はなとなつ

藤原くう

第1話

 はなには目標があった。


 正義を司る警察の人間である両親と同じように、自分もみんなを守りたい。両親と同じ警察官になることを望んでいたはなは、双葉高校という名の知れたお嬢様学校に進学し、まずは生徒会の一員になろうとした。――だが、断られた。生徒会は、学校生活を充実させるための組織で、どちらか一方に肩入れすることはできない、と言われた。


 次に向かったのは風紀委員会である。彼らの仕事は風紀を乱している生徒を捕まえることで、やっていることは警察のようなものだ。


 だが、またしても断られた。はなが一年生で学校のことがよくわかっていないだろうし、彼女自身のこともよくわかっていないから、という理由だった。


 理解できないわけではなかった。でも、納得はできなかった。


 はなは肩を落としながら、廊下を歩く。


 そんなときに出会ったのだ。


 はなの運命を大きく変えることになる二人と。



 これは記憶。


 最近のことなのに、遠くに感じてしょうがない、シリウスのように輝く思い出の一つ。



「今ならいけますよ」


 人気のない夏休みの早朝。風紀委員会が所有する教室の前に、はなたち三人はいた。


 言葉を発したのは、ひょっとこの仮面をつけた女子生徒。そのおどけたような言葉は、リーダーである女子生徒ただ一人へと向けられている。


「ああ。よし、ボンドを」


 外科医のように、リーダー手が差し出される。


 はなは手にしていた黄色い容器を手渡す。受け取ったリーダーは赤いキャップを捻って、黄色いボディをむにゅむにゅ押す。ノズルから、とろりとした接着剤が顔をのぞかせたり引っ込んだり。


「こ、こんなことをして何になるんですか……?」


「なに、リーダーのやることに反対するの」


 朝のひんやりした空気よりも鋭い声が、ひょっとこの向こうから聞こえる。ぐるぐると墨で書かれた目がじっと見つめてきて、はなは小さく悲鳴を上げる。


「おいっ。怖がらせんな」


「貴女がそういうなら」


 嬉しそうな声が、動かない口のあたりから出て行った。殺気が霧散して、はなはホッと一息。その隣で「あんまりそういうことすんなよ、お前の後輩なんだから」「わたしは貴女以外どうでもいいのです」なんてやり取りが聞こえてくる。


 ちらと、一個上の先輩方に目を向ける。リーダーはボンドのノズルを鍵穴に近づけ、接着剤を流し込んでいる。そんな彼女を、ひょっとこ仮面少女がじっと見つめている。彼女の目は、仮面には隠されていたが、恐らくは並々ならぬ想いが注がれているに違いない。


 そして、はなの視線は一方的な愛を注ぐひょっとこへと向けられている。


 ――でも、わたしのことは見てくれない。


 ううん、とはなは首を振る。頑張ればいつかはわたしのことを見てくれる。いつかは――。


 遠くで「バカヤロー!」という声。廊下の向こうからバタバタという足音がはなたちの方へ、どたどたやってくるのが聞こえる。方角的に、侵入を果たした窓の方からであった。


「も、もしかしてバレたんじゃないですかっ!」


「ばれちゃあしょうがねえ。ずらかるぞ!」


 リーダーの掛け声とともに、はなたちは走り出している。そうやって、追いかけっこになって、最終的には捕まって、こってり絞られた。


 今思い出しても、クスリと笑ってしまうような、楽しくて――今思い返すと心臓が痛む――思い出。


 だが、それを体験することは二度とない。



 リーダーがいなくなった。


 理由は、はなにもわからなかった。何も言わずに高校を退学してしまったリーダーの足取りは誰にもわからない。はなだけではなくナンバー2にも。


 次にいなくなったのは、ナンバー2だ。


 退学したわけではない。一週間は学校をさぼっていた。その間、はなは心配だった。もちろん、別の心配事もあったが、どちらかといえば、ナンバー2までもが目の前からいなくなってしまうのではないか。


