第10話 十七歳①
十七歳、春。オルバート様たちと俺は、予定通りヴァルド学院に入学した。王都郊外に構えるその敷地はとてつもなく広く、端から端まで移動するためのバスが一時間ごとに運行している。建物は年季を感じさせる造りで、階段の急勾配や段差の数に目を瞑れば風情がある一方、教室はリフォームされているらしくレトロとモダンの不協和音がひどい。森に近い場所では烏か蛇か分からない何かの奇声が聞こえるし、そもそも虫が多いし、教員は偏屈な人が大半だし、ここまで言えば察せられただろうが、俺はこの学院を選んだことを入学初日に後悔した。話が違う。パンフレットと違う。卒業生である旦那様の思い出話と百八十度違う。
記憶違いでなければ、旦那様は穏やかに流れる時間の中で充実した日々を送ることができると言っていた。一体、どこがだ。時間が穏やかに流れるのは単に都市部の喧騒が遠いからだし、むしろ無駄に敷地が広いから授業ごとの移動は確実に慌ただしいだろう。何より、オルバート様がこれから暮らす寮を見てほしい。驚くべきことに十階建てだ。エレベーターはある。ただし、手動式でちんたらと動く、しかも寮一棟に付き一台しか設置されていない代物だ。王族が最上階、公爵子息であるオルバート様は九階。ちょっと待て、と言いたい。地上と九階を行き来するという至極単純な作業に、時間と手間が掛かりすぎる。エレベーターを動かすのは学院の用務員とは言え、よりによって学校という時間の制約が細かい場所で移動に神経を使わせたくない、というのが主を思う従者の心境だ。公爵家嫡男であるオルバート様は王族の次に身分が上なので、あらゆる場面で他の学生が自主的に優先してくれるのが不幸中の幸いだろう。
今朝も今朝とて、俺とオルバート様はエレベーターに運ばれ地上を目指す。
「リュードはエレベーターが本当に苦手だな。そういえば、家でも移動は全部階段でしてたか?」
「はい、階段のほうが早いので」
「さすがだな」
俺は前世のエレベーターを知っているから、余計にフラストレーションが溜まるのだろう。不意に故障して動かなくなるのではという不安感がものすごく大きい。オルバート様がもう少し小さければ、抱えて階段を使えるのだが。
「……」
「ん?」
「いえ、何でもありません」
思わず見詰めてしまい、俺は咄嗟に誤魔化した。しみじみと思うことに、オルバート様はいつの間にか背丈を伸ばしている。初めて出会ったときは大人の膝くらいで、魔獣の加護の弊害か発育が悪い頃は俺の腰ほどしか無かったのに、今では俺の肩まで身長がある。俺とて決して低身長の部類ではない、一七〇センチ以上あるにも関わらず、だ。あと数年もすれば、オルバート様が同年代の中で一、二番の高身長になることは想像に難くない。眉目秀麗、才色兼備、はどちらもオルバート様にこそ当てはまる。
ガコン、とエレベーターが絶妙な位置で停止すると、蛇腹の檻がガシャガシャと開く。その向こうの引き戸も開ければ、ここは一階のロビーだ。寮監に部屋の鍵を預け、芝生が茂る道へと踏み出す。数歩歩いたところでわらわらと集まってきたのは、ヴァルド学院に住む魔獣たちだ。
「おはよう、おはよう」
「ぽかぽか」
「おはよう、みんな。今日はいい天気だな」
わぁ、わぁ、と様々な魔獣がオルバート様にじゃれつく。中でも、細身のイグアナのような容姿を持つランツィオという種の一体は、オルバート様の肩に乗るのがお気に入りだ。何代か前の学院長からもらった愛称だそうで、ヴォルケ、と呼ばれると嬉しそうにその硬質な身をよじらせる。
「ヴォルケ、今日は剣技の授業があるが、来るか?」
オルバート様の言葉に、グゥ、とヴォルケは喉を鳴らした。行く、という返事だろう。
ヴァルド学院に住み着いている魔獣は、他の地域の魔獣よりも人類や魔族の文化に対する好奇心が強いらしい。あるいは、魔獣以外の生き物がいる環境に慣れているだけとも考えられる。魔獣はほとんどの個体が透明化の魔法を使うはずなのに、ここではいつでもどこでも視界の端に魔獣がいるのが日常だ。巨大なウーパールーパーのような魔獣が窓に張りついて腹部をさらしていたり、ダックスフンドのような魔獣が水溜まりでバシャバシャと体を濡らしていたり、何とも気が抜ける光景がそこら中に溢れている。魔獣の加護を授かりし者はまずヴァルド学院を選ぶ、と言われているだけのことはある。歴代の学院長も、ほとんどが魔獣の友だそうだ。俺はこの学院の微妙な機能性は認められないものの、オルバート様がこうして楽しめる自然環境だけは良かったと思う。
