たちから幼気な少女を救出した鬼頭が教え子たちの奇行を謝罪し、お詫びも兼ねてホットミルクティーを買い与える。

「ごめんなさい、私たちも伊志嶺さんのことで気になることがあったものだから、名前が出て思わず」

「私たちのことは嫌いになっても、鎌大附属は嫌いにならないで下さい...」

「い、いえ」

 珠音と夏菜が代表して謝罪すると、少女は苦笑してミルクティーに口を付け、静かに思い出を語り始める。

「私たちのチームに女の子は私たち2人だけでした。まぁ、女の子が1人いるだけでも珍しいので、私たちのチームは相当変わっていたのだと思います」

 各中学校の軟式野球部ですら極少数派の女子選手であり、シニアチームとなると尚更である。

「私は度々試合には出させてもらえましたが、終にレギュラーになることはできませんでした。やっぱり、力も体力もある男子にはなかなか敵わなくって」

 少女は苦笑を見せる。

 鎌大附属の硬式野球部にGチームが設置されなければ、彼女もまた高校進学を機に競技を転向した女子野球選手の1人になったかもしれない。

 もちろん、スポーツ推薦が無い以上、無事に受験という競争を勝ち抜いた場合に限るのだが。

「私がチームを抜けずに最後までやれたのは、まつり先輩への憧れがあったからです。まつり先輩は最後までショートのレギュラーを男子に渡さず、トップバッターとしてチームを引っ張り続けました」

「凄い......」

 齊藤がポツリと感嘆する。

 彼女は経験者でこそないが、今担っているポジションの過酷さは身に染みている。

 筋力や体力に劣る女性選手が最後までポジションを守り通した努力には、称賛を受けるべきことだと、肌で感じることができた。

「それだけ努力してきたのに、どうして野球を毛嫌いしているんだろう」

 少女の話を聞いて、珠音はまつりの行動がさらに分からなくなった。

「......思い当たることがあります」

 少女が俯き、まるで自分のことのように悔しそうな表情を浮かべる。

「最後の大会の後、引退したまつり先輩は高校野球ではなくて、受け入れてくれるクラブチームを探したそうなんです。でも、ウチは決して強いチームではなかったこともあってレギュラーとしての実績としては弱かったですし、実力や体力面でハンディのある女性選手を受け入れてくれるクラブチームには、最後まで出会えなかったそうです」

 投手であれば1イニングでも長くマウンドに立ち、自信のあるボールを投げ込んで打者を打ち取れさえすれば、打って走れなかったとしても最低限の仕事を果たすことはできる。

 しかし、野手として続ける限り、出塁を目指して投手の力強いボールを打ち返すパワーが、一つでも先の塁と得点を目指す脚力が、相手の勢いを凌ぎ一つのアウトをもぎ取る瞬発力が求められる。

「引退して暫く経ってから会う機会があったんですが、その頃には以前のような明るさも、野球への情熱も無くなっていました」

 高い要求水準は人生の階段を上るごとに険しい岩壁となって立ち塞がり、積み重ねた努力を認める人にも、支えてくれる人にも恵まれなかった彼女の未発達の心は、自らを支えられなくなったのかもしれない。

「”のぞみ”、もう喋らないで」

 野球部員ではない険しい声に、一同は驚いて振り向く。

「伊志嶺さん」

 威圧感を前面に押し出したまつりに、珠音は思わず唾を飲む。

「まつり先輩、久し振りですね」」

「人のことをペラペラ喋らないで」

 駆け寄ろうとした“のぞみ”を言葉で威圧して制し、その視線を部員に向ける。

「彼女の言った通り、わたしを受け入れてくれるクラブチームは無かったわ。私の努力や実績は、私が女だからってだけで認めてもらえなかった」

 拳を握りしめる姿は、珠音の姿に痛々しく映る。

「もう決めたの。野球なんてやらない。野球は男子のスポーツだから、あなたたちみたいな俄か作りのお遊びチームなんて知らない」

 ストイックで普段はクールな印象のまつりが、感情的に声を荒らげる。

「お遊び......だって?」

 野球部で最初に言い返したのは、それまで会話に混ざっていなかった夏菜だった。

「好き放題に言ってくれるじゃない。私たちだって、大会目指して頑張ってるんだよ!」

「選手も経験が圧倒的に不足している急造チームで、何ができるって言うの。1回戦負けが目に見えている」

「そんなことは分かっている。でも、私たちが前に進むためには必要なの!」

 Gチームの面々が頷き、まつりに相対する。

「楓山さんのため?」

 まつりの視線が珠音を捉えるが、何かを返そうとする珠音の前に夏菜が視線を遮るように立つ。

「言ったでしょ、私たちのためだって。私たちは最近になって見つけた、私たちのやりたい事のために努力しているの」

「......分かったわ。なら、どんな努力だって、圧倒的な実力差の前では意味がないことを教えてあげる。私がピッチャーやるから女子部員はバッターやって。誰か一人でもヒットを打てたら、あなたたちの勝ち。まぁ、勝っても負けても何かある訳ではないし、対価はなしでもいいよね。悪いけど、誰かキャッチャーをお願いできませんか。できれば、守備も借りたいです」