 いなくなってしまったリーダーを追いかけてしまいそうなほどの一方的な愛を、ナンバー2は抱いていた。


 でも。


 彼女なら、わたしの手伝いをしてくれるのではないか――なんて、ほのかな期待は早々に打ち崩された。


 ナンバー2は再び現れた。だが、はなを手伝うことはしない。ただ、勝手気ままにいたるところで問題を起こすばかり。それは、どこか糸の切れたタコを思い起こさせた。


 そして、はな自身はといえば、非常に困っていた。困っているという言葉では足りないくらいに困っていた。


 リーダーとその右腕を失った派閥には一人しかいない。


 バカなことばかりをやって、校内を騒がしくしていた三人だけのグループ。グループの規模としては、群雄割拠の学校の勢力においては小さい。


 だが、その影響力は計り知れないものがあった。影響力だけなら、学校に存在する派閥の三本の指に入るといっても差し支えなかった。


 影響力の中心にあったのは、リーダーの人となり。彼女がいたからこそ、はながいた派閥は力を持っていた。


 彼女がいなくなったことで、力はなくなった。そもそも派閥自体が自然解消した。リーダーがいなくなったからなのか、リーダーが前もって派閥を解散させたのかは、はなにはわからなかった。


 はなは、悲しかった。リーダー体調が芳しくないというのは聞いていた。直接話もした。体調が悪いなら、病院に行けばいいのに。行ってほしいと。だが、拒絶された。彼女の意思は固かった。一度決めた彼女を動かすのはテコだろうと戦車だろうとできやしない。でも、いきなりいなくなるなんて想像していなかった。


 だが、それよりもずっと悲しいことがあった。


 この大切な場所がなくなるかもしれない。


 三人で半年もの間を過ごしてきた、この教室がなくなる。


 双葉高校では派閥争いが行われている。他の高校で見られない奇妙な慣習は、将来的には何かの社長になる可能性が高いお嬢様たちのためにうってつけのものだった。派閥の目的はいろいろある。ただ単に権力を求めてだったり、学校で最も強くなるためだったり、自分の力を試したいからというのもある。理由は千差万別で、はなが属していた派閥は、自由にやるために自由にやりたい奴らが集まっていた。


 だから、やることといっても大掛かりなことはほとんどしない。風紀委員会教室の鍵穴を使えなくしたり、ピンポンダッシュのようにノックしては逃げたりとか、そんな感じのことばかりだ。過去には大掛かりな抗争を行ったらしいが、はなはよく知らない。リーダーはついぞ話さなかったのだ。


 派閥には陣地というものがある。陣取り合戦もしくは、ヤクザでいうところのシマの取り合いだ。陣地が大きい小さいで競い合う。陣地の維持の方法にもいろいろあるが、今はさておく。はなの派閥がなくなって起きたことの方が重要だ。


 はなの所属する派閥がなくなったことによって、手にしていた陣地が誰のものでもなくなった。


 誰のものでもないということは、誰もが手にすることができるということ。


 心にぽっけり開いた穴に似たその空白地帯は、じきに奪われてしまうのだ。


 大切な場所が奪われる。


 恐怖に駆られたはなの行動は速かった。新しい派閥をつくり、陣地を自分のものとした。


 だが、その陣地と派閥はリーダーが頭だったこそ、誰も手を出せなかったのだ。誰も彼もが、彼女のカリスマに惹かれていた。


 リーダーがいなくなり、生徒たちにかけられていた魔法はなくなった。


 それに加えて、空白地帯はあまりに大きい。所有しているだけで、購買部の全商品が一割引になるのだ。


 そのために、はなが立ち上げた派閥は大小さまざまな派閥から攻撃を受けた。


 そして、ある派閥に助けを求め、断られた。むしろ、宣戦布告されてしまった。


 途方に暮れたはなは必死に考える。この場所を――思い出の場所を守るためにはどうしたらいいのか。


 考えた末にとった案は、考えられる最悪の手段だった。



 恐らく、この抗争は双葉高校百年の歴史に刻まれるだろう。


 四大勢力の一角が消滅してしまったのだ。残った三つの派閥はもちろんのこと、他の烏合の衆も動き始めるのは必至。大混戦が予想されていた。


 蓋を開けてみると、想像よりもずっと大人しかった。


 それは残りの三大勢力のうち、二つしか動かなかったからだ。もう一つの派閥は静観することに決めた。そして、細々とした派閥も、残り二つの派閥によって風の前の塵よろしく吹き飛ばされてしまった。


 そうして残った二大勢力がぶつかりあっているというのが現状である。


 はなの派閥は、第二位の派閥と手を組んでいる――名目上は。実際のところは手を結んでいない。少なくとも、はなはそう思っていた。


 第二位の派閥は、ある意味では、はながいた派閥と似ている。衝動的に動くところなんてそっくりだ。決定的に違うのは、悪いことであっても行うところだ。文字通り、なんだって。


