三毛猫のモラル

こやま智

第1話 駐在員は事件現場で猫と暮らす(1)

 芽吹駐在所の駐在員である姫川信代は、近所の主婦・フジ子の噂話を聞きながら、巡回に出る時間を気にしていた。


「それで、今度はダンナが怒っちゃってね。奥さんも悪いわよね。キネさんが言うにはね、ほとんどダンナには小遣いもあげてなかったって」

 着任して日の浅い姫川にとって、何でもあけすけに話してくれる近隣住民の存在は本当にありがたかった。だが、ついついお茶を出してしまったのがいけなかったのだろう。すっかり入り浸るようになってしまった。

 どうにか切り上げるきっかけがつかめないだろうかと思案しているところに、奥の部屋からニャア、という声がした。

「あら、大変。巡回に行かなくちゃ」

 わざとらしく大きな声を上げて立ち上がると、フジ子も

「あらやだ、私も早く帰らないと。お茶ご馳走様ね」

 と立ち上がった。

「日も短くなってきましたから、気を付けて帰ってくださいね」

「あら、アンタこそ気をつけなきゃだめよ。嫁入り前の娘さんなんだから」

「そんなのとっくに諦めましたよ、アハハ」

 自分でそんなこと言わないの、とたしなめられてもまだ笑っている。

「猫を飼うと婚期が遅れる、っていうでしょ。うちの長男紹介してあげようか?」

 また長くなりそうなので、冗談で切り上げる。

「こないだウインクしたら逃げていきましたよ?」

 フジ子は遠慮なく笑いながら、今度こそ駐在所に背を向けて離れていった。

 姫川はフジ子の背中を見送った後、巡回用の自転車を引き出した。


 ふと見上げると、すでに利根川の空は夕暮れに染まっていた。

 駐在所の扉に『巡回中』の札をかけて戸締りをすると、堤防の方からカラスの鳴き声が聞こえた。

「さて、行きますか」


 芽吹駐在所の巡回範囲はそれほど広くない。

 建物はすべて利根川沿いの堤防下で、車の解体工場や畜産場、そして農家だ。その周囲はほとんど水田で、ところどころに沼がある。

 警戒すべき内容は空き巣のほかに、用水路に自転車が落ちていないか、他の地区からさすらってきた徘徊老人かいないか、バイクの練習をしたがる無免許の中学生がいないかどうか、と言ったところであり、総じて平和といってよい。

 それでも、近年のデータを見ても、凶悪事件の発生率は決して低くない。また、一度でも突発的な事件が発生してしまえば、警戒せざるを得ないのも確かだ。

 巡回を終えた姫川は、そのまま巡回の範囲を外れてスーパーに向かった。日々の食材を買い込むためだ。

 前任の駐在は家族でこの駐在所に住んでいたが、姫川は独身なのでさほど大量に買い込む必要はない。それでも、勤務から離れられない状況になることはあるかもしれない。

 そんな言い訳を自分にしつつ、冷凍食品や甘いものを大量に仕入れる。本署の捜査一課にいたころのスリムだった体型は、いまは見る影もない。今の愛嬌のあるフォルムは地域の住民に親しみやすいかもしれないが、いざというときに動けるのか。自分でも不安を感じつつ、それでもレジに通してしまう。


 買い物を終えて駐在所に戻り、表の「巡回中」の札を外した。

 そして室内に入る前に、中の様子を確認する。これは必ずしもすべての駐在所で行われるものではないが、姫川は欠かさず確認を行う。

 なにしろ、この駐在所は「野田警察芽吹駐在所襲撃事件」という、歴史に残る最悪の事件の現場なのだ。

 ここに住み始めてから、奥の部屋の電灯はつけっぱなしにしている。当時住んでいた三宅雄一郎巡査長とその家内の遺体のあった部屋だからだ。図太さに定評のある姫川でさえ、まったく気にしないというわけにはいかなかった。


 今でも、あの日のことは忘れていない。

 血まみれの居室。

 群がる近隣住民。

 二階に隠れて事なきを得た長女の慟哭。

 そして両親を殺された上に、足を折られて目の前の犯人を取り逃がした、同僚の刑事の顔。


 その居室には今、テレビとコタツが鎮座していた。

 そして、二匹の三毛猫。絵に描いたような昭和の駐在所だ。

 一匹は座椅子の上で、姫川のドテラにくるまって寝ている。

 妹のチャコだ。

「ただいま、チャコ」

 返事はなかった。すっかり寝入っているようだ。

 もう一匹はコタツの上に座り、姫川のほうを振り向きもしないまま、ぎこちない動きでテレビのリモコンを弄っていた。兄のミケだ。

「ただいま、ミケ」

 こちらも返事がない。テレビに夢中になっている。リモコンを操作しながらテレビに齧り付く猫の姿は滑稽だったが、姫川はもうすっかり慣れた。

 二匹の横を通り過ぎて台所に向かい、買ってきた食材を冷蔵庫に入れる。自炊に熱心ではないので、生鮮品はさほどない。ビールも入れてあるが、ここに越してきてからは一本も手をつけていない。

