俺の体の半分は、旧文明の遺産でできている。
早送り
第0話 悪くない死
1
細い風が吹いた。
その風は草を揺らし、ベンチで眠る彼の頬をくすぐる。
彼の瞼がピクリと揺れた。
もう少し寝かせてくれ。誰に頼むでもなく、膝を抱えて丸まって、夢の中へ戻ろうとする。しかしそれよりも早く再び風が吹く。今度はより強く長い。
草が傾き擦れて、サーと耳心地良い音を奏でた。その音は彼が意識を取り戻すまで止むことはない。
仕方なしと体を起こした。顎の限界まで欠伸をしながら両腕を伸ばし、バキバキに固まった体をほぐす。
えーっとここは……。
眼前には一面の草原が広がっていた。はるか遠くにビルらしき影が見えるが、蜃気楼のように揺れている。
草原の中央にベンチが一つ。ここにある物はそれだけだ。
空を見れば入道雲を見つけられる。空は青く、太陽は眩しい。悪天候の心配など過りもしないすっきりとした陽気だった。
ベンチに腰掛けながら、目を細めて太陽を見上げる。
どうして起きてしまったのだろう。本来であれば起きるはずがない。システムが故障したのだろうか。
彼はぼんやりと考える。疑問を抱くがまともな思考はしない。時間も気にせず空を見上げるだけだった。
答えはすぐに向こうからやってきた。
眼前が白く瞬く。それはありえない光景だった。驚愕から彼の目が見開かれる。
ぽかりと穴を空けたように滞留する白い光。それは徐々に人の形を成し、輝きが失われていく。
そうか。外部からのアクセスがあったから起こされたのか。
光が消え、残ったのは子供だった。年齢は五歳か、六歳くらいだろう。彼に背を向けながら、僅かに茶色が混じった黒髪を揺らしている。
わけがわからないという風に周囲を見回していた。それも仕方がないことだろう。気が付けばここにいたという認識に違いない。
声をかけようか。彼は前屈みになったところで止まる。何を話せばいい? 話題が見つからず、口元がわなわなと動いた。
こんにちは? いい天気ですね? どこから来たの? 迷子になったの? どれも会話の展開を考えると的確ではない気がする。
そうやって悩んでいると、子供が振り向いた。深い緑色の瞳を覗かせる。表情は子供らしくまんまるで可愛い。
彼は堪えきれずに笑みを零してしまった。
視界が霞む。どうやら涙も堪えられなかったらしい。恥ずかしい姿は見せられないと目元を指で拭っても、次々と涙と感情が溢れてくる。
子供はさっきまで、この場所に困惑していたはずだ。それが今では彼の心配をして顔を覗き込んでくる。
「■■■■■。■■■?」
子供はなにかを伝えようと口を開くが、彼にはその言語が理解できない。
ああそうか。当然そうなるか。
彼は心の中で唱える。自動翻訳機能を起動。するとこの世界のシステムが頭の中で喋りだす。
『自動翻訳を開始します。少々お待ち下さい。――未知の言語を検出。エッセンスを採取します。少々お待ち下さい』
ああ、頼む。
こうしている間も、子供は一方的に話していた。
どうやら子供らしく賑やかな性格らしい。現状、彼が無視をしている状態だが、子供は構わずに口を動かし続けている。
彼は言葉を返さずに、じっと子供に目をやった。表情の移り変わりが面白かったからだ。
彼の心配をしていたであろう子供は、無視され続けたために困惑へと変わり、もうそろそろ怒りへと昇華しそうだ。
無視されたから怒るか。言葉はわからないが、感情の移り変わりと思考は理解できそうなところが何とも可笑しい。
この子は正真正銘の人間で、決して作り物なんかじゃない。なぜなら感情を理解できる。彼も無視され続けたら腹が立つからだ。
あー駄目だ。堪えきれない。大変なのはわかるが、翻訳機能よ早くしてくれ。
そう願いながら彼は吹き出してしまった。怒る子供の顔がなんとも可愛らしいのだ。口元を抑えて一人で笑う。
