映らない鏡

霞(@tera1012)

第1話

 自分には生まれられなかった姉がいたと聞かされた時から、姉は私の守り神になった。彼女の話をするときの母の声は少し寂しげで、でも私を呼ぶときとはちがう愛しさにあふれていて、決してまみえることのないその存在は、私の中で常に特別だった。


 母は弱い人だった。立っているのに常に誰かの支えを必要とし、それに全力で寄りかかった。父は、ある時から母の支えの役割を果たさなくなった。おそらく、重みに耐えられなくなったのだと思う。

 父が家に帰らなくなってしばらくしてから、私は頻繁に、鏡の中に姉の姿を見るようになった。

 母の子宮の中で、静かに心臓を止めたという姉がどのような姿形をしているのか、もちろん私には分からない。それでも、洗顔後にふと上げた視線の先の鏡に映る、自分のようで確かに自分とは違って見える顔や、玄関先でふいに目に入るどこかが奇妙な自分の姿に、あ、お姉ちゃんだ、とそのたび私は思った。


「お姉ちゃんにあやまりなさい」

 初めて母に言われたのが、いくつの時だったのかはもう覚えていない。

「お姉ちゃんが生まれていれば、お前は生まれてはこなかった。お姉ちゃんはお前のように愚図でもないし、こんなわがままも言ったりしない。かわいらしくて何でもできる良い子なの。お前は、お姉ちゃんがもらえたはずの幸せを横取りして生きているというのに、どうして私に手間をかけさせるの。お姉ちゃんにあやまりなさい。こんな愚図でできの悪い妹でごめんなさい、お姉ちゃんの幸せを奪ってごめんなさいって」


 母がどこか狂ってしまっているのは、学校に行く年齢になるころには気がついていた。母は、寄りかかるに足りない私を痛めつけ、加虐の愉楽に浸ることで、現実のもたらす痛みに耐えていたのだと思う。それでも、彼女の言葉は、私の中の脆く柔らかい部分を、的確に鋭く刺し貫いた。

 母の歪んだ口元を目にし、鋭く鈍く打ち据えてくる言葉を耳に受けながら、私はいつも、母の背後の鏡に映った姉の顔を見つめていた。鏡の中の姉は、優しく微笑みもせず、眉をひそめもしない。ただ、じっとまっすぐに、真剣な瞳で私を見つめている。その瞳に、私はいつでも確信を持つことができるのだ。

 お母さんは知らないけれど、お姉ちゃんは私を許してくれている。お姉ちゃんは、私を憎んだりはしない。私が幸せになることを、妬んだりもしない。

 鏡台に背を向け座り、ただひたすらに罵詈雑言を紡ぐ母の前で、私はまっすぐに背筋を伸ばして立ち続ける。

「なんてふてぶてしい子だろう」

 私が母の目を見返すと、母はますますいきり立ち、金切り声を上げ続けるのだった。


 それでも、子供というのは無力なものだ。母に金銭的に支配されている事実は、覆しようがなかった。高校生活も半ばに入ろうかという頃、私は、自分がそこから先の人生を決める権利を与えられないことを知った。

 その時も、私の前には鏡があった。母の良く動く口元をぼんやりと眺めながら、自分の道を切り拓くために必死に励んできた勉強も、課外活動も何もかもは何の役にも立たないこと、自分は高校卒業後に温泉宿の住み込みの仲居となる予定だということを、まとまりのない話のあちこちをつなぎ合わせて理解した。

 ああ、終わりだ。殺そう。私の胸の内で誰かが言った。


「お母さん、私はあなたの思い通りにはならない」

 私の言葉に、母はいつものように金切り声を上げる。

「なんてことを言うの、お前には恩を返すという頭もないのかい。お前に全部ネコババされたお姉ちゃんにあやまりなさ――」

「お姉ちゃんなんていないよ」

 私は、母の瞳孔の開ききった瞳を眺めてゆっくりと言う。

「私にお姉ちゃんなんていない。お母さんが、おなかの中でんだよ。お母さん、あなたには、目の前のこの、あなたにそっくりの、愚図で役立たずの娘、ひとりしかいないの。そして、その娘もこれから、いなくなる。もう私、あなたの娘はやめるわ」


 母はただ目を見開いて、生まれて初めて口に出して反論をする私を見つめていた。私は、母の心に最後の刃を突き立てようと息を吸い込む。それは、今の自分には歩くよりも容易いことのように思えた。

 口を開きかけた時、母の背後の鏡が目に飛び込んできた。あ、お姉ちゃん。とっさに私は思い、それから理解する。

 そこには、加虐の悦びにらんらんと瞳を輝かせ口元を歪ませた、目の前の女にそっくりの誰かの顔が映っていた。


 私の肺から音もなく、細く長く空気が漏れ出していく。一度目を閉じて鏡から顔を逸らすと、母に背を向け、饐えた匂いの立ち込める寝室を後にする。


 それからすぐに、私は家を出た。

 そのあと一度も、私の前の鏡に、姉が映ったことはない。

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