第29話 十八歳④
元通りの姿になったツーヴィア公爵令嬢は、ありがとう、と俺にマフラーを返した。いえ、と俺は応え、それを巻かずに畳んで膝の上に置いた。不可抗力とは言え、自分が身に着けたものを使用人に使われるのは不快かもしれない。捨てはしないが、一度洗う必要がある。
「巻き込んでごめんなさいね」
「いや、構わない。不躾なことを聞くが、さっきの男性は医者か?」
「ええ。お友達が来ているからと、父には断っていただいたのだけれど……」
ツーヴィア公爵令嬢は、オルバート様の顔色を窺うように微笑んだ。つまり、ライシャ様を招いたのは自身のメリットもあってのことだったのだろう。どうやら、あの医者にいい感情は抱いていないようだ。だが、さもありなんと俺は思う。気持ち悪い顔、など、患者を相手に決して使ってはならない表現だ。もしオルバート様の主治医なら、俺はその目を抉っている。
ツーヴィア公爵には一言言わせてもらう、とオルバート様は宣言した。確かに、先程の騒動は不快だった。同時に、ツーヴィア公爵令嬢を慮ってのことでもあるだろう。仮に被害者である娘の感情論を無視してあの医者を雇い続けているとしても、第三者が事実を述べれば耳を傾ける可能性は高い。始まったばかりの付き合いに角を立てると分かりつつ、オルバート様は友情のために動こうとしている。それに対し、ツーヴィア公爵令嬢は笑った。申し訳無さそうな、けれどどこかほっとした微笑だ。夕食の後に時間を取りましょう、と話し合いの場を約束する。
火が弱まっていたので、俺は小枝を足した。爆ぜながら背伸びをする炎は、狭い半球を一生懸命に照らしている。何となく、心をさらけ出しても許されるかのような空気があった。
「私、魔力病なの。二人は知っているかしら?」
聞かれ、オルバート様は否と答えた。俺も視線を向けられたので、存じません、と首を横に振る。
「魔力病は、治療法も原因も分かっていない病なの。魔力に関する体の異常のせいで、様々な症状を引き起こす……例えば、私の顔みたいに」
布の下、目元を白魚のような手がなでる。何度も、何度も、健常者には無い凹凸をなぞっている。さっきの一瞬でオルバート様が視認できたかは微妙だが、わざわざ説明を求めることはしなかった。見ておらずとも、隠しているから大体の見当は付いているのだろう。
「魔法を使わないのは、その病が関係しているのか?」
「ええ。……リュードは聞いていないかしら?」
「はい……。魔力を吸収できないということでしょうか?」
「吸収はできるわ、そうでないと生きられないもの。けれど、一気に使ってしまうと回復するまでに数十日掛かるの」
魔力とは、大気中に漂っているものだ。魔族はそれを恒常的に吸収して生きる。魔法を使うと、消費された分だけ再び外界から吸収する。つまり、それが間に合わなければ体内は魔力の欠乏状態に陥るということだ。
幼い頃はうっかり使ってしまって死にかけたわ、とツーヴィア公爵令嬢は朗らかに言い放った。うふふ、とお茶目に口元を緩めているが、全くもって笑い事ではない。曰く、高熱を出して寝たきりになってしまうらしい。昔のオルバート様とよく似た症状だが、魔獣の加護も魔力病に類するものなのだろうか。この世界は医療が前世ほど発展していないので、調べようと思っても限界があるだろう。いや、魔力が医学とどれほど噛み合うかさえ未知だ。それこそ、人道を外れた実験を企てなくてはいけないだろうか。
「……私も、気持ち悪いとは思っているのだけれど……今治ってしまったら、本当に、本当にあの人が戻ってこない気がするの」
「……ツヴァイン侯爵子息か?」
ロディヴィー・ツヴァインは、当時十八歳であった三年前に行方をくらませたという人物だ。ヴァルド学院に留学していたが、卒業と同時に失踪した。元婚約者であるツーヴィア公爵令嬢と妹であるツヴァイン侯爵令嬢は、この人を見つけるためにヴァルド学院に来た。しかし、そうして一年が経ちそうな今もなお手掛かりは無いらしい。
「ロイドが留学したのは、私の病気の治療法を研究するためだったの。──この国では、ほとんど魔獣を見ないでしょう?」
聞かれ、オルバート様は頷いた。イルナティリスに来て以来、魔獣は一度も見かけていない。ツーヴィア公爵邸にいないのはもちろんのこと、街を歩いた際も一体たりとて出会わなかった。
「なぜかは分からないのだけれど、魔獣が姿を見せるのは人類の国が主なの。もちろん、魔族の国に全くいないわけではないわ。ただ、そこにいるのは透明化の魔法を使っている魔獣ばかりなの」
「とすると、ツヴァイン侯爵子息は魔獣から治療法を見つけようとしたのか?」
「ええ。……見つけられなくても、帰ってきてもらえればそれでいいのに……」
その声は、わざと呆れようとして失敗している。溜め息混じりに言おうとして、かき消えそうなほど震えてしまっている。ぎゅう、とワンピースの裾を握り締めるその両手は切ない。三年以上、生きているかどうかさえ定かでない人を待ち続けている、その気持ちはどれだけ辛く苦しいのだろうか。
俺は同情を覚え、けれどジャウラット教授のことを思い出した。あの人がヴァルド学院にいるのは、魔法学の中でも魔獣に重きを置いた研究をしているからだろう。となれば、魔獣に好かれるオルバート様に興味を持っているのも頷ける。だが、何のためにその研究をしているのかは不明だ。わざわざ戦争の歴史を持ちだしてきた辺り、平和な動機ではない気がする。
「……失礼ですが、ジャウラット教授にご相談は……?」
「していない……と言うより、できない、と言ったほうが正しいかしら。ジャウラット教授は気まぐれな方なの」
「気まぐれ……?」
「はっきりと言えば、学生のえり好みが激しい人だ」
俺が首をかしげると、オルバート様は呆れたように肩をすくめた。曰く、ジャウラット教授は学生によって態度を百八十度変える、と。しつこいほど話しかけるときもあれば、質問には答えるが基本的には放置する場合もある。なお、オルバート様は前者だ。ツーヴィア公爵令嬢とツヴァイン侯爵令嬢は後者。オルバート様以外の一年生には、職務放棄一歩手前の対応を見せているらしい。人類も魔族も関係なく、ジャウラット教授は気に入った学生としか交流しないそうだ。
ツーヴィア公爵令嬢とツヴァイン侯爵令嬢は、一回目の魔法学の授業後に会話を試みたらしい。なお、そのとき聞きたかったのはツヴァイン侯爵令息についてだ。ところが、ジャウラット教授は二人が名乗るや否や会話を拒否してしまった。帰りたまえ、の繰り返しだったと言う。以来、ジャウラット教授とは目が合いもしないらしい。となれば、魔力病の相談などできるはずもない。
気づけば、雪原に伸びる影は長くなっていた。オルバート様が外に出て数時間だ、そろそろ屋内に入らなくては風邪を引いてしまう。俺が帰宅を提案すれば、ツーヴィア公爵令嬢は空気を切り替えるように頷いた。オルバート様もそれに倣い、二人は順に外に出る。俺も火の後始末を済ませてかまくらを後にし、三人で暖かい屋敷を目指した。
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