 まつりは倉庫に眠っていたグローブを借りてやや不満気な表情を見せると、やれやれと言った様子でマウンドに立つ。

 肩慣らしを済ませた後にスリークォーターから投じられた快速球が、キャッチャーミットに小気味良い音を立てて収まる。

「綺麗な回転だな」

 肩慣らしを始めると、ブランクを感じさせない球筋に捕手を買って出た浩平が素直に感心する。

 球速は珠音程とはいかないが、伸びの良い球はキャッチャーミットに収まるまで威力が落ちることは無く、失速しているようにも見えない。

「ちょっと厳しいかもな」

 投手としての珠音は男子も舌を巻くレベルだが、打撃は並かやや以下と言ってもいい。

 浩平の口から出た言葉は、素直な気持ちと客観的な状況評価を示していた。



 鈍い金属音がグラウンドに響き、6番目に打席に立ったバトミントン部出身の佐野が悔しそうな表情を見せる。

 力の無い打球が余裕の表情を見せるまつりの前に転がると、軽快なフットワークで一塁へ送球する。

「やっと前に飛んだじゃない」

 まつりが言うのもそのハズ、野球を初めて2ヶ月にも満たない初心者が、ブランクがあるとはいえ経験者の投球を簡単に打ち返せるほど、甘くはない。

「舞莉先輩、頑張って!」

「ほいさ!」

 7番打者を務める舞莉が8番打者の夏菜の肩を叩き、目を閉じ集中すると、不敵な笑みを浮かべる。

「......この人は気を付けた方がいいかな」

 長年の経験か、飄々と打席に入る舞莉を見て、まつりが自分の中のギアを一つ上げる。

「んぅぉっ、打席で見ると、観察していたよりも数段勝る威力だなぁ」

 初球を空振りした舞莉が、ケラケラと感嘆の声を上げる。

 2球目、3球目。

 律義にストライクゾーンで勝負するまつりの投球に食らいつくも、打球はフェアグラウンドに飛ぶことはない。

 変態じみた才能を持つ舞莉であっても、少ない経験値を補うのは難しい。

「あいやー」

 4球目。

ついにフェアグラウンドに飛んだフライはすっぽりとまつりのグラブに収まる。

「残念。まぁ、私は引き立て役だしね」

 言葉ほどに残念さを出していない舞莉が、次打者としてガチガチに緊張している夏菜の肩を叩く。

「夏菜、一生懸命素振りしてたじゃん」

「は、はい!」

「大丈夫だ!」

「......頑張ります」

 夏菜が打席に立ち、身体を暖めようと3回程素振りをする。

「へぇ、左打なんだ」

 右利きながら右打席でのスイングに希望を微塵も見いだせなかったキャプテンの野中が自棄になって夏菜を左打席に立たせたところ、予想に反して動きに無駄のない素直なスイングを見せて以降、夏菜は利き手とは反対の打席に立っている。

 まつりは速球を投げ込むと、緊張のあまり初球を呆然と見逃してしまう。

「ほらほら、さっきの2人を見習いなよ。バットは振らなきゃ当たらないよ」

 舞莉に対する時に一段上げたギアを、下げることは無い。

 最後に控える珠音は打撃が不得手とはいえ、Gチーム唯一の経験者である。

 ブランクがあるとはいえ温まった肩は快調な投球を続けており、無駄に冷やすような真似も、集中力を途切らせるような真似もしたくはない。

 本職ではないとはいえ、自分の投球に初心者が当てることなんてできないだろう。

 他人から見れば驕り以外の何ものでもない思考は、グラウンドで一番高い場所に立つ存在を場の王者として君臨させる。

「......え」

 だからこそ、初心者かつ傍から見ても壊滅的な運動神経の夏菜がファールチップとはいえボールをバットに当てたことは、まつりのやや慢心し始めていた思考に僅かな動揺を与えるには十分だった。