子供は驚いてしまったようで言葉を失っていた。目と口を丸くして立ち尽くしている。その姿もまた、彼の心をくすぐる。
『エッセンスの採取に成功。自動翻訳を開始します』
待ちに待った時が来た。これでやっと会話ができる。さて、どこから始めようか。
こんにちは? いい天気ですね? どこから来たの? 迷子になったの? それとも笑ってごめん、だろうか。
彼は深呼吸をする。冷たい空気をできる限り多く、体内に取り込む。そしてそれをゆっくりと吐き出した。これを三回繰り返す。よし、これでだいぶ落ち着いた。
彼はベンチに座っていて、子供は草の上に立っている。この状態でもまだ目線が高いのは彼だ。両足に肘を置き、前屈みになり目線を落とす。
「自己紹介をしてもいいかな?」
子供は放心状態だった。もしかして言葉が通じていないのかな? 翻訳機能が壊れたのかと危惧したが、そんなことはないようだ。
「なんで笑ったんだよ」
交わした言葉は一言だが、会話はちゃんとできているようだ。さっきまでとは違い、言葉の意味が頭に入ってくる。翻訳機能様々だ。頭が上がらない。
とりあえず謝ろう。バカにされたと受け取られたかもしれない。
「不快だったならごめんね。まさかここに人が来ると思わなくて、驚いちゃったんだよ」
「別にいいけど」
「そっか」
許してくれた。言葉の上ではそうだが、子供の目は得体の知れない物を見るように懐疑的だ。これはもう仕方がない。奇行を見せてしまった自分が悪い。
人の顔を見て笑うという失礼極まりない行為はもう消せない。執拗に謝り続けても逆効果だ。なかったものとして考えるのが一番健全だろう。
「じゃあ自己紹介をしてもいいかな?」
話を変えてもいいですか? と微笑みかける。
「そんなに名前を言いたいの?」
「もしかして興味ない?」
「あんまり」
「私の名前ってそんなに価値ない?」
けど、それくらい構わないか。名前に興味がないと本心から言われ、僅かだが傷ついたのは本当だ。
しかし、どんな内容でも、誰かとこうして言葉を交わすのが楽しい。楽しくて仕方がない。生きていてよかったと、心の底からそう思うほどだ。
こちらの名前に興味がないなら仕方がない。
「じゃあ君の名前を教えてくれるかな」
彼は更に目線を落とし、上目遣いで子供を観察する。
しかし子供は口を開かない。初対面ゆえに警戒しているのだろう。口を横に結んでいる。
彼からしたらその姿も微笑ましいものでしかない。しばらく見ていても飽きそうになかった。
対する子供からしたら窮屈だったのだろう。話をせず、遊びもせず、ただ知らない男と目を合わせるだけの状況に耐えられなかった。
「やっぱり、あんたの名前教えてよ」
風の音以外は聞こえないここで、微かに聞き取れるくらいの小さな声だった。子供の気まぐれに破顔する。
「私の名前はスイ。ずっとここにいる、変わり者? なのかな? よければ、君の名前も教えてくれないかな」
自己紹介としては酷いものだったと思う。長い間、誰とも会話をしていなかったせいか、やり方を忘れてしまっていた。
でも子供は気にしていない様子だ。ならばいい、と彼――スイは安堵し子供を待つ。
「俺はレン」
数秒にも満たない簡単な自己紹介は、スイにとって黄金よりも価値があった。
「レン君か。よろしくな、レン君」
スイは無造作に手を伸ばし、レンの頭をワシャワシャと撫で回す。
「おい、ちょっとやめろよ」
そう言われてもスイは止めなかった。感情のまま頭を撫で続ける。
スイの手が止まった頃には、レンの頭は鳥の巣のようになった。レンは不満で顔を歪めていた。
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