『おしいれ』から始まる俺の異世界物語

夏川そら丸

第1話 Game→Real→ Different world

 沸き立つ歓声。上昇し続ける熱気。

 俺はそれを綺麗に装飾された鉄板越しに感じ取っていた。

 不思議な感覚だ。のに、肌に感じるすべてはまさしく本物なのだから。


『──第4回、【World Tower Frontierワールド タワー フロンティア 最強決定戦『Duel Towerデュエル タワー』】決勝ッ! 最初の入場はコイツだァァァァ!』


 実況の男性アナウンサーの声が響き渡ると同時に、目の前の鉄板がゆっくりと開き、奥から眩しい光が注ぎ込まれる。一瞬目を閉じてから前を見ると、誇張抜きで東京ドーム2個分ぐらいの広さの室内スタジアムが広がっていて、その観客席は全部埋め尽くされていた。俺が聞いた話だと、約10万人は入れるらしい。ということは、東京ドーム2個分という表現もあながち間違いではないのかもしれない。

 俺は口角を引き上げ、天井に吊るされた無数のライトと約10万もの人の視線を浴びながら、足を進める。向かう先はスタジアムの中心──地上より高い位置にある1辺200mはあるネオン調にデザインされた正方形の場所だ。


『第2回大会以降 連続優勝! 連勝記録更新できるか⁉ Lv.253 『ナイト』クラス 無型の剣士【Rictoリクト】~~~~~~~~ッ!』


 男性アナウンサーが吠えると、観客の歓声が膨れ上がった。俺への声援もあったが、俺を批判、罵倒する声も同時に聞こえた。

 正直に言おう。そのすべて、大変気持ちがいい。

 形はどうあれ、俺を見ている。ここにいる約10万の観客が俺に視線を奪われているんだ。連続優勝更新のプレッシャーなんてない。俺はこの感覚に浸れることが今一番の高揚なのだ。

 興奮で浅くなる呼吸に多少の苦しさを感じながら、階段を上ってその場にたどり着く。

 徐々に声援が落ちついてくると、再び男性アナウンサーは口を開く。


『さぁ、対するプレイヤーは、前大会に引き続きコイツダァァッ!』


 俺が登場した向かいの壁に両サイドから白いスモークがたかれ、そこから黒髪ポニーテールの女性が歩いてくる。

 赤いパーカーを羽織り、体に張りつくような黒のショートパンツとスポブラのようなものを身に着け、右太ももにはガンフォルダがあり、ハンドガンが収納されている。

 

『こちらも第2回大会以降 連続準優勝! 今年こそ、彼から王座の座を奪えるか⁉ Lv.266 『ガンナー』クラス 闇夜の暗殺者【SeaLerシーラー】~~~~~~~~ッ!』

 再び大きな歓声が上がる。だが、俺ほどではない。実際に測ったわけではないが、そうに違いない。

 俺は数分後の試合にむけ、飛び跳ねたり肩を回したりすると、相手の青紫色の瞳から鋭いものを向けられる。


「そんなカリカリすんなや、そんなんやとりきんでもうてアカンなるで?」

 俺が呼びかけると、彼女はため息をついて俺と同じ話し方で口を開く。

「……あんたは吞気すぎなんよ。もう少し緊張感もったらどうなん?」

「だって、相手お前やろ? このゲーム内でやったら負ける気がせぇへんもん」

「はぁ? あんた、ええ加減に──」


 彼女の口を遮るように、会場のスクリーンに5……4…… と大きくカウントダウンが映しだされた。

 もちろん、開幕の合図である。


「さてと、ほんならやろか」

 俺は右手で画面にメニュー画面を展開し、一瞬にして自分の利き手である左手に最上位ティア5の剣【レオニードライト】を顕現させる。

 

 俺は腰を低く構えると、彼女もいつの間にか二丁のサブマシンガン【MGC05】を持っていた。


 残り2秒。その2秒がやけに長い。

 会場も息をのんで、静まりかえる。

 やめてほしい。俺の鼓動が聞こえてしまう。額を滴る汗が気持ち悪い。そんなもの、このゲームせかいの中であるはずがないのに。


【2……1……Go!】


 俺とSeaLerは合図とともに、地面を蹴る。

 この試合は相手のHPを削りきれば勝利。いたって単純なルールだ。

 俺の使用武器は片手剣。対して相手は見ての通り銃だ。近接と遠距離、相手に距離をとられて攻撃されつづければ、俺の負け。

 だが、距離を離されなければ問題はない。間合いをとらせないように詰めればいい。

 近すぎると弾が避けられないんじゃないかって? 知ったことじゃない。銃弾を避けることぐらいもう慣れている。こと相手であるなら、なおさらだ。


 俺は剣を駆使して弾丸を回避し、彼女との距離を詰めて剣を振りかざすが、相手も無駄な動きをせずギリギリで避けてくる。

 


