1−19 怒れる炎妖



 壺が砕ける音が遠くに聞こえた。

 いや、本当は大きく響いていたのだろう。ただ、目の前から迫り来る熱波に意識を奪われていただけ。


 部屋を白く照らし上げる猛烈な熱波を前に、俺の体は反射的にシャーロットを庇っていた。


「『断絶せよ妖精の悪戯イルコロモニア!』」

「『水盾は悪き炎を許さずル・アテナ・アペイリア──!』」


 目の前に二つの魔術が展開される。


 アレットの展開した巨大な水の盾が熱源から遮るように設置され、肌を即座に焼くような熱が減衰した。指輪に仕込まれている緊急用のものなのだろう、控えめな音と共に彼女の両親指を飾っていた指輪の宝石が砕け散る。

 それとほぼ同時、あるいはそれより一瞬早く、世界を隔てるような薄膜の結界が展開されている。


 

 当然、熱風は老執事の全身を襲う。


「ギュスターヴ、なにをしている⁉︎」

「──これは贖罪なのです、お嬢様……いえ、リーティア・ヴァン・カリステリア様」


 二重の防壁と老執事の向こうで炎波が徐々に形を持ち始める。

 形を持った白熱が、見上げるほどの巨体へと変化し、軽鎧を纏った人のような姿へと変化していく。


 ──焔より生まれ、象徴たる炎と暴力を尽くして暴れ回り、ついには壺に封じられ。

 流れ着いた先で人の手によって封を切られ脱出するも、騙され再度封じられた逸話を持つ強大な妖精ジン。幻想がほとんど消え去り魔の担い手も大半が消え失せた今、魔術ではなく魔法に近い幻想の種族の一員。思うがままに力を振るえる、存在そのものが圧倒的に魔術に対する上位存在の中でも有名なソイツ。


 その名は暴虐なる男妖炎イフリート、あるいは戦禍たる女妖炎イフリータ

 戦装束を纏い、長大な槍と円盾を構える姿はどこか女性的……おそらくは女妖炎イフリータだろう。


「呪いは、被呪者だけでなく術者のことも往々にして呪うのだ。壺に封じ流され、人に騙され再度封じられた暴虐の妖精が、魔術の材料として好き勝手に使われればどう反応するかなど、言うまでもない」

「アイツはギュスターヴを狙ってるってことだな……!」

「それだけで済めば良いが」


 ようやく理解が追いついたのだろう。

 アレットやギュスターヴ以外の面々もそれぞれの戦闘具を取り出し、イフリータを睨んでいる。


 俺は、シャーロットを抱き抱えて最後方まで下がり、第三号室から出ようとして。


「熱ッ⁉︎」


 赤熱寸前の熱を持っているドアノブから反射的に手を離す。

 正面から迫る熱波に押され、僅かに傾き歪むことでできた隙間から外を見れば。


「おい、廊下が火の海だぞ! どうなってる⁉︎」

「呪術の儀式が逆に起きているんだ! 絨毯そのものは変わったが同じ模様のを使っているから……!」


 ギュスターヴは、絨毯のタイル模様をルーン文字と見做すことで魔術合成を発動した。呪術の儀式、あるいは魔術合成の片割れを担わされた女妖炎イフリータには、今もなお呪術の影響の残滓が残っている。

 その影響で、取り替えられて新品ではあるが変わらずタイル模様の絨毯は、ルーン文字の素材として無理矢理励起させられ暴走していた。


 隙間から見るだけでも廊下全体を火が埋め尽くしているのがわかるし、女妖炎イフリータが最初に浴びせてきたほどではないにせよ、火傷を負いそうなほど高温の熱波が流れ込んでくる。