 嫌悪していた相手だった。手を組むということを宣言してしまった今でも、疑問がはなの脳裏をよぎる。こんなやつらに手を貸すだなんて、どうかしている。


 ――でも、どうすればよかったの。


 二大勢力の片方に宣戦布告された。決して冗談ではない。やるといったら、やる。有言実行の少女に、眼前で言われてしまったのだ。


 自分だけではどうしようもないのはすぐに分かった。相手は多数いて、こちらは一人だ。到底勝ち目のある勝負ではない。


 それがわかっていながら、はなは勝負にこだわった。頭の中は、大切な場所を奪われたくない。リーダーたちがいつ帰ってきてもいいように、居場所を守らないといけない。――そのためには負けられない。勝たないと。


 衝動のまま、もう片方の勢力に援助を求めた。代償は高くついたが、思いのほかすんなり助けてもらえることになった。


 そうして、抗争が始まった。


 抗争といっても、銃やナイフを携えて、血で血を洗うというわけではない。ルールにのっとって行われる。だが、戦いには違いなく、他の生徒からすれば迷惑千万もいいところだろう。話によると怪我人も出たそうだ。


 はなも怪我を負った。別に、覚悟していたことではある。あるのだが……。


 頬にできた傷をそっとなぞる。指が赤い線にかかると、鋭い痛みが走った。口から、うめき声がかすかに漏れる。その声が、ホコリの積もった思い出の場所に響く。


 ここはリーダーやナンバー2と語り合ったアジト。


 唯一ほこりっぽくないテーブルには、カップ麺の残骸がいくつも積みあがっている。抗争が始まってからのはなは、一日のほとんどをここで過ごしていた。外へ出れば、狙われる。抗争はとっくにはなの小さな手から離れて、泥沼の様相を呈している。抗争当初ははなも戦っていたのだ。だが、すぐに自分がいかに戦いに向いていないのかを思い知らされた。これまでは、後方支援に徹していた。実際に動いていたのは、リーダーとナンバー2。はなは、戦ったことなんてほとんどない。


 足手まといになっていると思ったのはいつからだろう。同盟相手が、はなを煙たがっているというのを何となく感じたから?


 何度目かのため息が漏れていく。


 どうすればいいのかわからなかった。こうするのがいいと思って行動したつもりだった。だが、実際はどうだ?


 スマホを取り出して、校内勢力図を開く。可視化された派閥の力は色で示される。その中に、はなが立ち上げた派閥のものはない。校内の三分の一を占めていた青は消え失せ、黒と紫に塗り替えられている。よく見ると、その勢力図の中に、青が残っている場所がある。そここそが、はなのいるアジトだ。


 幸いなことにここだけは守ることができた。いや、ここだけしか守ることができていない?


 はなは、椅子の上で膝を抱える。


「どうしたらいいの……?」


 手にしていたスマホが震えた。力が入ってなかったから、バイブレーションが機能した瞬間に、手から滑り落ちて、床を跳ねる。震える液晶には、電話をかけてきている相手の名前が表示されている。


 自分のことを案じてくれている人。


 第三位の派閥のリーダーにして、それにしては、あまりに優しすぎる人。


 今だって、心配してくれている。この状況をどうにかしようと電話をかけてきてくれている。


 手を伸ばしたい。電話に出て、今すぐにでも助けを求めたい。


 でも――。


 涙の枯れた瞳は、揺れ続けるスマホをぼんやりと見つめ続ける。だらりとした手が、それを手にすることはない。動くスマホはじきに静かになった。


 ぼんやりと見つめ続けていたが、その目は違う方へと向く。


 リーダーがいつも座っていた椅子。


 ナンバー2がいつも座っていた椅子。


 そこに、はっきりとした幻影が座っている。


 思い出の中の彼女たちが、語り合っている。それがはなには見える。そのたびに、胸がぎゅっと締め付けられた。


 この場所を守りたい。ただそれだけだったのに。


 どうして。


「誰か助けてよ……っ!」


 助けてくれる人なんていないことはわかりきっている。助けてくれそうな二人は、この場所からどこかへと飛び去ってしまった。はなのことを心配してくれた人たちの手は、その一切を振り払ってきた。


