第9話 タートルネックの女(5)
昼過ぎに、約束通り忘木が駐在所にやってきた。
勤務室にいた新人が姫川を呼びに行くと、ミケをカゴに入れた姫川が降りてきた。
「びっくりするくらい予想通りの姿だな。ジャージやめろよジャージを」
忘木は呆れたように言ったが、姫川は動じなかった。
「今日はもう非番なんですよ、っと。ミケだけでいいでしょ?」
「ああ、かまわん。話のきっかけに使うだけだしな」
ミケも、おとなしく忘木に引き渡された。
「ったく本当なら、俺が駐在所勤務を希望しようと思ってたんだ。それを横からかっさらいやがって。おかげでまた刑事課を引退し損ねた」
「はいはい、ここの勤務だって見た目ほど楽じゃないんですからね。近隣住民と女子会したり。そうだ、今度合コンしてみる?」
「お、気が利いてるな。約束だぞ!」
忘木は機嫌よく覆面パトカーを発進させた。姫川が紹介できる近隣住民なんてフジ子くらいしか思い浮かばなかったが、ミケはそっと心にしまった。
国道16号を横断する長い信号待ちで、運転席の忘木がミケに唐突に話しかけてきた。
「…お前、将暉だろ」
ミケはびっくりして目を丸くし、忘木のほうを見た。
忘木はしばらくミケと黙って向かい合っていたが、やがて噴き出した。
「なんつってな。やっぱ面白えな、この猫」
冗談めかして言っているが、ミケには忘木が本当に何もわかっていないようには思えなかった。
「さて、今日の作戦だ。紗栄子には、姫川が実はペットが飼えない女子寮で強引に飼おうとしている、という話で持っていく。家の中まで上げてもらうから、隙を見て逃げて家の中に隠れろ」
どこまで本気で語りかけているのだろう。ミケが人間の言葉を理解できることを、忘木はまだ知らないはずだ。
試しに、姫川には通じる言葉で返事してみることにした。
「ネコに人間の言葉が分かるわけないだろう。ボケちまったのか、忘木さん?」
普通の人間には、「ミャー」としか聞こえていないはずだ。
何のリアクションもない。どうやら理解している様子ではなかった。
「ははは、これが終わったらカリカリでも奢ってやるからよ」と一人で笑っている。
「まあ、協力してくれよ。おまえら猫のためでもあるんだしよ」
忘木は堤防下の河川管理道路に車を停車させた。いつの間にか、紗栄子の家のそばに着いていた。
「今日のところはそこまで期待しているわけでもねえ。爺さんの世間話につきあってくれや」
助手席からカゴを下そうとドアを開けた忘木に、ミケは「ニャー」と返事をした。
それを聞いて、忘木は少し笑った。
「いくぞ、ミヤケ」
スマホで紗栄子の住居を確認し、玄関のブザーを鳴らすと、紗栄子が少し慌ただしく出てきた。
「はいはい、どなた?」
忘木は、慣れた手つきで警察手帳を差し出した。
「野田警察署の忘木と言います。先日、うちの姫川という女性警察官と外で話をしたと思うんですが、覚えておいでですか」
「えっ、あ、はい…あの、婦警さんですよね」
「別に事件とかいうわけでもないんですが、あの姫川について、ご相談したいことがありまして」
姫川についての相談から入ることで、紗栄子の警戒心を高めずに話を始めることが出来ている。こういった機微を、かつての将暉はいつも参考にさせてもらっていた。
「でも私、あの婦警さんとはちょっとお話しただけで…」
「いやその、相談というのは、猫のことなんです。この猫のことなんですがね」
忘木はカゴを持ち上げて、中のミケを姫川に見せた。
「まあ、あの時の」
紗栄子は努めて平静を装ったが、目の色が変わるのをミケは見逃さなかった。忘木も同じはずだ。
「あの、ちょっとだけお待ちいただけますか?いま人が来ておりまして」
紗栄子が奥を振り返りながら言った。
「それは申し訳ない。出直しましょうか?」
いえ、大丈夫です、と頭を下げながら、紗栄子は奥の部屋に引っ込んでいった。
やがて、居間のほうから紗栄子と男が出てきた。
上品な雰囲気の紗栄子とは不釣り合いに、男の服装はあまり品の良いものとは言えなかった。カジュアルスーツにジャラジャラと音のする装飾品。ヤクザものの雰囲気が隠しきれていない。
「ごめんなさいね、辻さん」
「いや、今日はもともとあまり時間がなくてね」
男はいそいそと革靴を履き、出ていくときに一瞬だけ忘木、猫の順に目を合わせていった。
所轄でよく見かけるチンピラの一人、辻克俊。
この男のことは忘木も当然知っているだろうが、目をそらしたまま玄関を出る辻に、忘木はあえて声をかけなかった。
「お待たせしました。お上がりになって」
片付けを済ませた紗栄子に導かれ、忘木とミケは居間に入った。
◇◇◇
「しかし、ご自身は猫を飼ってはおらんのですか?愛猫家とお聞きしていたのですが」
ソファに導かれ、しばらく部屋を見渡した忘木が質問した。
「ええ、保護猫の貰い手が見つかるまで預かることはあるのですが、実は私自身では飼っていないんです。そうしていた時期もあったんですが、他の猫が来た時に、縄張りを気にしてストレスになったりするんですよ」
紗栄子は少し困ったような表情で答えた。
「なるほど、それはそれで少し寂しいものですな」
「それで、ご相談というのは」
紗栄子に促され、忘木は膝を叩いた。
「そうそう、実はですな、うちの姫川が警察の女子寮で隠れて猫を飼おうとしてたことが分かりまして。捨て猫に情が移ってしまったようで、警官としては未熟といいますか…」
スラスラとでまかせが出てくる。
「それで、普通の捨て猫だったらよかったのですが、三毛猫のオスというのは何だか好事家に人気が高いそうじゃないですか。それを知った連中が、姫川は猫を転売して儲けようとしているんじゃないかと、まあ、噂になってるそうなんですな」
話の作りこみが細かい。というか、他の警官に紗栄子が確認したとしても、彼女ならやりかねない。と返ってくるかもしれない、とミケは思った。
「それでまあ、本人は猫を手放したがらないし、かといって横領させるわけにもいかない。ひょっとしたら、専門家の紗栄子さんなら、いい貰い手をご存じなんじゃないか、と…」
忘木は、紗栄子の目を正面から見据え、ニヤリと笑った。
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