第10話 タートルネックの女(6)

 紗栄子はミケを見ながらしばらく考えていたが、やがて口を開いた。

「ごめんなさい。やはり姫川さんご本人にご意向を伺わないと、なんとも言えません」

「それはもちろんです」

「それに、失礼ですが、今のお話だと猫を飼えないのは女子寮の問題ですし、男性の忘木さんが連れて来ているのは不自然です。姫川さんにご連絡いただいても?」

 確かに今の状況を客観的に見ると、忘木が姫川に無断でミケを売り飛ばそうとしてここに来たようにもとれる。

 訝し気に忘木を見る紗栄子の視線に、忘木は慌てたように見えた。

「は?…ええ、構いませんとも。いま電話しますね」


 忘木はスマホから駐在所に電話し、姫川に取り次いでもらったのを確認して、紗栄子にスマホを渡した。

 紗栄子は先ほどの忘木の話を姫川に伝えると、忘木のほうを見た。

「…代わってくださいとおっしゃられてます」

 忘木は心底イヤそうな顔をして、スマホを受け取った。

『%#$”’$)%#’!!!)‘*$’%&?!』

 べらんめえ口調すぎて何も聞き取れない姫川の怒号が、スマホ越しからも漏れてくる。とめどなく垂れ流される説教が紗栄子に聞こえないよう、忘木は頭を下げながら部屋の隅に移動した。


 いい年をして電話越しに説教される忘木の背中を見ていると、紗栄子がキャリーケースの正面に来てミケの視界をふさいだ。

「危うく売り飛ばされるところだったわね。ちょっとお顔を見せてくれる?」

 キャリーケースの扉を開け、慣れた手つきでミケを抱きかかえる。ミケはあえて抵抗しなかった。

 紗栄子はミケにバンザイのポーズをさせ、ミケの性別をまじまじと確認した。


 ミケは、紗栄子の後方でこちらを見る忘木と視線をあわせた。

 仕掛ける合図だ。

「だからッ!嫁入り前の女が職場で連呼するなッ!!」

 忘木が電話越しに怒鳴りつける大声に驚き、紗栄子は思わずミケを抱く手を緩めた。その隙をついてミケはくるりと逆上がりのように一回転し、紗栄子の手を逃れた。

「きゃっ」

 猫が普通しない動きなので、扱いに慣れていたつもりの紗栄子は驚いただろう。ミケはそのまま一目散に部屋を出て、階段を駆け上った。

「忘木さん、ごめんなさい!逃がしちゃった!!」

「ありゃあ、こりゃいかん!」

 忘木がわざとらしく慌てた声を上げる。

 ミケが家の中を歩き回る時間を稼ぐつもりなのだろう。


 とはいえ、二階に上がってみると、二部屋とも引き戸は閉じていた。これでは、部屋の中の探索はできそうにない。いきなり二階に上がったのは失敗だったかもしれない。

 階下を見ると、紗栄子が低姿勢で手を伸ばし、文字通り猫なで声でミケに呼びかけている。

「ごめんなさい、驚いちゃったのねー。少しの間、そこでおとなしくしててねー」

 これ以上このハプニングを膨らますのは無理だろう。こうなれば、今度はこっちが囮になるべきだ…忘木が一階の他の部屋をチェックする時間だけでも稼ぎたい。ミケは全身の毛を逆立てて威嚇の唸り声を上げた。


 その時、ふと、後方からかすかな猫の声が聞こえた。

『…けて、誰か…』


 聞いたことのない、甲高い声だ。

 階段をゆっくり昇ってくる紗栄子に気取られないように、紗栄子を威嚇しながら、どちらの部屋から聞こえるのか確認しようと試みた。だが猫の耳は前を向いているので、後方の音は聞き取りにくい。

『…気が、狂いそう…暗くて…狭い…血の…匂い…』

 奥の部屋から聞こえるようだ。ふと気づくと、紗栄子が目の前まで来ていた。

 捕らえようとする紗栄子の両手を咄嗟に躱し、勢いで階段を駆け下りる。下まで降りてから振り返り、ミケはぎょっとした。

 先ほどまでとは全く違う、般若のような形相でこちらを睨む紗栄子が、ほんの一瞬だけ見えた。その視線に思わず身震いする。

 と、うしろから不意に体を抱きかかえられた。いつの間にか忘木が背後に来ていた。

「よーし、いい子だ」

 今の紗栄子の表情を、忘木は見ていなかったのだろうか。ニヤニヤとしながら見下ろす忘木の顔に、ミケは本気で爪でも立ててやろうかと思った。


 ◇◇◇


「で、何か手がかりはあったの?」

 駐在所に戻ってきた忘木に、ジャージ姿の姫川が強めの態度で質問した。

「いや、少なくとも一階にはなかったわ」

 忘木はあっけらかんと報告した。姫川が捜査の指揮権を持ってるわけでもないが、あれだけの恥をかかせた後のこの態度には、ミケも驚くほかなかった。

「ミヤケが思ったよりいい働きをしてくれたんで、一階はさっと確認できたんだがな。どこにも猫のいた痕跡はなかった。猫配信してる配信者にしては不自然すぎるだろ」

 忘木はやれやれと手を広げた。

「つまり、すべては二階に隠されている、ということね」

 姫川はそれだけ聞いて、考え込む。

 すると、今度は交代勤務中の新人たちがミケの相手をしようと群がってきた。

 チャコはすでに見当たらなかった。いじられすぎて逃げたのだろう。

「ダメよ。ミケはこれから私とお話があるの」

 姫川に後ろから抱き上げられたミケが、憮然とした顔をする。

「えー、ミケちゃんも連れていっちゃうんですか」

 新人ががっかりした声を上げる。

「今日の捜査報告を上げてもらわなきゃね」

 さっさと二階に上がる姫川の姿を、新人たちはきょとんとした顔で見送った。

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