 こんなわたしにいったい誰が――。


 不意に扉が揺れた。


 はなは耳を疑った。まるで返事をしているかのようなタイミングだった。ゆっくりと扉の方を見る。


 鈍い音が扉の向こうからやってくる。ちょうど、扉を打ち破らんとしているかのように。


 誰かが外にいて、扉を破らんとしている。


 扉がまたしても揺れた。だが、50ミリの金属の扉はやすやすと破れるものではない。はなの心の扉と同じように、その扉は分厚く堅牢だ。


 無理だよ。


 ぽつりとつぶやく。短い声はひどく疲れている。


 扉の向こうから、何か声がした。小さくて、よく聞こえなかった。だが、扉の向こうから聞こえてくるというのが、気になった。とてつもない大声だったのではないか。


 低くうなるような音が、徐々に大きくなる。そのたびに、悲しみに麻痺していた心から氷がはがされていく。


 だが、それでも扉は開かない。戦時中につくられたとも言われる扉は非常に堅牢だ。爆弾が落ちてきても、扉と同じ材質で六面を囲われているこの部屋だけは残るだろうと囁かれているほど。


 ――無理だ。開くわけがない。


 諦めが言葉となって漏れる。だが、その手は扉へと向けられていた。はな自身、気付かないうちに。


 ハッとなって、手を下げる。


 見つけてしまった感情は、油をかけられた炎のように燃え上がった。


 直後、短い破裂音がした。


 扉の方からした音は、何かを吹き飛ばし、地面へと転がした。扉ではなく、もっと小さなもの。


 ブリーチング。


 そんな単語が脳裏をよぎったのは、はなが警察官僚の娘だから。知識としては知っているが、そんなことができる女子高生がいるのか?


 混乱するはなの前で、煙を吹き上げながら扉が開く。


 そこに立っていたのは、一人の少女。


「完璧じゃない」


 不敵な笑みを浮かべるは、自称完璧美少女の竜夏だった。



 重い扉を押し開けた竜夏が、部屋の中へと入ってくる。


 呆然とするはなの前で、耳元――ペンダント型の通信機――に手を触れ、何事かを呟く。「ボスに言われた通りやったわ」「何にも壊してないわよ」「完璧だったわ」そんなやりとりが、はなの下まで聞こえてくる。内容まではわからなかったが、感謝の言葉を述べているようであった。


 ペンダントから指が離れる。


 切れ長な目が、はなへと向けられた。その自信に満ち溢れた視線を浴びて、心が悲鳴を上げる。自信に満ちた目に耐えられなくて、はなは顔を背けた。


「……どうして来たんですか」


「どうしてって、わかってるでしょ。はなちゃんと話をするためよ」


「話をするつもりはありません」


 よろめくように立ち上がったはなは、竜夏の隣を通ろうとする。


「待って」


 手を掴まれる。痛いほどきつく。


 竜夏の顔を見れば、眉間にしわが寄っていて、いつになく険しい表情だった。太陽のようだと形容されることもある竜夏であったが、今の彼女は、痛みに顔をしかめているようであった。


「なんのために来たのかって、今言ったわよね。……ただのおせっかいよ」


「おせっかい……?」


「本当はこんなことしたくないんだけど、ボスに頼まれたの。はなちゃんのことを助けてやれるのはわたくしだけだってね」


 意味が分からないと疑問を呈そうとしたはなを、竜夏の手が制する。


「わたくしとしては、助けられるかなんてわからないわ。でも、一つだけ言えることがあるの。――はなちゃんとわたくしは似ている」


「竜夏さんとわたしが……」


 神妙な顔をして、竜夏が頷いた。


 はなは、竜夏を睨みつける。――どこが。そのように口から洩れる言葉には力があった。


「どこが似てるっていうんです」


「そうね」怒りを受け止めるようにゆっくりと竜夏が言葉を続ける。「順を追って説明するわ。そこに座って」


 竜夏がはなを解放する。


 あれは、この学校へ入学する半年前のこと。――そのような言葉から話は始まった。



 わたくしの家は、まあそれなりに大きな家だったの。一番大きいってわけじゃないでしょうけど、お父様の会社は大きかったしお母さまはバイオリニストだったの。


 たまに喧嘩とかしてたけど、基本的には順風満帆の生活をしていたと思うわ。少なくとも恵まれていた。


 でもね。ある日、会社が倒産した。お父様は呆然としていらしたわ。お父様は何も知らなかったみたい。倒産するとは考えていなかったって。本当かどうかはお父様しか知らないけれど、たぶん誰かに騙されたんでしょうね。


