灰色の孤島の上で#2

優華

第2話

5.

 美しい人の内面は、同じように美しいのだろうか。

微かに心地良い香りをまとった彼女を思い浮かべながら、僕はベッドの中で微睡んでいた。

一緒に居ると、とてつもない高揚感があるけれど、同時に自身の薄っぺらな内面を見透かされていやしないかと、ひやひやする時がある。

これは、どんな感情なのか、僕にはわからない。

 会いたい、けれど、この内面があらわになるのが怖い。

そんなせめぎあいの中、僕はあのカフェにあれから一度も足を運べていない有様だった。

 微睡みの中の、うすぼんやりとした、この世のシステムに対する絶望感。

僕は起き上がる気力もないまま、ただ天井を見上げながら、呟いた。

「つまらないなぁ…。」

こんな事、散々思ってきたけれど、彼女に出会ってからは、その感覚が増していた。

会っていない時間がとても苦痛で、胸をかきむしるようなこの感情は、何だろう。

恋、なんて言葉で簡単に片付くようであれば、とうの昔に気付けているはずだけれど、一向にこの感情の正体に気付けない。

僕は一体、どうしてしまったのだろう。

情けない気分のまま、重い体を起こして、コーヒーを流し込む。

少しだけ頭が目覚めた。

そして、絶望はその輪郭をくっきりとさせる。

 もう、会えない。

物理的にではなく、心理的にである。

こうして、僕の人生は諦めの路の上に出来上がってゆくのだろう。

深いため息をつき、いつもの灰色の日常に溶け込むように沈んでゆく。

気怠い消耗の日々の始まりだ…。


6.

 時折訪れるホテルのラウンジで、お気に入りの苺タルトを頼んでダージリンティーの香りを嗅いでいるこの時間は、幾分か気分がましなのだけれど、ここ最近ではそうでもなくなった事に気付いていた。

 原因には思い当たる節があるけれど、あの男が例のカフェに顔を出さなくなったからと言って、残念に思うのも癪なもので、私はいくつかのお気に入りの店の中のひとつで新たなおもちゃを探そうとしていた。

けれど、私が知りたいのは、見たいのは、何処か見知ったようなここに居るすまし顔の男達ではなくて、雨の日に捨てられて濡れた哀れな犬のようなあの男の見せる影だった。

 私はタルトと紅茶で軽くランチを済ませると、会計を済ませ、ケリーを片手に出口へと向かった。

すると、つまらない餌が引っかかってきた。

「済みません、少し、お話しませんか。」

私はそれを丸無視すると、さっと外に出た。

後ろからは、軽く舌打ちが聞こえたけれど、そんな事はどうだっていい。

乾いた喉を潤すように、私はあのカフェへ向かっていた。

 別に、あの男に会いに行くのではない。

ただ、あのこだわり抜かれたエスプレッソの風味を堪能しに行くのだ。

ただ、それだけ。

 カランカラン、と、少し古い鐘の音を鳴らして店内に入った私にマスターは声を掛けた。

「最近、ご無沙汰でしたね。お忙しかったのですか?」

それに答えた私の言葉の、白々しい事。

「ええ、そんなところかしら。」

 何か見透かされているようで調子が狂う。

「エスプレッソを下さる?」

そう言って上着をマスターに渡す。

一般の街並みの中にあるカフェにしては過剰なサービスを、ここでは一人一人に丁寧に行っている。

これは、元々コーヒー通が高じてカフェを始めた、元ホテルマンのこだわりなのかもしれない。

そのホスピタリティから、このカフェの徹底した居心地の良い雰囲気づくりはなされているのだろう。

だからだろうか、私の白々しい言葉を聞いてからは、無駄口をたたかずエスプレッソに真摯に向かっているマスターに、私は少しだけ尊敬の念を感じた。

 昔から人に何かを感じたことは、単に面白いかそうでないか、それ以外にほぼなかったのだけれど、この人は何かが違う、と感じていた。


7.

 前に思った事がある。

これまで、コーヒーなんて割安で眠気を覚ませる黒い水くらいにしか思っていなかった、どちらかというと好んで飲んでこなかった自分が、あの店のエスプレッソだけは素直に体に沁み込むと感じた。

冷えた体と心を内からじんわり温めてくれるような、そんな、不思議な飲み物だった。

そして、気付けば足がひとりでにあのカフェへと向かっていた。

 もう、彼女に丸裸にされて嘲笑されようが、構わない。

僕は、「渇いて」いた。

 カランカラン、と、古めかしい鐘を鳴らして店内に入った僕の鼻をついたのは、渇きを潤すエスプレッソの香りだった。

「いらっしゃい、お客さん。待ってましたよ。」

何故かそう言って、僕如きの上着をハンガーに丁寧に掛けるマスター。

そして案内された奥の席の側には、あの彼女が伏し目がちに長いまつげで目の下に影を落としながら香りを楽しんでいる姿があった。

「…あ…、お久しぶりです。」

そう言うと、彼女は、ハッと顔を上げたように見えた。

「…あら、お久しぶり…。」

そうして、無言の空間が形作られた。

僕はこんな空間をあのマスターが作る意図が分からなかったが、一口、エスプレッソに口をつけた。

じんわりと、僕の内面の渇きと冷えを癒してゆく不思議な液体は、その空間の雰囲気を変えた。

少なくとも、僕にはそう感じた。

「…うまい…。」

思わず口に出し、我に返って恥ずかしくなる僕。

目を丸くしてこちらを見る彼女に、僕は照れ臭くなって下向きに目をそらす。

「…ふふっ。」

 驚いた事に、彼女は微笑みを浮かべてこちらを見ていた。

先ほどまでの気まずい雰囲気が嘘だったかのように。

「いくら美味しくたって、思わず口に出るものなんですね。」

彼女のその言葉に顔を赤くした僕に、マスターが近づいてきて一言声を掛けた。

「伊達にやっていませんからね。」

にこやかに笑い皺をつくりながら微笑むマスターに、僕は居場所を再び貰ったような気がして、肩の力が一気に抜けたのだった。


8.

 あの男が現れた。

唐突に、でも、相変わらず無害なその雰囲気に、私は思わずほころぶ心を感じた。

「…うまい…。」

彼がそう思わず口に出したところで、私の好奇心は堰を切って溢れ出して、思わず口を開いてしまった。

「いくら美味しくたって、思わず口に出るものなんですね。」

好奇心がそのまま口から出た事に、私自身が驚きながらも、何故か笑ってしまった。

 なぜ私がこの場所とこの男が気になってしまうのか。

 マスタ―の力と、この男の妙な情けなさが、不思議に私の心を溶かしてゆくのだ。

頑なでつんと形を整えて固くなってしまったこの心の琴線に触れ、良い意味で調子を狂わされてガードを解かれてしまうのだ。

 私は再び、こう言って店を後にした。

「また、お会いしましょうね。」

敢えて連絡先を交換したり、そんな無粋な事はしない。

そのくらいの距離感、塩梅がちょうど心地良いのだから。

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