『うおおおぉぉお! 何たる攻防! 両者動きが速すぎて、目で追えません!』

『二人とも、前回大会よりも実力をあげているようにも見えますね』

『彼らはまだあがり続けるのか? 彼らの実力の底は、あるのでしょうか⁉』


 ふと実況の声が耳に届く。

 瞬間、俺の顔面に銃口が向く。慌てて顔を射線から逸らすが、完全には避けきれず、弾丸が頬をかすった。

 体勢が崩れ、立て直そうとしたところをSeaLerに横蹴りで後ろに蹴り飛ばされる。

 地面を滑り、停止して彼女の方を向くと鋭い視線を向けていた。


「あんた、今、抜いたやろ? そんなんで負けても知らんで」

「……お前も、俺に攻撃入って気が抜けたんとちゃうか?」


 そう告げると、彼女の頬に一線の切り傷が浮かびあがった。



「さぁ、まだまだこれからやで! 全力で楽しもうや!」


 俺の叫び声を合図に、俺たちは再び地面を強く踏みしめた。



  ◇◇◇


 

 ──20XX年。ある投資家が脳神経学の研究に莫大な投資をしたことをきっかけに、世界は激変した。

 従来までは治療不可能であった脳疾患の治療法が確立し、脳と脊髄間で起こる微弱な電気信号を活用した製品が次々と現れだした。

 その一つである、電気信号を仮想空間のアバターとリンクさせる【ニューラリンクシステム】を駆使し、仮想空間をコントローラ無しで動くことができるデバイス【ミラージア】は、仮想と現実の壁をなくす大きな一歩となった。

 【ミラージア】はあらゆる分野で使用されるようになり、数か月後には【ミラージア】対応のVRMMORPG【World Tower Frontier】が世界同時発売された。

 ゲームリリース後、数日で世界ユーザ数5000万人を獲得し、当時では最も注目度が高いゲームとなった。

 中でも注目度が高いと言われているのは、【World Tower Frontier(通称WTF)】内で年一で行われる世界最強プレイヤー決定戦【Duel Tower】である。第一回大会での公式ストリーミングの最大同時接続数は、200万人。有名ストリーマほか、著名人も多く参加しているため、それ目当てで閲覧する人が多くいたと言われている。


 その第4回の大会を終えた現在。

 日本の高校というものは、従来とほとんど変わりはなく、皆一つの校舎に通い、教室でともに過ごしていた。

 皆自分たちの席に着き、黒板に書かれた現代文の解説をノートに書き写す中、チャイムが校内に響く。


「あ、もう終わりか。じゃあ最後の挨拶はいいから各自で終わってください。黒板消しの方、あとよろしく」


 そう言い放った先生は、教室を颯爽と退出し、同時に生徒たちの話し声が大きくなった。

 そんな教室の窓側最後尾に座っていた首からお守りをぶら下げている俺は、頬杖をついて外を眺める。

 今の俺は【Rictoリクト】ではなく、ただの高校2年生【剣城陸翔つるぎりくと】だ。関西の方で育ち、高校で上京を決めてこの高校に通っている。

 そうやって呑気にしていると、突然大きな声で名前を呼ばれる。


陸翔りくとっ! 優勝おめでとう! 昨日の【Duel Tower】見たぜ! すげぇなお前!」

 肩を強く叩かれ、振り返るとセンター分けで顔のほりが深い男が朗らかな表情を浮かべていた。そこで俺は、すました表情でクールなセリフを言えばかっこいいのかもしれないが、そんなことできるはずがなかった。