「行けるよ、夏菜!」

 ネクストバッターズサークルにいる珠音に続き、ベンチからも先に凡退した女子部員たちが声援を送る。 

「......よし」

 夏菜は根拠のない自信を瞳に宿し、ピッチャーをじっと見つめる。

 3球目、4球目。

「どうして、そんなボールにまで手を出すの」

 今の夏菜に、ストライクゾーンを見極めるだけの能力は無い。

 ボール球にも無理やりバットを出して喰らい付き、ファウルで粘っていく。

「あんただって言ったでしょ。バットを振らなきゃ当たらないじゃない」

 滅茶苦茶だ。

 まつりは自分の動揺が収まらないことに、憤りを覚え始めていた。

「あっ」

 5球目。

 力は無いが高く跳ね上がった打球が、投手と一塁手の中間へと飛んでいく。

「オーライ」

 この日は一塁手を務める大庭が勢いよく突進して捕球する。

 相手が身内とはいえ勝負事であり、手を抜くようなことはしない。

 二塁手よりも先に投手の方が先に一塁ベースに駆け込めるため、まつりがベースカバーに入る。

 決して足も速くはない夏菜が、マネージャーとしてベンチ入りしていた時に男子たちが試みていたように、見よう見まねで一塁ベースに向けて頭から滑り込む。

 2人の競争の判定が、塁審を務める鬼頭に委ねられる。

「アウト」

 お世辞にも上手とは言えないヘッドスライディング。

 傍から見ても滑り込んでいるのか転んでいるのか分からず、起き上がれば見える限りでも数カ所擦り傷ができている。

「あー......悔しい!」

 一塁ベースを握り拳で叩き、夏菜は悔しさを露にする。

「ナイスガッツ!」

「惜しいよ惜しいよ、ナイスラン!」

 泥臭くてもいいからヒットを打ちたい。

 そんな思いが涙もろい瞳から溢れ、夏菜は四つん這いになってしばらく動かなかった。

「何で、そんなに必死になるの」

「......どういう意味?」

 まつりの投げかけた言葉に、目を赤く腫らした夏菜が睨みを効かせる。

「野球は男子のスポーツだから、女子がどんなに頑張っても努力が認められることはない。それがどうして分からないの?」

 まつりの言葉は、夏菜に分からせるためと言うより、まるで自分に言い聞かせているよう見守る鬼頭には感じられた。

「私が分からないのは伊志嶺さん、あなただよ」

 ヘルメットを被り、バットを手にした珠音が代わりに返答する。

「私の努力は認められなかった。だから、私たちは私たちの努力を認めてもらうために動いている。あなたも言った通り、バットを振らなければヒットは打てない。認めさせるには、認めてもらうための努力を見せなきゃ」

