13 千晶の弟

 カネと、吸骨種三名が揃って対面した時から、時間は少し遡る。


 場所は異世界への入り口と化したサーカステントの中。

 カネとセピアが逃げ出したテントの内側で起きた、その後の話。





 麟童りんどうせんは三兄妹の真ん中だった。


 兄は現在二十四歳、宣は二十三歳、妹は二十二歳。誕生日が同じなので綺麗に一歳ずつズレる。


 年の近さと仲の良さから、初対面の人は大抵「三つ子?」と訊いてくる。

 宣は表向きは「説明が面倒だな」というポーズを取りながら、そう誤解されるほど自分たちが兄妹らしく在れることが若干誇らしくならないこともない。


 宣はいつ何時も兄と妹を大切に思って生きてきた。


 兄。

 定職に就かずふらふらバイトを掛け持ちして、工事現場、レストラン、歯医者に至るまであらゆる職を経験したプロのフリーター。


 知人の間では「この街のどこに行っても見かける千晶ちあきさん」がキャッチフレーズの風来坊。


 兄はいつの頃からかサーカス団の副団長という立ち位置にいた。

 とんでもないことを飄々とやってのけて、全力で己の人生を楽しむのが兄の常だ。


 妹。

 昔から面倒見が良く年下には慕われ、年上には「いちごちゃん、苺ちゃん」と可愛がられる体質。


 手先が器用で、衣装作りが大得意。

 サーカス団では猛獣使い兼衣装係として重宝されている。


 幼馴染の誠実な男性と結婚もして、誰もが羨む順風満帆で理想的な人生。

 だが本人のキャラクターなのかそれを疎む人は滅多にいない。


 明るく元気で愛らしい、そんなアイドル的立ち位置を嫌味なく維持する努力家でもある妹だ。


 彼らの間に挟まれながら割と自由にダイバーのインストラクターをやっている宣。


 自分たちは外見的には全く似ていない兄妹だ。

 名字がそれぞれ違うし、血の繋がりもない。


 共通しているのは育ての親が、とあるサーカス団の座長――ではなく団長を務める女性ということだ。


 ある日突然拠り所を失った、身寄りのない幼い宣たち。


 そんな三人は兄妹となり、母親のようにそして父親のように導いてくれる男勝りな団長の元で、互いに助け合いながら成長した。


 兄は副団長となり、本格的にサーカス団に籍を置くが、宣と妹は趣味が高じてそれぞれジャグリングのピエロと猛獣使いをやっている。


 私生活も仕事も趣味のサーカス公演もそこそこ上手く行き始めた頃。


 副団長の兄が「セピア」と名乗る陰気そうな男をサーカス団に連れて来た。


 彼はサーカス団にヤモリの如き素早さで滑り込みんだ。

 誰も信用しないぞと斜に構えた態度のくせに、団員たちの輪の中に我が物顔で住み着いた変人。


 始めは兄の入れ込みように驚いたが、後に兄のキャラクターを振り返れば十分に頷ける出来事だった。


 それほどセピアが秀でた才能を持つことを、今ではサーカス団員の端くれとして、宣も受け入れていた。


 彼の脚本を土台としてサーカスの舞台を作り上げる時、痒い所に手が届くというか、まさにそんな心地の連続で唖然とさせられた。


 ずっとこうして生きていける気がしていた。


 宣が信念を共有できる大切な兄妹や、才能溢れる愉快な友人や、必要な時に決まって安心をくれる親代わりの団長や、尽きぬ向上心や、好きなことに囲まれて、何処までも幸せに生きていくんだと。


