第一章 第1話 ただの勇者好きな社畜

 

  

 あの日は、いつもと何一つ変わらない普通の日だった。


 濃い目に淹れたインスタントコーヒーを飲みながら、テレビから流れて来るニュースを適当に耳に入れ、占いコーナーの結果に毒を吐き、連絡してくる事なんてほとんど無かった妹の世羅せらから電話で、ただでさえやる気の出ない月曜日の朝に止めを刺される。世羅からの電話以外は、ほんとに普通の日だった。



「はぁ~。なんか良い事ねぇかな……」



 俺はブツブツ文句を言いながら、いつもの億劫な外回りから会社へと向かっていた。

 そんな中聞こえた女性の悲鳴と、助けを求める老人の声に、俺は無意識の内に走っていた。


 通りへと出た俺の目に飛び込んできたのは、 横断歩道上で泣いて蹲る小学生と、その子が目標であるかの様に突っ込んでいく信号無視のトラック。まさに異世界転生モンの、鉄板とも言うべきテンプレ通りの展開。



「おいおい、マジかよっ!」



 日頃の心構えのお陰で自然と体が動いた俺は、蹲って泣く小学生のランドセルを蹴り飛ばして華麗に救ってみせた。が直後、なぜか体が一切動かなくなった。



「なんでだよっ!?」



 焦る俺の耳元で、誰かが唐突に「──こっちに、来て──」と囁いた。

 ソレは、少年の持つ脆さと少女の持つ儚さを併せ持った、ノイズや混じり気が一つも無い、純粋な音そのものの様な声。



 と、目標を失ったトラックが突っ込んできた。溝の切られた大きなゴムタイヤが、俺の体をあらぬ方向へと捻り上げていく。──絶対的な“死”──。



 なのに、気付けば俺は笑っていた。だってソレは、俺が恋焦がれて、長年待ち続けたそのものだったのだから。まさに完璧。これぞ王道。全てが確定演出だらけ。



 

 「あ~、やっと俺にも順番が回ってきたか! 初詣に七夕にサンタクロース、その全てに『異世界に行って勇者になりたいっ!』とお願いしてきた甲斐があったってもんだぜ!」



 赤かった視界に、徐々に黒が混じり始め、勢いを増していく。



「きっとこの後、宇宙みたいな星々が煌めく空間の中、見た事も無いほどの美貌を誇る女神様に、『勇者様。滅びゆく世界を救ってください!』なんて、可愛くお願いされちゃうんだぜ! うんうん、解ってるって! その代わり、今まで読んできたラノベの主人公にも負けない素晴らしいチート能力と、美女ヒロインを2、3人用意しておいてくれよ! 頼むぜ、女神様!」



 ──なんて、きっかりとこちらの要望をまだ見ぬ女神様にお願いまでしたところで、地の底から這いずり出て来たかの様な強烈な虚脱感に、身を委ねた──……。




  ◇




 ……──意識を取り戻した俺が最初に感じたのは、今まで嗅いだことの無いほどの、濃密な緑の匂いだった。




「……──ぅ……」



 頭に墨でも撒かれた様な重たい意識の中、起き上がって辺りを見渡す。



 そこは星々が輝く悠久の間──では無く、夜鳥の独特な歌声が辺りに響く、月明かりに照らされた木々が鬱蒼と茂った仄暗い森。



「……ここ、は?」



 ハッキリしてくる意識。と、すぐ近くに人の気配を感じ取った俺は、急いで膝を折り、頭を下げる。



「これは女神様。勇者エイジ、女神様の命により、異世界を救う為召喚に応じ──」

「ゲギャア?」

「──え?」



 女神様にしては下品極まれる声に、思わず顔を上げる。



 ──そこに居たのは、絹の様な白い柔肌の絶世の女神……では無く、ボロボロの布を腰に巻いただけで緑色の肌を惜しみも無く晒す、異世界ファンタジーを代表する魔物、ゴブリン。って、なんで目の前にゴブリンが居やがんだ?



「グギャギャギャ!?」

「う、うわっ!?」



 飲み込めない事態に脳みそが全てを投げ出した俺をよそに、目の前に居たゴブリンが突如としてけたたましい声を上げると、持っていたこん棒を大きく振り上げる! 



「おいおいっ!?」



 ヤバい!と腕で顔を覆う! こん棒あんなので殴られたら、腕で防いだところで意味なんて無いだろうが、他に出来る事なんてない!



「グギャ! グギャア!」



 しかし、ヤツに俺を襲う意図はないのか、振り上げたこん棒を左右に振るだけ。まるで俺を警戒する様に威嚇している感じだ。それでも俺を驚かせるには十分だったが。




「な、なんだよ! 一体!?」



 黄色く粘ついた唾を吐き散らしながら、ゴブリンが大声を張り上げ威嚇してくる。

 その余りの迫力に、俺は地面に落ちている枯葉や小枝をガサガサと鳴らしながら後退る。ヤツに俺を襲う気が無いのなら、このままゆっくりと距離を取るのが正解だろう。その際、視線を外してはいけないらしい。って、それはクマだったか猿だったか? まぁどっちでもいい、ゴブリンコイツも大差ないだろうし。



 相手を刺激しない様に、ゆっくりと下がっていく。そうしてある程度離れられ、これならこのまま逃げられるか!?と思った矢先、ヤツは振っていたこん棒をスッと下すと、俺を見て、ニチャアと唾を糸つかせて不気味に口端を歪めると、突如としてこっちに走り出してきやがった!



「ギャギヤァ!」

「うわぁ~!?」



 いきなり襲い掛かって来たゴブリンに対し、ようやく立ち上がった俺は、一目散に逃げ出した。




 ──こうして無事(?)に、念願の異世界へと来た俺は、命がけの鬼ごっこに興じるのであった。


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