第36話 一人の少女が抱く痛み
「……はぁ」
簡素なベッドの上で少女が吐いた溜息が、部屋を何に染めるでもなく消えていく。
溜息では消えてくれなかった事を不快に思いながら、少女は傍らに置いたお気に入りのぬいぐるみを、ギュッと抱き締める。それでも少女の、怒りが混ざった気怠さは消えてはくれなかった。
「はぁ、ほんとサイテ~」
体を休めても止まらない溜息は、果たして何度目のものだったか。当の本人でさえ解らない。それほどまでに少女──立花伊織が溜息を吐く理由。それは──
「一体、あの人はなんなの……」
伊織はそう愚痴ると、手繰り寄せたぬいぐるみにボスっと顔を埋めた。
彼女が溜息を吐く理由。それは己の従者としてこの世界の女神が用意してくれた一人の男性、御供瑛士のせいだった。
御供瑛士に対する第一印象は、比較的好意的なものであった。
伊織の知らない豊富な知識でもって自分の帰還の手助けをしてくれる、とても頼れる人だとそう思っていた。
一人っ子で異性の知り合いが殆ど居ない伊織からすれば、それこそ幼い頃に読んだ、童話の王子様の様に思っていた。別に自分をお姫様扱いするわけではないが。
であるならば、彼女の吐く溜息は恋する乙女が発する恋情の溜息──なんかではなく、
「あまりに頼りなさすぎじゃない!」
伊織は埋めていた顔を上げると、眉根を寄せる。
好意的だった第一印象。しかし、ここ数日の出来事によってそれは脆くも崩れ去っていた。
たしかに瑛士は、自分が持ちえない知識を持っていた。彼女の知らないそれらの知識は、たしかに自身を助けもした。
しかし──こと戦闘に至っては、全く頼りにならないのだ。そしてその弱さを正そうともしない。その態度がどうしても伊織は我慢ならない。
「私が求めていたのと、違いすぎるんだってば!」
彼女が求めていたのは、自身と共に魔王を倒せうる存在。魔王を倒す時、伊織の横に居てくれる存在なのだ。
しかし、今のエイジには、そのシーンを全く持って想像出来ない。
だがそれが演技である事を彼女は知らない。
瑛士は女神の依頼によって、伊織の前では本来の力を見せてはいけない事になっている。
しかし、そんな事情を知らない伊織からしてみれば、言葉は悪いがただの使えない人間だ。
強くも無い。
意気地も無い。
そしてやる気も無い。
正直、エイジという人間は、実は魔王とやらの出先ですらないのかとさえ思った。伊織からしてみれば、エイジという男は自分の足を引っ張る存在にまで悪化していた。
「なんで、あんな人を寄越すのよ!」
伊織の中で怒りが増す。その怒りの対象はエイジだけではなく、女神にまで及んでいく。
己の世界の救済の為に、勝手にこの世界に連れてきた女神は、彼女にとっては正直魔王とやらと変わらない、忌むべき対象。
であるはずなのに、そんな存在が言った事を素直に信じた自分も悪い。グルグルと回った怒りの矛先は、自分自身で止まった。
「……なによ! 先に進みたいのに、一刻も早くこの世界から脱出したいのに、あろう事か『この世界を楽しみませんか?』って! 意味が分かんないわよっ!」
マットレスにしては薄すぎる敷布団を、ボスボス叩く。瑛士のその言葉は、彼の気遣いから出た言葉である。にも関わらず、伝えたい人間には全く届いていない。
舞ったホコリが、昼近い日差しに照らされてキラキラと幻想的に光るが、彼女の心を落ち着かせる効果は無く、怒りの矛先はまた瑛士へと向かっていく。
「いつになったら、私の状況を理解してくれるのよ!」
伊織からすれば、そんなにこの世界を楽しみたいのなら、どうぞご勝手に!だ
いっその事、降りかかった災いの様な勇者というポジションを、そっくりそのままエイジに譲りたいとすら思う。
自分には守らなくてはいけないモノがある。
護らなくてはならないモノがある。
なのに楽しめと?
伊織はエイジの言葉に、自身の全てを否定された気がした。伊織の全ては現実世界にあるのだ。間違っても、こんなふざけた世界には無い。
「……御供さんが頼りにならない以上、今以上に私が頑張らないと!」
ギュウッと、ぬいぐるみを抱き寄せる。もはやこの異世界で信じられるのは己だけだと、伊織は自分自身を強く戒める。
あとどれほどの時間が残されているのか分からないが、これ以上時間を失えば手遅れになってしまうのだ。そうなってからでは、後悔してもしきれない。
「でも、急に頼らなくなったら、幾ら御供さんとて不審に思っちゃうよね……」
伊織がいま一番怖い事。それは、まだ十分な知識が無いままで独りにされる事だ。
ならば今は──独り立ちするまでは、エイジの知識を吸収する為に言う事を聞いておこうと、伊織は判断する。
ちなみに、今までの十分に冷たい塩対応でエイジの心のHPをゴリゴリと削っているのだが、伊織はそれには気付いていない。
「まずは強くなる……。今よりももっと……」
自分が弱者である事はなんとなく解る。ならば、強くならなくてはいけない。それこそ、魔王はおろか、この世界に来る前の自分よりもずっと──
「──!? ぅ、ぐぅ……!」
突然、ガタガタと震え出す伊織。震えを押さえようと懸命に身体を両手で抱くが、一向に収まらない。昨夜のゴブリン集落の戦闘で大勢のゴブリンを殺したその反動で、体が拒否反応を起こしたのだ。
伊織は無理をしていた。エイジにはああ言われたが、伊織はいまだゴブリンを現地人だと思っていた。異世界の知識に疎い伊織からすれば、言語を使ってコミュニケーションを図り社会を形成するゴブリンは、十分に住民だったのだ。
その住民を、幾ら自分に都合の悪い事件を起こした犯人とはいえ、殺してしまった。その事が、その犯罪行為が伊織を侵していた。十七年近く生きてきて、初めて生き物を殺してしまったゴブリンとの戦闘から、その心は変わってなどいなかった。
「……ふ……、ふぅ……」
ゆっくりと息を整える。伊織を癒す唯一は責任転嫁だった。
大丈夫。この世界を統べる存在に赦されたのだから、と。
そうして伊織は、己の心情を殺していく。
ゆっくりと感情が消えていく。
それに安堵すると同時に、体の震えも治まっていき、伊織は「ふぅ」と安堵を漏らす。
今後、どれだけこうして罪の意識に苛まれ、心を殺さなくてはいけないのか。そう考えると、伊織は心すらも震わす。
「……もう寝ちゃお……」
起きているから余計な事を考えるのだと、伊織は粗い作りの毛布を被る。幾ら強くなったこの体でも、やはり徹夜は辛いのか、襲ってくる睡魔に伊織は白旗を上げる。
「……お父、さん──……」
意識が無くなる前、伊織の口がゆっくりと動いた。
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