 漠然とそう信じて、宣はこれまでを生きてきた。





 ――セピアがサーカスに入団してから一年の時を経て現在、自分たちはサーカス公演後の客席にぐったりと沈むように座っていた。


 ひたすら困惑を胸に溜め込むしかなかった。


 混乱。まるで現実感のない現象ばかり降り掛かり、在り得ないことが立て続けに起こる。


 演者である宣が、出演予定の本日の舞台をなぜか観客席で観戦していた。


 宣の右隣には兄がいる。左隣には妹がいる。妹の更に左隣には妹の夫もいる。


 三人も宣と同じく客席に座らされていた。


 全身の力が抜けて手足が動かない。


 正気を失って夢見心地になっている間に、風船人間になってしまった。


 長い悪夢を見ていたようで、目が覚めてもまだ金縛りに遭っているような、最悪の心地だ。


 サーカスは公演を終了し、既にテント内は暗闇の中。


 宣に恐怖と混乱が迫りくる。

 薄暗い閉鎖的なテントの中、兄も妹も恐怖で強張った顔をしていた。


 まだ体はぐったりして動かなかった。風船人間のままだ。


 周囲の観客の拍手と悲鳴が耳に届く。


 狂喜に沸く歓声や拍手。それと相反する、恐怖に追い詰められた悲鳴と怒号。


 それらがひとつのテントの内側で渦を巻き、意味を持たない轟音に成り果て、塞ぐことのできない宣の耳に無理矢理注ぎ込まれた。


 客席全体のパニックが極限まで達しようという時、

 ――上から何かが降ってきた。


 テントの屋根から落ちてきたその人物は、前方の客の頭をパン、パン、パンとまとめて三つ、勝ち割った。


 上から客席へ不時着したその人物――カプチーノ色のポニーテールの少女が白い美しい槍で人間の頭を破裂させたのだ。


 風船みたいな破裂音の一瞬後に、血しぶきが上がる。


 一瞬前まで彼らは人間だった。


 悪夢。あまりに残虐なスイカ割り。


 頭を割られた人たちは悲鳴を上げる間もなく絶命した。


 あまりの異常事態に思考が動かない。

 それはきっと宣に限らずこの場の全員がそうだった。


 人間の頭を呆気なく破裂させた少女。彼女から見た自分たちは玩弄品だった。


 お気に入りの玩具のように手の中で幾度も転がし弄ぶが、ついうっかり取り落として割れてしまえば「あーあ残念……」の一言で済まされてしまうような、そんな些末な存在と見なされている感覚。


 カプチーノ色の少女には、そのくらい「まとも」からは掛け離れた威圧感があった。


「宣っ、宣っ! 逃げろ!」


 兄の血を吐くような悲鳴が宣の耳に届くも、無情にも席から立ち上がることは叶わない。


 恐怖で足が竦んでいるとかではなく、そもそも足腰に力が入らないのだ。


 兄も、妹も、その光景を認識した瞬間に宣を庇おうとしてくれた。


 宣はそれを拒否し、咄嗟に空気のぱんぱんに入った風船のように膨らんだ腕で、両隣の人間の肩を強引に突っ張って遠ざけた。


 右隣の兄と左隣の妹が宣とは反対側へ倒れ込む。


 もっと強く突き飛ばすべきなのに、風船の手に返ってくる軽い感触がもどかしい。


 兄妹を危険から遠ざけたい、その一心での咄嗟の判断。


 ――乳白色の三叉槍が、宣の頭上に降ってきた。


 それが頭を貫通し、喉仏を粉砕し、胸から腹を風船のように割った。


 すぐに赤色が散った。


 刹那の時間がやけにゆっくりと流れた。


 赤。赤。赤。

 赤ばかり飛散する光景に、海の青が恋しくなる。


 宣はダイバーなのだ。

 サーカスに費やす時間以外はずっと、海に潜って海を愛して生きてきた。


 何も考えず潮風を浴びたい。磯の匂いが恋しい。あの青い海に帰りたくて堪らない。


 最期くらい、せめて海に、と脳内のどこかが呟く。




 妹が宣を抱き留めようと宣の肩に手を伸ばしたが、妹の腕だって今は風船だ。


 腕力を要する掴むような動作はできず、滑り落ちていく。

 宣に肩を押された勢いが残っていて、反対側に倒れるように伏せていく。


「だめ、宣っ……」


 妹の必死な吐息が肩にかかった。


 何かと周囲の庇護欲をそそることの上手い妹が、実はダメダメな兄二人をいつも引っ張るしっかり者だと知っている。


 自分たちより圧倒的に空気の読める賢い妹だ。

 我慢に我慢を重ねてこっそり物陰で泣く姿を幾度も見た。

 兄の千晶と一緒に苦労ばかり掛けてきたと思う。


 だから自分のやりたいことをやって幸せになる姿をもっと見たかった。


 自分の眼球が弾け飛ぶ瞬間にタイミング良く右隣が見えた。


 恐怖の籠った泣きそうな兄の顔が、宣の視界に入った。

 見たことのない兄の表情にちょっとびっくりした。


 自由で明るくて人気者の兄。


 そんな兄は宣のやること成すこと全てを肯定してくれた。

 なんと無責任な、と幼い頃は思ったものだが、素直に弟に尊敬を向けてくれる兄こそ偉大だと大人になって気付いた。


 血の繋がりもなく、生まれた場所も違い、形成してきた価値観も違う自分たち。


 全く合わないはずなのに、仲の良い三兄妹を今日まで続けて来られた。

 それはやはり兄のおかげだ。


 今、兄は真っ赤な血を半身に浴びている。


 これは宣の血だ。

 暗闇の中でも鮮やかな赤と濃密な血臭が兄を汚す。


 瞬きすら忘れた兄の目にも血の赤が降りかかる。


 痛いだろう。そんなものが目に入ってしまったら。


 宣は兄に振りかけてしまった血を拭おうと思い立って、手を伸ばせと体に命じて――


 ――伸ばせる手は既に割れた風船のように弾けてしまった、と思い出した。


 困ったな、と思った頃にはもう息絶えていた。





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