魔法使い探偵アデュレイ ―ジェーン・ドウの証言―

藤原 百家

1 エリオースの王

 漸く夜が明ける。暗色の空が、白々とほのかな明かりに満たされていく。


 しかし、それでも朝の表情は寒々しく硬質だ。薄い水色のガラスのようだ。故郷の強烈な朝の光を懐かしく思う。


 目を細めて天を仰いでいると、顔に水滴が当たったような気がした。天気雨でも降ったかと片手を頬に当てたが、雨を降らせる雲は見当たらない。気のせいだったかと、瞬いたとき、不意に顔を掴んで引き戻されたかのように、路上に視線が引き戻された。直感した。雨粒ではない。仕掛けられた。


 あいつか!


 一瞬で、街並みは灰色の背景と化した。世界は静まり返る。ただ一点、その男の佇むところだけが鮮やかに彩られる。


 黒髪の若い男、二十歳そこそこに見える。灰青色の上着の下に、同色の胴衣を着けて、ブリーチズの裾は膝下で光沢のある革のブーツにたくし込まれている。ステッキを持つ右手の中指にあるのは、家紋を刻んだ指輪か。家紋を重んずるとあれば、恐らく身分の高い男なのだろう。


 俺と目が合って、一瞬、驚いた表情になったが、視線を逸らすことなく見つめ返してきた。深い藍色の瞳は、知性的だ。間違いない。仕掛けてきたのは、この男だ。


 俺は両手を開いてだらりと腕を下ろし、前後左右、どこにでも動けるよう腰の重心を落とした。口の中が乾く。まだ、動けない。相手の出方を待たなくてはならない。


「おい、そこで何をしている。」


 突然、通りの反対側から声がかかり、途端に周囲の色と音が戻ってきた。大股で近づいてくる二人の兵士に、木箱を抱えて運んでいた行商人が急いで道を空ける。兜ではなく制帽を被っているが、帯剣している。治安を守る城兵といったところか。


「妙な格好をしている。外国人だな。」


 言われて、思わず自分の服を見下ろした。それは確かに、周囲から浮いて見えるだろう。しなやかな白い絹布の衣はワンピース型で、そのような服を着ている男は街路のどこにも見当たらない。


 足にはコルクの厚底を付けた編み上げ靴を履いているが、うすら寒い風の吹き抜けるこの季節に、通気性のよすぎるこの靴はいかにも不似合いだ。右肩を出すようにして、二つ折りにした厚織りの肩掛けを羽織っているので風除けにはなっている。その肩掛けは金箔を織り込んで金糸で縫い取った上等な金襴だが、生地が上等かどうかなど、今ここで問題ではない。異様なのだ。目立ちすぎる。


「在留証を見せなさい!」


 頭の先から爪先まで見回した挙句、ついに城兵は右手を差し出してわけのわからないことを要求してきた。


 在留証? 何だろう、招聘状か推薦状のことだろうか? いずれにしても持ってはいないが。


「それは無理な話です。失われた古代王国エリオースの王ですから、在留証など持ちませんよ。」


 からかうような口調で、あの若い男が割って入った。用もなく足を止めて見物客と化した行商人にちらりと上品な笑みを向け、それから軽く握った拳を顎に当ててつくづくと俺の衣装に見入った。


「国際倶楽部のサロンに役者を呼んで、古代劇を上演する予定なのですよ。どうです、私の従者に仮装させたのですが、なかなか堂に入ったものでしょう? 主演俳優は別に呼びますがね。いい宣伝になるでしょう。」


 恐らく、顎に拳を当てたのはわざとだ。指の甲が外を向き、印章指輪の家紋が際立つ。俺の前に立つ城兵に、もう一人が素早く耳打ちした。それから、二人して背筋を伸ばし、明らかに自分たちより年下と思しきこの男に敬礼した。


「エルフェス王国からいらっしゃった貴き御方とお見受けします。」


「私をご存じでしたか。何か悪いことで覚えられたのでなければいいのですが。」


 彼は優雅に微笑み、軽く右手を振って彼らに緊張を解くよう促した。貴族というものは、身に着けている物はもとより姿勢、立ち居振る舞い、使う言葉、発声と抑揚、それどころか纏っている雰囲気そのものが庶民とは異なる。彼には印章指輪を見せつける必要などなかった。対面した瞬間、彼らは身分の違いを察知したはずだ。