 姫川は買い置きの冷凍うどんを電子レンジにかけて、足元の箱からみかんを3個手に取ると、一旦居室に引き返した。


 チャコを抱きかかえてドテラを取り返し、自分の玉座である座椅子にどっかりと座った姫川は、眼前で悪戦苦闘するミケにもう一度呼びかけた。

「ただいま、

 ミケはやっと姫川のほうを向き直った。

「おう。今日はもう上がりか、ヒメ」

 ミケはやっと振り返って姫川に


 姫川はその声を聞いて安心したのか、勤務モードを解いてコタツに突っ伏した。

「もーう聞いてよ、ミヤケー。またフジさんだよー。あの人毎日毎日、どんだけ話題あるんだよぅー。あの人絶対あたしよりこの町を巡回してるよぅー…」

 魂の抜けかかった顔で力なく毒を吐く姫川に、ミケはあまり興味なさそうに相槌を打った。

「俺が小さいころから、ずっとあんな感じだからな。父さんは、困ったら母さんにあしらいを任せてた」

「なんだよそれー、ずるいなぁ…」


「だから独身の女が駐在勤務とか、絶対大変だって言ったろ」

 ミケはため息をつきながら姫川をたしなめた。

「だってしょうがないじゃない。ペットの飼える物件が他に見当たらなくて焦ってたんだもん」

「そもそもペット不可の警察寮に住んでて猫を二匹も引き取るとか、後先考えないにもほどがあるだろ。住んでた俺が言うのもなんだが、刑事を辞めてまで事故物件に転がり込むなんて、何考えてたんだ」

「うるさいなー。だったら、あんただけまた利根川の河川敷に戻してあげようか?あんただけ」

 姫川は「あんただけ」を二度繰り返した。


 ミケとチャコは、そもそも前任の駐在だった三宅雄一郎巡査長が、猫を拾ったという男性から遺失物として預かった捨て猫だった。

 その日の夜に駐在所の襲撃事件が発生し、紆余曲折あって、本署勤務の姫川刑事が引き取ることになったのだが、姫川の女子寮ではペットを飼うことが出来なかった。それ以前に、刑事の過酷な勤務でペットが飼えるわけもなかった。

 一方、事件現場である芽吹駐在所は、当然ながら空き物件となっていた。生き残った長女も退院後、転居している。近隣の人口増で駐在所の存在意義も薄れており、後任を希望する署員もいなかったため、ほぼ取り壊しが確定していた。だが、姫川は何を考えたのか、刑事を辞めて二人が惨殺されたこの駐在所に住むと言い始めたのだ。周囲はもちろん引き留めたが、押しの強いことで定評のある姫川を押しとどめることはできず、お化け交番とすら呼ばれ始めていたこの芽吹駐在所にまんまと転がり込ませてしまったのである。


「そろそろリモコン貸しなさいよ、そろそろNHKに推しが出演するんだから」

 姫川はミケからテレビのリモコンを取り返し、チャンネルを変えた。

 短いニュースが終わり、アイドルが画面に大写しになると、姫川は俄然前のめりになってテレビに夢中になった。

「日本一、ドテラの似合う婦警だな」

 ミケが嫌味を言うが、耳に入っていないようだ。

「そういえば静香も、このアイドルが好きだったな。紅白を一緒に見てた時に、キャーキャー言ってたよ」

 反応はなかった。

 これも聞いてないか…とミケが諦めかけたタイミングで、姫川が画面に目を向けたままミケに言った。

「あんた、静香ちゃんのこと、ちゃんとしてやりなさいよ」

 ミケは黙って、顔を背けた。

「やっと大学に復学できそうって言われてるけど、まだまだ不安定なんだからね。、元の姿で妹に会ってあげなさい」


「…わかってるよ」

 ミケは吐き捨てるように言った。

 元に戻る方法がわかっていたら、とっくに戻っている。

「犯人探しはともかく、今あんたがやるべきことは、入れ替わった自分の体を探すこと。聞き込みでも何でもやりなさい。せっかく猫と喋れるんだから」

「言われなくてもわかってるさ。でもなあ、猫って服着ないから、やっぱ寒くて…」

「この根性なし!」

 ミケは逃げるようにコタツから降りて、布団に潜り込んだ。

 すると、今度はチャコが起きてきて、ミケに擦り寄った。

 チャコはミケと姫川の会話が全く理解できないので、たまにやきもちを焼く。

 ミケはチャコに毛づくろいをしてやり、やがてコタツの温かみで眠りについた。

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