「せやろ⁉ まぁ、俺クラスになると、あれぐらいは正味余裕やわ!」


 俺にはこんな謙虚さの欠片もないセリフしか出てこなかった。それを聞いた周辺のクラスメイトが俺の周りに群がりだす。


「相手の【SeaLerシーラー】さん、やっぱり強かった?」

「おん、そりゃあな。けど、まぁ俺には届きませんて!」

「てか、お前最後の方の動きどうやってたんだよ。人間業にんげんわざではなかったぞ!」

「え? 最後の? どれのことやわからへんけど、基本全部感覚!」

Rictoリクト選手、Rictoリクト選手! 今のお気持ちは!」

「んー、サイコウッ!」

 低めの声でそう唸ると、周りの人たちが一斉に笑いだす。

 そこで、最初に話しかけてきた男が再び話しかけてくる。


「陸翔! 今日は特別に優勝祝いでなんか購買で買ってきてやるよ!」

「え? マジで? ホンマにええの?」

「いいんだよ! ほら、何がほしい?」

「えっとほんなら、あの渋谷あたりにある……」

、変えるやつな?」

「わかっとるってぇ……でも、正味なんでもええよ。貰えるだけ超嬉しいし」

「え、それでいいの?」

「ええよええよ! もらって文句ゆうたらバチ当たるわ」

「わかった。じゃあ待ってろよ!」


 といって、男が廊下に出るとき

「うわっ‼」

「……っ‼」

 その場を歩いていた女子にぶつかり、お互いが転倒していた。


「おいおい大丈夫かいな……あ」


 椅子から声をかけ、視線を男からもう一人の女子に移したぐらいのタイミングで、周りの空気が変わった。


「痛ってぇ~」

 頭を抑える男に、手が差し伸べられる。

「……大丈夫?」

 手を差し伸べてきたのは、男にぶつかられた女性。ハーフアップにした黒髪に柔らかな青紫色の瞳をし、左目尻に小さなほくろがある。膝上のスカートから伸びる綺麗な太もももそうだが、胸といい姿勢といい、まさに「容姿端麗」と「清楚」を体現したような風貌だ。


「えっ、えっと。だ、大丈夫です……」

 男の声が徐々に小さくなる。

「そっか、怪我がないならよかった」

 女性は男の手を掴み、「よいしょ」といって体を起きあがらせる。

「お互い気をつけようね。それじゃ」

「は、はぃ……」


 女性は静かにその場から立ちさった。


「やっぱり藍沢あいざわさん、可愛いよなぁ……」

 周りの男がそう呟く。

「そりゃあ、うちの学年じゃあ一番可愛いよな」

「しかも成績学年一位だし、今年は文化祭の実行委員とかもしてるんだろ? すごいよなぁ」

「はぁ、彼氏とかいるのかなぁ……」


 そんなことをぼそぼそ言いながら、彼女の立ち去る後ろ姿を彼らは眺めていた。すると、藍沢はこちら側を向いて微笑みを浮かべた。


「え。今の俺に向かって笑った? そうだよな?」

「いや、絶対に俺だよ!」

「バカ言え! 絶対に俺だ!」

 醜い言い争いが始まった。俺はこの話になると、とりあえず黙り込むようにしている。そこで、俺の携帯の通知音がなる。

 ズボンのポケットから携帯を取り出して画面を一目し、鼻で小さく嘆息をついた。


「……はいはい、わかりましたよぉ~」



 ◇◇◇



 放課後。

 夏が終わり、日没の時間が早くなったせいか西の空は茜色に染まっていた。

 校内では、野球部やサッカー部の掛け声、吹奏楽の演奏が鳴り響く。

 中学の頃は耳障りだと感じていたその音は、今はもう何も思わない。むしろ、そんなことを思っていたなと懐かしく思うぐらいだった。

 俺は学校から少し離れた路地の中で、携帯を触りながら近くの塀に背中をつけて立っていた。

 しばらくすると、学校方面の道からてくてくと足音が近づいてくる。その音に気づき俺が顔をあげると、黒髪ハーフアップの女性──藍沢がそこにいて、俺に話しかけてくる。


「お待たせ。だいぶ待たせたやんな?」

 彼女が放った言葉は、学校のときとは異なり俺と同じ方言を使っていた。

「まぁ、半日ぐらいは待ったかもな」

「アホ。一時間や」

 俺は肩口を思い切りひっぱたかれる。


「痛っ! お前、それでも長いやろ」

「ごめんって言うたやん。それでええやろ?」

「言うてへんわ! 人待たせてんねやから、謝罪の一言ぐらい……イタイイタイ」

 俺の話をきるように、今度は頬をつねられる。

「『』。これでええか?」

「ええです。ええですから、その手やめろ!」


 頬をつねる手を薙ぎ払うと、彼女に睨まれる。

 これが学年で一番可愛いと称させる【藍沢ことの】の本来の姿である。彼女は俺と小学生のときからの仲だ。今は別のクラスで会うことはそうそうないが、今日は珍しく一緒に帰ることになった。