「おっしゃるとおり、エルフェスのアデュレイ・ロラン・リシャール・ベルティエです。あなたは、ああ、つまり私の従者に声をかけたのは?」


「マイケルです、マイケル・ヤング。」


 問われていることを察して、城兵は自ら名乗った。貴人が先に名乗っているのだから、名乗らないわけにはいかない。


「ミスター・ヤング。あなたにお詫びしなければなりません。私としたことが、どうやら彼の在留証を部屋に置いてきてしまったようだ。何しろ、この扮装を一番にレディ・シファールにお見せしなければと意気込んでしまってね。勇んで国際倶楽部に乗り込んだのはいいが、遅めのティーにも、夜食にも、レディーはお見えにならなかったのですよ。」


 アデュレイは無邪気な様子で肩をすくめた。名を呼ばれたマイケルは、やや頬を赤らめ、何度も深く頷きながら話を聞いている。が、何を言われているのか真に理解しているとは思いがたい。


「忘れ物をするほど急いだというのに、がっかりですよ。せっかくだから朝の軽食をいただいて帰ろうと思っていたのに、突然、暫く休館しますと言われて放り出されてね。その上、同じく放り出された紳士諸兄との辻馬車争奪戦にも敗れる始末で、全く散々です。ねえ、ミスター・ヤング。」


 アデュレイがマイケルに合わせて軽く頷きながら微笑みかけると、マイケルも僅かに緊張の混じった笑顔で応じた。


「私ごときに敬称など。どうぞ、マイケルとお呼びください。」


「マイケル。あなたは何かご存じですか。国際倶楽部が突然の休館とは珍しいことです。何やら裏では慌ただしく走り回っていたようですが?」


 首を傾げたアデュレイに、マイケルは熱心に答えた。


「無理もありません、今日は、夜が明ける前から一騒動なんです。火事の報せが来るわ、大聖堂の前に死体が転がっているわで、」


 慌てて、もう一人がマイケルの脇腹を肘で突いた。ウッと小さく呻いて、マイケルは口を噤む。


「火事ですか。それに、死体! 物騒な話ですね。しかし、なぜそれで国際倶楽部が休館になるのです? 私たちには、関係ないではありませんか。」


「いえ、火事があったというのが、国際倶楽部のオーナーのスノーデン伯爵……、」


「ご迷惑をおかけしておりますが、サロンは近日中にまたご使用いただけるのではないかと存じます!」


 一生懸命答えようとしているマイケルの頭を押さえ込むようにして、それ以上に一生懸命、もう一人が会話を遮った。


「それは何より。」


 アデュレイと名乗った若い男は、軽く目を見開いた。


「ところで、火事の話を詳しくお聞かせ願えませんか。もしかすると、何かお手伝いできることがあるかも知れません。」


「いいえ、いいえ!」


 マイケルを引きずるようにして後ずさりながら、もう一人の城兵は首を振った。


「私どもには、貴き御方をお調べする権限がございませんので! 畏れ多きことです! それでは、これにて失礼いたします! 光のお恵みがありますように!」


 ほとんど懇願の叫びのようだった。アデュレイはやや残念そうに口をすぼめて彼らが消えるのを見送り、それから俺の方に向き直った。ゆっくり近づいてきて、肩と肩が触れあいそうな位置に立ち、小さく囁く。


「私のせいで目をつけられてしまったようなものでしたから。余計なお節介だったかも知れませんが、お助けしました。」


 そして彼は姿勢を正して、目を細めた。右手にステッキの中程を握り、一、二回、左の掌を軽く打つ。


「とにかく、その格好では目立ちますよ。私のタウンハウスに行きましょう。」


 それから、もったいぶって付け加えた。


「もし、よろしければ。」


 俺の選択肢がいくつもないことを見透かしたかのような口ぶりだった。実際、俺は、この誘いを拒まなかった。

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