第一章 第1話 グッバイ現世、ハロー異世界

 

  

 あの日は、いつもと何一つ変わらない普通の日だった。


 休み明けの怠さと眠気をぶっ飛ばすため濃いめに淹れたインスタントコーヒーを飲みながら、テレビから流れて来るニュースを適当に耳に入れ、占いコーナーの結果に毒を吐き、連絡してくる事なんてほとんど無かった妹の世羅せらから電話で、ただでさえやる気の出ない月曜日の朝に止めを刺される。

 世羅からの電話以外は普通の日だった。ほんと、あの時までは──



 ~  ~  ~  ~  ~



「はぁ~。なんか良い事無いのかねぇ」



 面倒な外回りから会社へと戻りながら、俺は一人ぶう垂れていた。



 「きゃあっ~!?」

 「危ないぞぉ!」


 

 そんな折り、突然聞こえた女性の悲鳴と危険を告げる老人の声に、俺は無意識の内に声のする方へと走っていた。


 通りへと出た俺の目に飛び込んできたのは、 横断歩道の上で泣いて蹲る小学生と、その子が目標であるかの様に突っ込んでいくトラック。



「おいおい、マジかよっ!」



 まさに異世界転生の鉄板とも言うべきテンプレ展開。

 ならばテンプレ通りに動かなきゃな!ってんで、必死こいて自分の体に活を入れ、蹲っていた小学生の元へと駆け寄るとランドセルを思いっきり蹴っ飛ばす。

 そして見事に道路の端まで飛んでいった小学生を確認し、どこぞのハムスターよろしく、とっとと逃げようと足に力を入れた。

 テンプレ過ぎる展開に異世界転移をちょっとは期待したが、流石にこのままトラックに轢かれたいなんて思うわけが無い。今月末には、楽しみにしていたラノベの続刊が出るしな。



 ──が、足が動かない!



「なんでだよっ!?」



 焦る俺。

 たとえテンプレ展開だからとて、異世界転移を心のどこかでは期待していたとて、ソイツが起きてくれる保証はどこにもない。普通に死んでゲームオーバー。そのまま俺の居ない世界の出来上がりで、せいぜい美談が地方紙の片隅に残るだけだ。



「そんなのゴメンだってのっ!」



 必死に足を叩く。

 だが変わらず、俺の足は一向にいう事を聞いてはくれなかった。



「マジでこのままじゃ死んじま──」

「──コッチに、来て──」



 本気で死を覚悟し始めた俺の耳元で、唐突に誰かが囁いた。

 ソレは少年の持つ脆さと、少女の持つ儚さを併せ持った、ノイズや混じり気が一つも無い純粋な音そのものの様な声。



「なんだよ、今のは!?」



 辺りを窺う。

 だが、声の持ち主らしきヤツは居やしない。せいぜいが、これから起こるであろう惨劇から目を反らす人々だけ。


 と、待ちに待ったとばかりにトラックが突っ込んできた。溝の切られた大きなゴムタイヤが、俺の体をあらぬ方向へと捻り上げていく。もはや逃れることの出来ない、絶対的な“死”──。

 


 だというのに、気付けば俺は笑っていた。

 だってソレは、俺が恋焦がれて、長年待ち続けたそのものだったのだから。足が動かず、ナゾの声が聴こえ、そしてトラックに轢かれる。全てが確定演出だらけ。まさに完璧。これぞ王道。



 あ~、やっと俺にも順番が回ってきたか! 初詣に七夕にサンタクロース、その全てに『異世界に行って勇者になりたいっ!』とお願いしてきた甲斐があったってもんだぜ!



 赤かった視界に、徐々に黒が混じり始め、勢いを増していく。



 きっとこの後、宇宙みたいな星々が煌めく空間の中、見た事も無いほどの美貌を誇る女神様に、『勇者様。滅びゆく世界を救ってください!』なんて、可愛くお願いされちゃうんだぜ! うんうん、解ってるって! その代わり、今まで読んできたラノベの主人公にも負けない素晴らしいチート能力と、美女ヒロインを2、3人用意しておいてくれよ! 頼むぜ、女神様!



 ──なんて、きっかりとこちらの要望をまだ見ぬ女神様にお願いしたところで、地の底から這いずり出て来たかの様な強烈な虚脱感に、俺は身を委ねた──……。




  ◇



「……──ぅ……」



 ……──意識を取り戻した俺が最初に感じたのは、今まで嗅いだことの無いほどの濃密な緑の匂いだった。




「……っん。ふ……」



 墨でもぶち撒かれた様な重たい意識を頭を振って無理やり払うと、起き上がって辺りを見渡す。

 そこは星々が輝く悠久の間──では無く、月明かりに照らされた木々が鬱蒼と茂った仄暗い森。



「……ここ、は?」



 まだ少しぼぉっとする頭が、辺りに響く夜鳥の独特な鳴き声を煩わしく感じていると、すぐ近くに気配を感じ取り、俺は急いで姿勢を正すと頭を下げた。



「これは女神様。勇者エイジ、女神様の命により異世界を救う為召喚に応じ──」

「ゲギャア?」

「──へ?」



 女神様にしては下品極まれる声に、思わず顔を上げる。



 そこに居たのは、絹の様な白い柔肌の絶世の女神……では無く、ボロボロの布を腰に巻いただけで緑色の肌を惜しみも無く晒す、異世界ファンタジーを代表する魔物──ゴブリン。って、なんで目の前にゴブリンが居やがんだ?



「は? え?」

「グギャギャギャ!?」

「う、うわっ!?」



 飲み込めない事態に、脳みそが全てを投げ出す。

 そんな俺をよそに、目の前に居たゴブリンは突如としてけたたましい声を上げると、持っていたこん棒を大きく振り上げた! 



「おいおいっ!?」



 ヤバい!と腕で顔を覆う! 

 あんなもので殴られたら腕で防いだところで意味なんて無いだろうが、他に出来る事なんてない!



「グギャ! グギャア!」



 しかしヤツに俺を襲う意図はないのか、振り上げたこん棒を左右に振るだけだった。まるで俺を警戒する様に威嚇している感じだ。それでも俺を驚かせるには十分だったが。




「な、なんだよ! 一体!?」



 黄色く粘ついた唾を吐き散らしながら、ゴブリンが大声を張り上げ威嚇してくる。

 その余りの迫力に、俺は地面に落ちている枯葉や小枝をガサガサと鳴らしながら後退る。ヤツに俺を襲う気が無いのなら、このままゆっくりと距離を取るのが正解だろう。その際、視線を外してはいけないらしい。って、それはクマだったか猿だったか? まぁどっちでもいい、ゴブリンコイツも大差ないだろうし。



 相手を刺激しない様に、ゆっくりと下がっていく。

 そうしてある程度離れられ、これならこのまま逃げられるか!?と思った矢先、ヤツは振っていたこん棒をスッと下ろしたかと思うと、ニチャアと唾を糸つかせて不気味に口端を歪めたあと、突如としてこっちに走り出してきやがった!



「ギャギヤァ!」

「うわぁ~!?」



 いきなり襲い掛かって来たゴブリンに対し、ようやく立ち上がった俺は、一目散に逃げ出した。




 ──こうして無事(?)に念願の異世界へと来た俺は、ゴブリンとまさかのエンカウントを果たし、突如として発生した命がけの鬼ごっこに巻き込まれるのであった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る