 彼女は一度ため息を零し、足を進める。


「もうええから、帰るで陸翔。今日は大会の反省会や」

「……はいはい。ほんなら、帰って【SeaLerシーラー】さんの負ける姿でも見ましょうかね~」


 俺がそう言うと、目の前を通り過ぎた彼女は歩みを止めてこちらにあざける顔を向ける。

 

「ふーん、リアルではまだうちに勝ったことない癖に、煽らんといてほしいなぁ」

「はいはい、ソーデスネー」


 彼女の言葉を流し、俺が歩みを進めるとその後をついていくように、彼女も歩きだす。


「あれ? 今日は手ぇ出してこーへんのや。中学の時までやったらすぐ殴りかかってきてたのにな」

「アホか。もうから成長したんや。そう簡単に手は出さへん」

「ふーん……そう言うてせっかくあげた白星にすぐやろ?」


 俺はそこで立ち止まり、彼女の方をむいて高らかに笑った。


「ははははは……上等じゃボケ‼ いてもうたるわ!」

 地面に鞄を放り投げ、拳を彼女の顔に振りかざすと、その手首を掴まれ、肩口を地面に叩きつけ抑えられる。

「ほら。あんたなんも変わってへん。全然甘いわ」

「クソっ。今ならいけると思ったのに、イタタ……はよ離せ!」


 しばらくすると、拘束が解かれ各々投げた鞄を拾う。


「もうこんなんしてたら、いつまで経っても帰れへん。行くでことの」

「あ、ちょっと待って」

 帰る方角に向くも、ことのに呼び止められ、すぐ踵を返す。


「なんやねん。なんかあるんかいな」

「あんた、行かんでええの? 今日やろ?」

「……」

 一度口を固めたあと、すぐに緩める。

「明日でええやろ。今日は遅いし」

「ええの?」

「ええよ、ええよ。あんなんいつでも行けるんやし」

「……なんか、ごめん」

 彼女の顔を見ると、曇っていた。

「何もお前がそんな気にせんでええやろ。とりあえず、はよ帰って反省会するで!」

 俺はことのの肩を叩いて、帰路についた。



 ◇◇◇



 帰宅後、俺は私服に着替えて家のソファーに座った。

 部屋には、シングルベッドとPCデスク、俺の座るソファーの向かいにテレビがあり、間に小さなテーブルが置かれている。一枚ドアを挟んだ先には、キッチン、浴室、玄関に続く廊下が伸びている。

 少し狭くはあるが、一人暮らしの部屋にすれば十分すぎるだろう。

 しばらく携帯を触っていると、ピンポーンと部屋のインターホンが鳴りひびく。俺はソファーから立ちあがり、玄関へと向かった。

 施錠した鍵を開けて、扉を開けると制服から私服に着替えたことのが立っていた。黒いショートパンツに袖が長めのTシャツを入れた姿は、昔から彼女を見ていた俺でも、鼓動が早まるぐらい綺麗だったが、そんな気持ちが一瞬で消えさるほど俊敏にことのは俺の部屋へと入りこむ。


「お邪魔しまーす」

「はいはい。どーぞ」


 部屋に入ったことのは、俺が座っていたソファーに直行し、スライムのように体を脱力させる。

「はぁ。疲れたぁ」

「お前、人の家でくつろぎすぎやろ」

 俺は沓摺くつずりに立って、文句を言う。

「別にあんたの家なんやからええやろ? それともなに、今更かしこまった方がええんか?」

「いや別にええけど……ことの、なに飲みたい?」

「何があんの?」

「えっと? カフェオレか、紅茶か──」

「紅茶」

 即答だった。

「はいよ。ほなしばしお待ち」

 俺は一枚ドアを閉め、キッチンの水切りラックに置かれた電子ポットを取って、蛇口の水を注ぐ。

 いつぶりだろうか。こうして彼女がうちに来るのは。

 中学の時は毎日のように会っていたというのに、高校になってからはたまにしか会うことがなくなった。

 別に仲が悪くなったとかそんな理由ではなく、ただ単純に環境が変わっただけ。クラスが違うことで、つるむ友人がお互いにでき、その友人たちと遊ぶようになったから……なのかもしれない。