 意思の籠った珠音の瞳を、まつりは見ることができなかった。

「あなたは、何をしたの?」

「......うるさい」

 珠音の視線から逃れるように、まつりはマウンドへと逃げていく。

 グラウンドで最も高い場所に立つ力強い王者は、まるで街亭の戦いで孤立した馬謖のように弱々しく映る。

「さぁ、勝負!」

 マウンドとバッターボックス。

 逃れたくとも、嫌でも顔を合わせなければならない。

「(どうして笑っている?)」

 楽し気な雰囲気を纏う珠音に、まつりの頭が混乱していく。

 認めてもらうための努力を、自分はしていただろうか。

 ただ探しただけで、断られた後に何か行動を起こしたことがあっただろうか。

 入団を認めてもらえるよう、プレイを見てもらったことはあっただろうか。

 真っ直ぐ前を見て進もうとしている珠音と、そこに集まった選手たちの姿。

 それらと比較した自分は、果たして過去にも未来にも”動いている”と言えたのだろか。

「プレイ!」

 主審を務める野中の声で現実へと引き戻されたまつりは、真ん中に構えられたキャッチャーミットに集中する。

 初球。

 これまでの8人のバッターなら判別がつかずに無理やりスイングしたボール球を、珠音はバットをピクリと反応させた程度で見送る。

「いい球」

「だろ。珠音以外の女子でこれだけ投げられるのは、そうそういないよ」

 珠音の呟きに、浩平が素直な感想を寄せる。

 2球目。

 外角高めにやや逸れた直球に、珠音も思わずバットが出る。

「あー、ボールだ」

 金属音が響き、打球は三塁側ファウルグラウンドに鋭い打球が飛ぶ。

 珠音は悔しさを露にすると、再び打席でバットを構える。

「(えっ......)」

 3球目。

 ノーサインで捕球し続ける浩平が、思わず驚きの表情を浮かべる。

 やや外角に膨らむ軌道を描いた投球が急制動をかけ、左打席に立つ珠音の内角へと切り込んでくる。

 直後に響く、鈍い金属音。

「伊志嶺さん、いいスライダー持ってるね」

 にこやかに笑う珠音は、クルリと腰を回転させて一塁側にファールボールを転がす。

「おい、ノーサインで変化球を投げるな!」

 意思疎通が取れないと、硬球だけにケガに繋がる可能性がある。

「真剣勝負でしょ。私は本職ではないんだし、ブランクだってあるんだから」

 不満気な浩平に対し、まつりは表情を変えずに淡々と話す。

「(当てられたか......)」

 投手としての登板経験は浅いが、スライダーにはそれなりの自信を持っている。

 事前情報も無い状態で得意球を当てられたことに、まつりは悔しさよりも気持ちの昂りを覚えていた。

「さっきまではただ怖いだけだったけど、いい顔になってきてんじゃん」

 まつり自身、自分の表情を変えた覚えはない。

 しかし、気持ちの昂りは自然と顔に現れていたらしく、珠音に見抜かれてしまった。

「......うるさい」

 少なくとも表情だけは取り繕った上で投じた4球目。

 真向勝負を挑んだ速球は快音と共に弾き返され、遊撃手の頭上を越えて左中間を深々と破っていく。

 走る必要もないのに珠音は全力疾走を見せ、2塁ベースへ滑り込む。

 ボールを処理した中堅手と中継に入った遊撃手は卒の無い動きを見せたが、2塁ベースに向けた返球と打者走者の競争は、珠音に軍配が上がった。

「負けたか」

 口から出た呟きとは裏腹に、まつりの心は晴れやかだった。

 2塁上から小走りに珠音が近付いてくると、バッティンググローブを外して握手を求めてくる。

「いい勝負だったね」

「......そうだな」

 自然にこぼれたまつりの笑みに、珠音は満足そうな表情を見せる。

「ねぇ、伊志嶺さん。私たちは自分たちの”やりたい”を大事にして、やりたい事をできる権利を認めてもらうために、努力をやめるつもりはないの。そのために、伊志嶺さんの力も貸して欲しい。一緒に、野球をやらない?」

 真っ直ぐ先を見据えた綺麗な瞳。

 今度は直視できた珠音の瞳を見て、まつりは観念したような表情を浮かべる。

「......分かった。陸上部のこともあるから兼部になると思うけど、それでも良ければ」

「やった、ありがとう!」

 珠音はまつりの手を取り、大きく上下に振り回す。

 鬼頭以下、部員たちはその様子を笑って見守っていた。

「あの......一ついいかな」

「何?」

「我が儘を許してくれるなら、もう1打席勝負させてくれない?」

「私はいいけど......同じ勝負?」

「楓山さんがピッチャーで、私がバッター」

 まつりの提案に、珠音が目を煌めかせる。

「いいね!」

 周囲に響く珠音の声。

 先程までの緊迫感は薄れ、グラウンドには楽し気な活気にあふれた。



 鼓動の加速を感じながら、まつりは右打席に立つ。

 陸上部のレースでも感じない訳では無かったが、久し振りに握るバットの感触すら、まつりの気分を高揚させた。

「(投球練習の様子でも分かる。少なくとも、二流の投手よりは遥かに上だ)」

 ここ数ヶ月で磨き上げた質の高い速球。

 タイミングを外し、視線をブレさせる変化量の大きなスローカーブ。

 同じ手の振りから投じられるスライダーとチェンジアップ。

 強豪校の男子投手と比べれば遥かに劣る球威も、持ち前のコントロールと投球術で補っているように見える。

 ここまで5球。

 恐らく全ての持ち球を駆使して勝負を挑んでくる珠音に、まつりは自身の興奮を隠せずにいた。

 投じられた6球目は、インコース低めの難しいところに構えられた浩平のキャッチャーミット目掛けてブレのない真っすぐな軌跡を描く。

 直後に響く快音。

 長年の努力が染み付いた身体は肘を瞬時に折り畳み、軸の回転を意識した無駄のないスイングはボールを三遊間のど真ん中へと運ぶ。

「うわぁ、やられたぁ」

 悔しさと楽しさが入り混じった珠音の声。

「引き分けだね」

 微笑みかける彼女に、自分はどんな表情を浮かべたのだろうか。

「確認できた?」

「......おかげさまで」

 喉に刺さった魚小骨のようにつっかえていた心のもやもやが、快音と共に吹き飛ばされたように感じられる。

「へぇ、伊志嶺さんってあんな表情するんだ」

「はい、シニアの時はいつもあんな感じでした」

「学校でもそうだったよ」

 守備陣が先にベンチへ引き揚げてくる姿を出迎えながら、夏菜はマウンド付近で話し込む2人を眺めて感想を漏らす。

 クールな印象の強いまつりだったが、”のぞみ”と琴音曰くあれが本来の姿らしい。

「そういえば、君の名前をちゃんと聞いていなかったね。何て言うの?」

「あ、はい。糸口希望―いとぐちのぞみ―です」

『話してくれる優しい糸口いた!』

 グラウンドに賑やかな声が響くと、珠音とまつりも輪に加わろうと駆け寄ってくる。

 上空から聞こえてくる甲高い鳥の鳴き声。

 空を見上げると、しばらくグルグルと旋回していた鳶が目的地を定め、一直線に進んでいった。

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