今は一限目の授業を受ける学生の登校時間なので、当然同じ方向へ向かっている人は多い。真新しい制服に背筋を伸ばす同級生や、程良く着崩した制服に余裕を感じさせる先輩。オルバート様と同じように、魔獣と話しながら歩いている者もいる。徐に、その中で一際目立つ金髪の男子学生がオルバート様に近づいてきた。その隣には、眼鏡を掛けている大人しそうな男子学生もいる。
「おはよう、オルバート。今日も賑やかだな」
前世でも類を見ない、眩しいほどの金色の髪と、初夏の爽やかな木々を思わせる薄緑色の虹彩。前髪を中央で分け額をさらしているので、彫りの深い顔立ちがさらに際立っている。威風堂々とした気品を兼ね備えたこの人は、我らがサンダスフィー王国の第二王子であるグリック・ルフローズだ。言わずもがな、物語における正ヒーローかつオルバート様の宿敵。現状では、物語でもこの世界でもオルバート様の数少ない友人だ。ちなみに第二王子という肩書だが、兄を持っているわけではない。現国王が祖父であり、第一王子かつ王太子は父であるがゆえの二番手だ。順当に行けば、グリック殿下はやがて王位を継ぐ。
グリック殿下の気質は、オルバート様と対極だと言える。大らかで大胆な性格をしており、身分問わず好感度が高い。魔獣の友ではないが、ヴァルド学院には他国家との友好関係を築く足掛かりとして入学したそうだ。何も、ヴァルド学院は魔獣の分野に特化した学校ではない。創立当時から変わらないその本質は、国や地域や種族を問わない交流の場としての役割なのだ、魔獣はその一つに数えられるというだけだ。尤も、現代では王都近郊の学校のほうに留学生が集中しているが。
物語において、入学当初のグリック殿下は魔族を過剰に意識してしまっていた。人類と魔族は違う種なのだから、心の底まで分かり合い支え合うことはできない、というのが無意識の部分にあった。しかし、それを変えるのがヒロインだ。ヒロインは良くも悪くも純粋無垢で、人類の親友も魔族の親友も作る。グリック殿下はその姿に胸を打たれ、何者に対しても臆しない心を得た結果、これから先もヒロインに側にいてほしいと思い愛の告白をする。早い話、王妃となって国民のために生きてほしいという求婚だ。
そう考えると、ヒロインは己の純朴さとは裏腹に、純粋な恋愛はしていない。グリック殿下からの恋心には未来の責任が多分に盛り込まれているし、オルバート様からの気持ちは過去に対する未練が根幹を成している。俺の恋愛経験は前世でも恐らく無いが、どこか興ざめしてしまう話だと感じる。国の将来も個人のトラウマも、十代の少女が負うにはやや重い。
「おはよう、グリック。サイオンも」
「おはよう、オルバート」
眼鏡に朝日を反射させつつ、サイオン・ウォルベルは挨拶を返した。ウォルベル伯爵家嫡男の息子であり、ゆくゆくはグリック殿下の側近となるだろう人物。茶色を混ぜたような赤い髪に、澄んだレモンイエローの双眸。オルバート様とは名前を呼び捨て合ってはいるが、今のところの二人は顔見知り以上友人以下といった具合だ。随一の出世街道を進んでいるにも関わらず、サイオン様に唯我独尊のきらいが微塵もないのも原因かもしれない。どことなく、サイオン様は本来の魅力から一つ差し引いた自負を負っている感じがする。
物語におけるサイオン様は、グリック殿下とヒロインを繋ぐ恋のキューピッド的な存在だ。グリック殿下とは友人としての近い距離を持ち、ヒロインとは伯爵家の出身同士ということで気兼ねない関係を築く。そして、初めての感情と自身の責務に思い悩むグリック殿下を励まし、身分の差で踏み出せずにいるヒロインの背中を押す。
ちなみに、ヒロインの入学はもう一年先だ。学費の工面が間に合わず、二年生から編入することになる。一年生からのスタートではないのは、学力が飛び抜けて高いゆえ。メタ的なことを言えば、通常の入学よりも編入のほうが特異性があり、オルバート様とグリック殿下と同級生のほうが物語を綴りやすいからだろう。
ところで、とグリック殿下の控えめな声が空気を揺らした。
「ファイアンは一緒ではないのか?」
「ああ、今朝は友人と登校してるんだ」
オルバート様はにこやかに答えた。仲違いしたわけじゃない、と無言の圧力を放っている。グリック殿下は、そうか、友人との時間も大切だからな、と訳知り顔で頷いた。事実、グリック殿下は交友関係が幅広い。オルバート様は数えられるほどの人数としか接しないから、ライシャ様の不在に寂しがっていると思ったのかもしれない。あながち間違いでもないのがさすがだ。群衆を統治する王族とあって、観察眼に長けている。
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