 それに彼女に向く男子の注目度は、計り知れない。

 そういえばある日、そのことで彼女に「学校で私と関わったら、陸翔に迷惑かもしれへんから、学校で関わるのはやめよう」と言われたことがあった。今思うと、あれがきっかけだったのかもしれない。

 俺とことのが付き合っているんじゃないかという噂が立つことで、俺に迷惑がかかるなんてことを思ったのだろう。だが、俺はそんなこと迷惑だなんて思わないし、何ならその関係になってもいい、むしろなりたいと思っている。

 不思議なものだ。昔はことののことなんか大がつくほど嫌いだった。クソ生意気で、暴力的で、常に上からで……でも、なぜずっと一緒にいた。腐れ縁のようなものだった。生涯のライバルのようなものだった。

 いつからなんだろうか。次第に彼女を「異性」と思うようになったのは。

 いつの間にかポットの水は溜まり、蛇口を止めるときだ。


「うわあぁぁっ‼」


 扉を挟んだ向こうから、ただ事ではない叫び声が上がった。俺はすぐシンクを離れ、扉を開ける。


「なんやことの……って、え?」


 俺の目に映る光景は、想像を絶していた。

 ことのの姿はなく、部屋中の小物が舞い上がり、部屋中のものがある一点にむかってじりじりと寄っていく。

 その方向は入ってすぐ左側──おしいれだった。


 部屋に入ると、掃除機で吸われているかのようにおしいれの方へと体が持っていかれる。壁などで体を支えながら、おしいれの中を覗いた途端、俺の思考は止まった。

 そこには、収納していたものはなにもなく、不気味な緑色をした宇宙空間のようなものが広がっていた。


「陸翔!」

 俺を呼ぶ声がおしいれの下から聞こえ、目線を移す。そこにはレール部分に掴まってその空間にぶら下がってることのがいた。


「ことの! これ、どないなっとるん?」

「うちも知らへん! あんたがおらんあいだに急にここが光りだして、覗いたらいきなり……ほんなんええから、助けて!」

「お、おう!」


 俺は壁を支えに彼女の片方の手を掴みとり、引き上げようとするが、空間の引力のせいか全く持ち上がらない。


「ふぎぎぎぎっ……クソ。持ちあがらん」

「……ごめん。陸翔」

 ことのが言葉を零したと同時に、彼女が掴んでいた手がはずれた。

「おい、ことの! しっかりせぇよ!」

「…………」


 彼女はなぜか気を失っていた。


「クッソォォォォオ……!」

 俺は唸り声をあげながら、彼女をひっぱる。しかし、ダメだった。それも二重の意味で。

 俺は支えていた手が滑り、自分までもがこの空間に身を乗りだしてしまったのだ。


「まっずい……!」


 急いでどこかに掴まろうとするが、間に合わなかった。

 俺たちはそのまま、未知の空間に落ちていった。だが幸い、意識はある。この先どうなるかわからないが、彼女だけは……ことのだけは絶対に離さない。

 だが、その願いは一瞬にして、打ち砕かれる。この空間には空気がないのか、全く息ができなかったのだ。

 吸っているはずなのに、その心地がしない。苦しい……まずい、意識が……。

 視界がゆっくりと狭まる。体の力が抜けていく。


 ことの……ことの……。


 俺は諦めずにずっと、彼女を離さないことだけを考えた。



 ◇◇◇



「…………?」

 視界が戻ってきた。一番初めにさしこんだ色は緑。

 でも、さきほどの空間ではない。これは……雑草だろうか。

 すると徐々に、嗅覚、触覚とあらゆる感覚が覚醒しはじめる。草のにおい、少しこそばゆいような感覚。間違いなく草むらの上だった。


「……なんやねん。ここ……?」

 うつ伏せに倒れていた体をゆっくり起こし、座ったままあたりを見渡した。そこは、緑が全体に広がる大草原……などではなかった。


「や、やめろ……ぎゃぁあああああ!」

「だ、誰か助け、ぐおふぇ……」

「か、神よ……どうか我らにお慈悲を、お慈悲を……いやあぁあぁあぁああああ!」


 あらゆる方向から聞こえてくる阿鼻叫喚。雑草に飛散する赤黒い液体。腐敗したにおいが鼻を刺す。


 いうなればそう、ここは──地獄だった。

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