 それで、まあまあ大きなお家は取り壊しとなったってわけ。


 わたくしは家を取り返したい。別れてしまった家族と一緒にいられるような大きな家が欲しい。だから、そのためにこの学校に入学したの。お嬢様学校のここなら、お金持ちと縁ができるでしょう? それになにより箔がつくから。



 まくしたてるように言い終えた竜夏が息をつく。


「これがわたくしの過去よ」


「家を取り戻したい――」


「そうよ。そのためならなんだってするわ」


 はなを目を見開き、背筋を伸ばしてまっすぐ立つ竜夏を見る。


 それってつまり。


「はなちゃんとわたくしは似ている、というのはそういうことなのよ」


 最初耳にしたときは意味が分からなかったが、竜夏の身の上話を聞いた後なら理解できる。


 境遇が似ている。


 二人とも、大切な場所を失っているのだ。


 はなは現在進行形で大切な場所を失い、竜夏は過去に大切な場所を失っている。


「だから――」


「だからなんだっていうんですか!」


 声が、はなの口から飛び出していた。


 はなの中では激情が渦を巻いていた。ぐらぐらと熱せられた感情が、言葉に乗って飛んでいく。


 竜夏が目をそらす。確かにね、という呟き声が、部屋の中を彷徨った。


「竜夏さんとわたしは違います……。境遇がただ、似てるってだけじゃないですか。わたしとは立場も違うし、性格だって」


「じゃあ、聞かせてよ」


「なにを」


「はなちゃんの立場よ。今どんな立場に立っているのか教えて」


「……知ってるくせに」


 竜夏が笑う。彼女は、人付き合いがいい。人付き合いがいいから、彼女の下には自然と情報が集まってくる。それを利用して、竜夏は第三位の派閥において諜報員のようなことをやっている。彼女の腕は、ほとんどの生徒が、彼女が派閥に所属しているのを知らない、というところからも察せられる。


 怒りを込めた目線を竜夏へと向ける。それでも竜夏は笑みを崩しはしない。だが、その笑みはどこか悲しみをたたえているように弱々しい。


「……わたしは今、第二位の派閥と手を組んでます。少なくとも、契約上では」


「実際にはそうではない?」


「少なくとも、相手はそう思ってないんじゃないですか? 一緒に戦ってますけど、誰かと一緒に戦ったことないですし」


「え、ほら、はなちゃんには同じ派閥だった――」


「あの人は、わたしとは関係なく動いています」


「あくまで部下ではなく、協力関係でもないと」


「……力になってくれたらどんなによかったか」


 そこまで言ったところで、何でもないです、とはなは慌てて付け加えた。諦めがついたはずなのに、妙に恥ずかしくて顔が熱くなった。


「ふうん。つまり、一生徒として協力しているってことね。それはいいことを聞いた。それでほかには?」


「……わたしは役に立っていない。だから、裏切られるかもしれません」


「捨てられるってことね。常識が通用しないあいつらならやりかねないか」


「こんなことになるなんて。戦いたかったわけじゃないのに」


 鋭い視線がやってくるのをはなは感じた。疑念と怒気が込められたそれが、はなを突き刺していく。責め立てるような無言が、ただただ苦しい。目を伏せたはなは拳をぎゅっと握る。


「思い知らされたんです。争いごととか、わたしには向いていないって。でも、三人でやってたときは楽しかったんです。風紀委員のみなさんをバカにしたり、敵対している派閥で集結して教師と争ってみたり」


「…………」


「楽しかったんです。でも――今はちっとも楽しくなんかない」


「それで」


 その声にはやはり怒りがあった。だが、先ほどよりは押さえられていた。


「はなちゃんはどうしたいの」


「わたしは、この場所を守りたかったんです。思い出の詰まったこのアジトと、手にしたシマを。でも、無理でした」


「うん、そうね」


「だから、今はこのアジトだけでも守りたい」


「それが今の目的」


 はい……、とはなは消え入りそうな声で答える。後悔ばかりが頭の中をよぎった。他の人なら、もっと上手くやれたのではないか。そう思うと、胸は茨に締め付けられたように痛んだ。


