第7話 タートルネックの女(3)
姫川は昨夜、野田警察管内で行われる選挙演説の警備に駆り出されていた。
県議会選挙の応援演説で与党の党首が野田市を訪れることに決まったのは、演説の三日前である。その瞬間から、本署は演説会場の警備計画を立てたり、人員の確保をしたりと、準備に追われていた。
以前であれば、国会議員が来ようと、ほぼ定型的な警備計画を使いまわしていればよかったのだが、数か月前に起きた元総理の襲撃事件以降、全国的に大幅な見直しを迫られることとなった。それによって準備のボリュームは大幅に増え、準備だけで力尽きる署員すら出る始末で、姫川はそのとばっちりを受けたのだ。
姫川は案の定国会議員の警護に充てられ、美人警官を期待していた議員には舌打ちされるわ、元同僚たちからは「痩せろ」の大合唱だわで、まったくもってろくなことがなかった。
そしてようやく署に戻ってきた姫川たちは、ペットボトルのお茶を会議室の机に突き立てて、そのまま机に突っ伏した。
「うえ~、キモかった。まったくあんなジジイの世迷言のために、駐在所を開けてまで警備をする必要なんかあんのかぁ~」
「声が無駄に大きいですよ、姫川先輩」
祝詞のごとく絶え間なく不満を垂れ流す姫川のお守りに充てられていた坊主頭の男は、本署勤務の石田だ。刑事になりたい気持ちをうまいこと姫川に利用され、さんざんこき使われていたが、最終的に三宅と姫川の欠員を埋める形で刑事となった。
「国会なんか、ネット選挙で毎日投票可能にしちまえばいいんだよぅ。そうすりゃ、何かやらかしたら翌日には無職だから、少しは下心も隠すってもんだよ。そう思わないか、石田ぁ」
さんせい、さんせい、と会議室の同僚たちからも声が上がった。
全員、不謹慎なほど疲れ切っている。石田は首を振った。
「みなさん、酔っぱらってるんですか?休憩したら、報告書を書いてくださいね。代筆とかしないですからね」
石田の容赦ない声を聞きながら、すでに先輩への敬意とかそんなものは微塵もなくなったな、と姫川は思った。
無理もない。今の姫川は刑事課ではない。さして年が離れているわけでもないのに、律儀に敬語を使ってくれてるだけまだマシなのだろう。
「うう…ミケとチャコの動画で癒されよう…」
姫川はスマホを取り出して、頭を机に乗せたまま再生しようとしたが、あっさり石田に取り上げられた。
「勤務中は私物の携帯禁止。新人じゃないんですから」
「うう…本署の風は冷たいよ、ミケ…」
もはや威厳が微塵も感じ取れない敏腕刑事の成れの果てに、石田は失望を隠さなかったが、ふと思い出したことを姫川に振った。
「そういえば、姫川先輩。最近ちょっとサイバーの連中に聞いたんですけど、知ってます?」
サイバーとは、県警のサイバー犯罪対策に関する部署のことだ。SNSでのトラブルや、誹謗中傷に関する相談が主だが、県警と所轄の両方で受け付けている。本署のメンバーは姫川も見覚えがある。
「サイバーかあ、縁がないなあ。うちに迷惑メールいっぱい来るもんだから、犯人見つけてぶん殴ってくれ、って酒の席で頼んだら、それから話しかけてこなくなったなぁ」
「そういうことをするから…。じゃなくてですね、最近、裏サイトで猫の虐待動画を売買してる連中がいるらしくて」
虐待という単語に、姫川が一瞬遅れて反応した。
「ぎゃくたい…虐待って、猫にか!?そんなことする奴がいるのか!!」
突然姫川に首元を掴まれ、石田はぐえ、と声を上げた。
◇◇◇
「…で、石田の話だと、どうも、とある動画配信者の猫動画が裏でやってるらしいんだ」
姫川はパトカーを運転しながら、助手席のミケに話し続けた。
「そいつはどうやってバレたんだ?」
「動画を依頼した客が、受け取った虐待動画を別のSNSに転載して捕まって、本署のほうでそいつを締めあげたんだとか」
この手の連中は、虐待すらも自らは手を汚そうとせず、見知らぬ人間に金で依頼する。
「やり口はこうだ。猫の動画をサイトにアップして、裏サイトからその配信者のアカウントを教える。動画にはごく普通に猫が映っているが、ユーザーは決められた符丁でその動画にコメントし、課金する」
あくまで表向きは、可愛い猫動画へのチャージだ。普通にかわいいからとか、可哀そうな子猫を救う活動への応援として課金している人間もいるだろう。
「しばらく待つと、符丁を知っているユーザーにだけ、映っている猫を虐待した動画が送られてくる。動画の内容を石田に聞いてみたが、見ないほうがいいと言われた」
姫川が眉を顰め、吐き捨てるように言った。
「でも、それだといずれ配信者がバレるだろう」
ミケが尋ねた。
「まあそうだね。実際、ほとんどバレたようなもんだよ。虐待動画をリクエストした奴が自白したチャンネルは、すでに閉鎖されていたんだけど、コメントを使った連絡方法は他のチャンネルで使いまわそうとするだろうとうちの連中は踏んだ。そこで、コメント欄が不自然な猫動画チャンネルを片っ端から探して回った。そして捜査線上に浮上したチャンネルの一つが…」
あの女のチャンネルだった、ってことか。
ミケの眼差しに、姫川は頷いた。
「それで、これからどうする。あそこには、現在進行形でアイが監禁されている。あまり悠長なことは言ってられないぞ」
信号を三つほど過ぎたところで、ミケが念を押した。
肩を怒らせ、ステアリングをがっちりと握りしめた姫川が答える。
「石田に動いてもらおうと思ってるけど、どう話を持っていこうか。まさか猫に聞いたから、というわけにもいかないしねえ…」
「だがまたチャンネルを変えられてしまったら、二度と捕まえられないかもしれないぞ。それに…」
「それに?」
「あの女の猫動画には、配信者自身が映っているものもあったはずだ。その前のチャンネルのことは知らないが、前の配信者があの女でないのなら、配信者の裏に別の誰かがいることになるよな」
「そうね」
「だとすれば、チャンネルを閉鎖したと同時に、あの女は最悪そいつに消されるぞ」
姫川は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
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