この世界のあなたに祝福の花束を
青伊藍
プロローグ
第1話 十二歳①
十二歳、春。侍従と言うよりは騎士のようなお仕着せに着替え、俺は姿見の前に立った。左胸を割るかのように濃紺の縦ラインが入った、由緒正しきギアシュヴィール公爵家の灰色。この姿を見ると、俺の脳は早朝の眠気から瞬き一つで覚醒する。邪魔だからという建前でやや伸ばした、前世と同じ黒髪を素早く結わえ、うなじが隠れたことを後ろ手で確認した。この行為に意味を見出してはいないが、坊ちゃまの罪悪感が少しでも小さくなるなら本望だ。前世で着ていた学ランを連想させる詰め襟の下、いつかにもらったペンダントの輪郭を指先でたどる。カチャ、とチェーンが笑ったのを合図に、俺はにっこりと表情を作る。大丈夫、今日も完璧な愛想笑いだ。たとえ虹彩が鮮やかな夕日の色をしていようと、それらしく笑えば怖がられない、そう教えてくれたのは坊ちゃまだ。尤も、実際にそうなっているかは別の話だが。
様々な視線をやり過ごした先、ウォルナットブラウンのドアを上品にノックする。返されるのは、入ってくれ、という九歳の少年の声。今日も今日とて一人で起床できたようだ。誇らしく感じると同時に、主人を世話できない寂しさが生まれる。
「おはようございます。本日もお早いですね」
「おはよう。リュードこそ、今日もちゃんと起きられたんだな」
「はい。起きなかったとしても、侍従長に叩き起こされます」
ふふ、と弧を描いた、灰色の吊り目。炭混じりの藍色の髪は、朝日に照らされさらさらと艶を放っている。良かった、今日は体調が良さそうだ、と俺は素直な笑顔の裏で安堵した。
この子供が俺の主人、オルバート・ギアシュヴィール。ギアシュヴィール公爵家の第一夫人の息子であり、いずれは家督を継ぐ嫡男でもある。生まれたときから魔獣に好かれやすく、小さな体には重い加護を授けられる体質の持ち主。そのせいで、健康や健常という評価をこれまで一度も許されたことがない。つい昨晩も、もはや持病と言っていい微熱にうなされながら眠りに就いていた。
──すり、と右足に温もり。視線を下げれば、もこもことした漆黒の生き物が俺にじゃれついていた。ぴょこ、ぴょこ、と動く三角形の耳がかわいい。
「おはよう、フラウム。坊ちゃまと一緒に寝てたのか?」
意外と軽いその体を抱き上げると、キュウ、という鳴き声を返してくれた。瑠璃色のつぶらな瞳、毛に埋もれるほど短い足。シーズー犬とペルシャ猫を足して割ったらこんな感じだろうか。ぱたぱたと上下に振り続ける前足にわざと顔を近づけてやると、無色透明な肉球スタンプをいくつも押印された。
フラウムというのは、この子の愛称だ。名付け親は坊ちゃまで、綿毛、という意味。ペットというわけではないが、気づいたら坊ちゃまと一緒にいるから名前が付いた。一方、種名はシャシェーという。
シャシェーは魔獣に属している。魔獣というのは、魔法を使うことができる人以外の生命体のこと。人類や魔族に劣らぬ知能を持ち、言語での意思疎通が可能な種もいるので、動物と言うよりは別の国の住人という表現のほうが的を射ている。
魔獣の多くは、神出鬼没で自由気ままだ。俺の坊ちゃまは、そんな魔獣の友としての定めを受けている。その反面、ギアシュヴィール公爵家の嫡男は人でなしだ、と差別的な扱いを受けることもあるのだが。無論、そういう輩には俺が陰ながら「説得」を試みている。成功率はまちまちだ。
坊ちゃまが続き部屋の浴室で洗顔をしている間に、巨大なクローゼットから今日の衣装を素早く選び取る。鳥のさえずりが聞こえるほどの陽気が溢れるこの頃なら、淡い差し色があったほうが好ましいだろう。低い明度ばかりの衣服のうち、辛うじて空色が散見されるハーフパンツを手に取った。革のサスペンダーと水色のリボンタイも用意し、クリーム色のシャツに合わせてみる。俺がその色合いの調和に納得したとき、坊ちゃまも着替えのために鏡の前に立った。
「坊ちゃま、本日はファイアン公爵家との昼食会がございます。朝食は軽めになさいますか?」
「……そうだな……」
「……お断りしましょうか?体調不良だと申せば、旦那様もお許しになるかと……」
「いや、嘘は吐きたくない。それに、今日は来るかもしれないだろう?心配してくれてありがとう」
「……いえ。……失礼しました」
坊ちゃまは、健気だ。人として悪に染まらぬよう、神聖な信条をもって日々を生きている。己が人類主義者やそれに似る派閥に敵視されているからこそ、坊ちゃまはがんじがらめに己を律している。俺はそんな坊ちゃまが大好きで、尊敬できて、けれど悲しくて仕方が無い。未来がどうか嘘であれと、嘘にしてみせるとあがいている。――坊ちゃまがいずれは世界の悪になるなど、俺は到底認められない。
鏡に映る体をよじり、どうだろう、と坊ちゃまは尋ねた。お似合いです、まるで天空から舞い降りし御使いのごとき清純さで、と俺が賛美を本気で紡ぎ始めれば、十分だ、ありがとう、と坊ちゃまは苦笑した。八年後の春も、こうして他愛無いやり取りをしていたい。
長い長い廊下を共に歩き、食堂へ向かう。たどり着くと、すでに奥様とその息子ウィスティア・ギアシュヴィールが席に着いていた。ウィスティア様は坊ちゃまより七歳下、ふわふわとした水色の髪と灰色の目を持つ幼児だ。現在は子供椅子に座らされ、左隣の母親と笑い合っている。坊ちゃまがその正面に座ると、ウィスティア様は純朴な視線を投げかけた。
「おにーたま、おはよーごじゃいましゅ」
「おはよう、ウィスティア。今日もかわいいな」
「あいがとーごじゃいましゅ!」
「よく言えました」
ふふ、と坊ちゃまは笑った。言わずもがな、俺も口元が緩んでいる。しかし、顔は上げられない。俺がいると意識してしまったら、奥様は気分を悪くしてしまう。
数分後、旦那様も現れた。ウィスティア様と同じ髪色と、坊ちゃまともお揃いの虹彩。先代の急死ゆえに若くして爵位を継いだが、瑞々しさはいい意味で感じられない。寡黙な一方、家族を深く愛し大切に守る人。なればこそ、俺は旦那様が恐ろしくて堪らない。妻を殺した暗殺者の子を愛息子の侍従とするなど、果たしてどれほど巨大な感情のもとで決めたのだろうか。温情を掛けてやっているように見せかけて、明日には俺を殺すつもりなのだろうか。俺は、坊ちゃまのために生きることさえ許されないのだろうか。
「オルバート、今日は調子が良さそうだな」
「はい。昨夜、フラウムが一緒に寝てくれたんです」
「それは暖かかっただろうな」
「はい、とても」
時間は和やかに過ぎていく。今朝話した通り、坊ちゃまは一人前より少ない量を食べた。家族水入らずの場で、坊ちゃまはよく笑う。実の母親だけが欠けている場で、坊ちゃまは屈託なく笑う。その姿に、俺がどれほど救われていることか。人殺しだと罵られないことが、俺をどれだけ救っていることか。心優しい坊ちゃまのおかげで、俺は今日も、この世界で息をしている。
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