 目の前にいる、完璧が形をなした少女ならあるいは。


 竜夏は腕を組んで考え込んでいた。


「それなら、手がないわけじゃない」


「え……?」


「このアジトだけなら、なんとかなるかもしれないわ。ここにはうま味がないもの。シマはあるけど、風紀委員の根城に近いから。第一位としてはシマが手に入ればいいし、第二位は同じでしょうけど苦戦してるって聞いてるから、抗争自体をお開きにしたいはずよ。それに、わたくしたちもね」


「第三位が?」


「ええ。わたくしたちは抗争を止めるために動いている。それがリーダーの目的。誰も傷ついてほしくはないってね。あの人いつも言ってるでしょ」


 電話がかかってきたときのことが、はなの脳裏で再生される。


 みんなに傷ついてほしくない。もちろん、君にも。


 その言葉が、強く印象に残っていた。そのときのはなは、大切な場所を守ろうと必死だったのだ。よけいなお世話だと思った。当事者じゃないから、そんなことが言えるんだ、と。


「その顔、何を言っているのかわからなかったのね。わたくしもだわ」


「竜夏さんも?」


「ええ。戦うことって誰かを傷つけることじゃない。派閥争いなんて、誰かを傷つけてなんぼ。それなのに、守りたいなんて本当にどうかしているわ」


 ――ま、わたくしたちはそういうところに惹かれているのだけれどね。


「そうだ。あの人の過去知ってる?」


「過去?」


「わたくしのリーダーは、去年、保健委員になろうとしたそうよ? でも、定員オーバーで諦めたってさ。それで、派閥を立ち上げたの。ちょっとおかしいわよね」


「……わたしと一緒だ」


「なんのこと?」


「な、なんでもないです。あの人には申し訳ないことをしたなって」


「本当よ。何度も説得しようとしていたのに。そのせいで、わたくしがやってくることになったのよ。あなたのせいでみんな迷惑してるっていうのに」


「ごめんなさい」


「本当、最悪よ。でも、過ぎたことだからしょうがないわ。それに、はなちゃんが真剣だったというのはよくわかったから」


 そこで、一端言葉が止む。


 はなは竜夏が見てきているのを感じた。責めるような刺す視線は、すでになくなっていた。


 竜夏が、組んでいた両腕を解く。


「はなちゃんのやりたいことはわかった。それなら、わたくしたちが仲介に入るわ」


「仲介……」


「正直なところ、どっちの派閥もこれ以上戦うことは望んではいない。何かきっかけがあれば、そこで抗争は終わる」


「そのきっかけがわたし」


「そう。なんてったって、抗争を生み出した張本人ですもの。もしくは、はなちゃんの先輩ね。彼女がどちらの陣営につくかでパワーバランスが大きく変わるから」


「あの人が……」


「今はやりたいことが見つからないみたいで、あっちへふらふらこっちへふらふらしているけれど、戦闘能力は折り紙付きよ。何考えてるか分からないって意味でも」


「そっか。あの人も迷ってるんだ」


 愛すべきリーダーを失った自分のように、先輩もどうすればいいのかわかっていない。そのことが嬉しくもあり、それを塗りつぶすほどの悲しみが湧き上がる。


「たぶんね。まあ、あいつのことはいいの。今はとにかくあなたよ。はなちゃんはどうしたい? わたくしとしては提案に乗ってほしいところだけれど、無理強いはしないわ。言って聞くような人ならこんなことはしてないもの。どうせ意地っ張りでしょ」


「そう……なのかな」


「わたくしと一緒なら、ね」


 そうだ、と竜夏が口にする。


「わたくしとお友達にならないかしら」


「友達……?」


「ええ。フレンドよ」


「そんなことはわかってますけどっ」


 自分でも理解できない感情が、言葉を伴って飛び出していく。噴火のような感情の爆発とともに、視界が滲む。声が震えた。


 貴女、という遠慮がちな声が遠くに聞こえる。


 目から零れ落ちた雫が頬を伝い、床で弾けて消えた。


「どうしてそこまでするんですか……」


「どうしてでしょうね。自分でもよくわからないの。でもね、はなちゃんはわたくしに似ていて、あの時のわたくしってば、相当無茶していたの」


 これは誰にも言ったことはないから、誰にも言わないでほしいんだけど。と、竜夏が声のトーンを下げた。


「あの時のわたくしは完璧って口にすることで、自我を保っていた。正直、そうしないと、わたくしの心はぽっきりいってたでしょうね」


「竜夏さんの心は折れそうにはないですけど」


「そんなことはないわ。現に最近になってぽっきりいっちゃった。だから、無理してほしくはないの。はなちゃんがわたくしと一緒なら、たぶん、わたくしと同じようなことになる」