「廊下をどうにかしないと逃げることすらままならないぞ」

「水の魔術は?」

「すみません、手が離せないです……あの妖精を抑えるので精一杯です!」


 この中にいる水系統を使えるのは二人。アレットとギュスターヴだ。

 だが、その二人ともが女妖炎イフリータにかかりきり。人間への憎悪を燃やし、手に持った長槍と熱波を振り撒くのにどうにか対処をしているという状態だ。たとえ片方だけでもあの場から欠けてしまえば、廊下の惨状のように部屋の内部も燃やし尽くされてしまうだろう。

 女妖炎イフリータを即座に倒す術も思い浮かばず、かといって逃げることもできず。半端に逃げても追って来て被害を広げるだろうと思うと、下手に動くこともできない。


「……どうしたらいい」

「ヤツの力は、妖精としての格の高さもそうだが、魔術合成によって力を飛躍的に伸ばしていると考えられる。ルーンの力を取り込んでただでさえ高い戦闘力を上乗せしているんだ。そうなれば、どうにかルーンを破壊できれば力を削ぐことはできるはずだ……!」


 再度、隙間から廊下を見る。

 タイル模様に合わせて火線のルーンが刻まれ、眩く赤熱しながら炎を噴き上げていた。絨毯が燃え尽きれば終わるならともかく、どうやら床や位置そのものに存在が刻みつけられているようで消える様子がない。

 水をかけて消えるならともかく。足で擦れば字を消せるのならともかく。数秒身を晒すのも危ない死地に焼き付けられている状況を、どうしたらいい。


「文字を消せれば良いんだな? ダレンさん、間違いないか!」


 リーティアの声が響く。

 全員に簡単な火除けの術を掛けていたダレンが、一瞬だけ振り返り、


「文字を消せばルーンの効果も消えるはずです! 文字と認識できる時は常に効果が発揮できるという強みは、無理矢理にでも文字を消されたら消えてしまうという弱点の裏返しでもあるので!」

「であれば──"アレクシア"操作魔術励起、『ひっくり返せシズモス』!」


 絨毯をひっくり返した魔術だ。

 だが今度は絨毯を返すためではない。床に焼け付いた文字ごと、メキメキと音をたて、床材がせり上がり巻き込こんでいく。文字が重なったせいで瞬間的に火力が増したものの、噴き上がる炎ごと風呂蓋を巻き剥がすようにして部屋の前から離れていった。


 部屋の前から離れたことで直接的な関係性……繋がっているという要素が薄れたからだろう。背後で女妖炎イフリータが放つ熱波、あるいは圧が減衰したのを感じる。


 だけどさぁ!


「おい、メチャクチャに地面見えてるけど大丈夫かコレ!」

「大丈夫なわけないだろう!」

「わけないのかよ!」


 床を剥がし取って捨てたということは、少なくともこの第四車両の廊下には床が無くなっているというわけであり。そうなれば当然、指先を出せば即座に削られそうな速さで流れていく地面がそこに見えているわけで──。

 列車の構造としても、もしかしたらこの廊下を通って逃げることになるかもしれない人間吸血鬼としても、タイムリミットが狭まった上に退路が塞がったようにしか見えない!

 リーティアが唇を噛む。一瞬考え、他は無いと言うように僅かに首を振り、


「済まない、倒れるほどまではいかないと思うが、女妖炎イフリータに残す余力は無いかもしれん……任せて良いだろうか」

「おう、なんだかわからんが任せろ」

「恩に着る。『遍く鋼は我が意のままへファイ・ラテリア』──!」


 リーティアが懐からいくつかの石のようなものを投げる。天井の照明を鈍く反射している様子からして金属、あるいはその鉱石らしいそれに、体から吹き上がる様子が見えるほどの量の魔力を叩き込んだ。

 さっきまでの絨毯があった時のような、意匠から歩き心地まで考えられていそうではない、無骨で歩けることしか考えられていないような床が作り出される。

 リーティアの専門の錬金術だ。


 そして、この魔術はかなり無茶をしているのだろう。本来必要だろう手順を踏まず、無理矢理鉱石を利用して好きな形に変えるというのは魔術の道理から外れるギリギリの行為だ。