「だから、友達に?」


「そういうこと。少し先を行くものからのアドバイスってところよ。あの時、誰かがそばにいてくれさえすればずっと楽だった。――心が折れたからこそ、わかったことなの」


「…………」


「はなちゃんの大切な場所の代わりにはなれないわ。というか、なれるわけがない。代わりにならないから大切なんだもの。それを取り戻したい気持ちはよくわかる。止めはしないし、止められもしない」


 でもね、と竜夏が発する言葉に力がこもる。


「頼りにできる場所を用意することくらいはできる。誰かがいるっていうのがいいと思うから」


「誰かが」


「それがわたくし。わたくしでは……完璧には程遠いけれどもね」


 竜夏の言葉は、不安に揺れていた。その目が、きょろきょろと所在なさげに動いているのを、はなははじめて見た。


 竜夏の優しさが、ささくれだっていた心を撫でていく。


 竜夏は自分のことを、本気で心配してくれている。


 それはあの時、あの夏の日にリーダーと出会った時に感じたものに似ているようで非なるもの。


 凍てついた心がじんわりとあったかくなる。


 はなへと手が差し出される。視界は一層滲んでいたが、その手をしっかりと握る。


 リーダーの派閥に参加したときの記憶が視界に重なる。あの時も今と同じように握手をした。その時とは違って、握りしめた手は柔らかい。


 堰を切ったように、はなの口から嗚咽が漏れる。竜夏は何も言わずに、手を繋いだままそばに立っていた。



「取り乱してすみません」


「いいのよ。泣きたい気持ちは重々わかるし」


 竜夏とはなは、ソファに腰を下ろしていた。はなの目は赤くはれていたが、涙は止まっている。


 二人の距離は近い。


 沈黙の中で、竜夏がふうと息をつく。


「ちょっとやりたいことがあるんだけどいい?」


「いいですけど」


「じゃあ失礼して」


 竜夏がはなの方を向く。


 細い腕が上がり、鞭のようにしなる。


 乾いた音が部屋に響く。何が起きたのか、その瞬間には理解できなかった。


 はなは自らの頬に手を当てる。焼けるように熱くなっていた。熱とともに痺れるような痛みが広がっていく。


 ぶたれた――。


 竜夏が手を下ろす。はなの頬と同じように、竜夏の手のひらも赤くなっていた。


「一度殴らないと気がすまなかったの」


「――――」


「これで許すわ。みんなに迷惑かけたこととか、ボスの助けを受け取らなかったこととかまるっと全部」


 いきなりぶったりしてごめんなさいね、と竜夏が頭を下げた。


 呆然としていたはなだったが、時間をかけて、事態を飲み込んだ。


 平手打ち一発で手打ちにしてもらえたのは、はなが行ったことに対する復讐としては随分かわいいものであった。


 だが、そんなことはどうでもいい。そうやって、ビンタだけで済ませる竜夏の竹を割ったような性格が、今のはなには心地よかった。


 はなはクスリと笑う。


「どうして笑うのよ」


「竜夏さんらしいなあって」


「わたくしらしいって何よ。もしかして、ぶん殴る凶暴女だと思われてるの」


「ち、違います。なんていうか、そういうすぱってしたところが竜夏さんらしいっていうか。自分が思ったままに行動するのが自信があっていいなあって」


「はなちゃんが自信なさすぎるのよ」


「だって、わたしは全然ダメで……」


「ダメだって思うからダメなのよ。常に完璧だって思うの」


「竜夏さんみたいに?」


「わたくしのように。完璧完璧って口にすると、案外、完璧だって気がしてくるの」


「完璧……」


「そうそう。でももっと大きな声で言わないと辛気臭くなっちゃうわ。ほら、さんはいっ」


「か、完璧です!」


「すごいじゃない。完璧よ! さあもう一度!」


 完璧という言葉が、何度も繰り返される。 だんだん元気になっていく声が、壊れて開け放たれた扉の向こうへ飛んでいった。


 

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