 無茶を押し通すために莫大な魔力を叩き込み、魔力枯渇状態になったリーティアは、その場にズルズルと崩れ落ちる。意識は失っていないようだが、立ち上がることすら厳しいようだ。


 そして、再度女妖炎イフリータの方を見ると。


「おい、手が空いたなら手伝ってくれ! 手数が足りてねぇ!」


 十字剣を振り回し魔力そのものを斬るターレス、逆転術式リベリア以外にもいくつかの魔術を展開しながら迎撃をするダレン、水属性の魔術と一家由来の防護魔術を駆使して防衛をするアレットの姿があった。

 ルーンが消え、魔術合成による火力強化が消えてなお暴虐を尽くす女妖炎イフリータを前に、なんとか持ち堪えているらしい。

 最前線でどうにもならない焔を体で受け止めているギュスターヴがいてなお綱渡りの現状に、なんとかして手を貸したいのは山々なのだが。


「すまん、俺とシャーロットは特になんもできん」

「はァ⁉︎ この列車に乗れるぐらいれぇの魔術師ならなんかできんだろうがよ⁉︎ なんでも良いから手伝えって!」

「だから、なんもできねえんだってば。だせて知恵か、あとは最後の切り札だけ」


 方や、数千年単位で魔術師界の中ですら裏の裏にいた、存在の力の強さだけで生き残ってきた元引きこもり吸血鬼。

 方や、つい3ヶ月前まで磔刑座学のみで実践経験無しの、形と血統だけ貴族なもやしっ子お嬢様だ。

 普通の魔術戦などできるわけがない。逃げるのが最善、次善で知恵を絞るか最後の切り札を切るという段階だ。


「だぁぁぁもうなんでも良い! コイツを倒す方法のに協力しろ!」

「なんでも良いって言ったな?」


 言質がとれて良かった。それなら最後の切り札の案で。

 リーティアに任されていたから最初からやる気ではあったが、他のメンツからの言質がないとやり辛い方法だったからな。


「さて、どうする?」

女妖炎イフリータには壺に封じられた逸話がある。であれば、討伐ではなく封印の方が手っ取り早いはずだ」

「封印……できるやつ居るか?」


 薄笑いを浮かべながらシャーロットが俺を見る。

 その視線、表情に悪寒を覚えた俺は、思わず質問を投げつけていた。聞かなければ良いのに。


「……おい、なにを企んでいる?」

「吸血鬼には色々な逸話があるが、その根幹にあるのは人類のという恐怖だ。そして、喰らうというのは相手を取り込み己の内へと入れるということだ」

「つまり?」

女妖炎イフリータをアーサーが喰らえばいい」


 今なお激しく魔力を飛ばし合う戦線を見る。

 近づくだけで全身火傷必至、触れたところから燃え尽きそうな、怒り狂った妖精を、俺が、喰らう?

 馬鹿を言え。


「殴り飛ばす場合は喰らう場合の数倍時間がかかるはず。被害は甚大、しかもあの精霊は魔力が減ればこの列車の魔力を喰らいにかかるだろう。そうなればいよいよこの件との関与は隠せないだろう」

「やればいいんだろやれば! わかったよ!」


 今生き残れても逃げきれなくなったら意味がない。

 諦めてシャーロットを庇うように前に出る。

 後ろで僅かに動き、シャーロットの左目を隠していた眼帯が取れたのが分かった。


 隠されていたその眼。

 右の紅眼とは違う、深金色、あるいは琥珀色とでもいうべきその眼が、久しぶりに世界を観た。


「大きさはどうする?」

「この部屋を覆うくらいでいいだろ」

「そうか」


 シャーロットの同意と共に魔力が迸る。暖かく、圧倒的で、どこか寒気のするような金色の魔力だ。

 広がる過程で床に触れ、壁に触れ、その途端に世界を塗り替えていく。



「『金花繚乱ストレリチア──』」

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