【4】魔獣騎士ギルベルト=レナウ
私は意識を取り戻した。背中に、硬い岩の感触がある――うっすらと目を開けると、ランタンの灯に照らされる、ごつごつした岩肌が見えた。
……洞窟? どうやら私は、洞窟のなかで横たわっているようだ。
冷たい空気が肌を刺す。けれど、なぜか右の足首だけは温もりを感じていた。誰かに触れられているような、そんな温もりを……
「目覚めたのか?」
低くて通りの良い、男性の声が聞こえた。私はよろよろしながら、上体を起こした。
体格のよい銀髪の男性が、私の右足首に触れている。
「っ……!」
恥じらいと恐怖で、引きつった声を上げてしまう。思わず右足を引っ込めようとした瞬間、足首に激痛が走った。私が痛みに身をよじると、男性は切れ長の目で私を見つめて微かに眉を寄せた。
「傷に障るぞ、無闇に動くな」
――この人は誰? なぜ私はこの人と、こんな所に……?
怯えて後ずさりながら、私は必死に頭を巡らせようとした。男性はとくに表情もなく、私に静かな視線を置いている。
――そうだ。私は、魔狼に襲われて……
この人が救ってくれなかったら、私は今ごろ生きてはいない。彼が血まみれになっているのは、魔狼の返り血を浴びたからだ。私は、ふと自分の右足首を見た。添え木を当てられ、包帯を巻かれて丁寧な処置が施してある。どうやら、この人が手当てしてくれたらしい。
この人は命の恩人だというのに、まるで暴漢に襲われたような態度を取ってしまった……。私は、申し訳なくなって頭を下げた。
「……非礼をお許しください。どなたかは存じませんが、救ってくださりありがとうございました」
彼は口をつぐんだまま、私を静かに見つめていた。とても端正な顔立ちだけれど……彼の表情は硬くて、何を考えているのかよく分からない。だから私は、少し不安になった。
「名乗りが遅れて失礼いたしました。私は、クローヴィア公爵家のエリーゼと申します」
「知っている」
即答。無口なのか不機嫌なのか分からないけれど、あまりの即答だったので私は、内心驚いていた。
「……エリーゼ・クローヴィア嬢、貴女のことは知っている。まさかこんな森の奥深くでお見掛けするとは思わず、出会った瞬間は気づかなかったが。……貴女は、未来の王妃となられる方だろう? それくらいのことは、俺でも知っている」
そっけなく。あえて距離を取るような彼の口ぶりに、私は戸惑っていた。しばしの沈黙を挟んでから、彼は居ずまいを正して名を名乗った。
「俺はザクセンフォード辺境騎士団団長のギルベルト・レナウ。主君の命を受けて、このメライ大森林で魔獣の調査を行っていた」
「ザクセンフォード……?」
ザクセンフォード辺境騎士団の噂は聞いたことがある。北の国境に接するザクセンフォード辺境伯領を守る、
「
美しい顔立ちにわずかに自嘲の笑みを浮かべ、彼はつぶやいた。
魔狼騎士ギルベルト・レナウは、有名な人だ。
彼は世間では『残虐なる魔狼騎士』と呼ばれている――銀の毛並みと金色の目を持つ大柄な魔狼と、彼の容姿や雰囲気がよく似ているから。武勇に秀でた騎士であり、冷酷無情な戦いぶりで数々の武勲を立ててきた。
外見だけでなく性格も、魔狼のように残虐だという噂だ。敵への容赦がないのは当然として、一般人にまで刃を向けたことがあるらしい。魔獣に襲われた村の住民を、救いもせずに焼き殺したという恐ろしい噂も――
(……でも。この人は、本当にその『魔狼騎士』なの?)
私はなぜか、ギルベルト・レナウ卿を残虐そうな人物だとは感じなかった。獣めいた気配や筋肉質の巨躯はたしかに近寄り難い印象だし、目の色も特徴的ではあるけれど。物静かで感情表現が希薄な人だとも思うけれど。……有能な騎士を妬んで、他者が悪い噂を流すのは、よくあることだ。レナウ卿も、悪評が独り歩きしているタイプの騎士なのかもしれない。
(……だって、この人は優しそうな目をしているもの)
彼の金色の瞳は、魔狼のような残虐性を孕んでいない。夜空に輝く星に似た、優しい光を灯していた。彼はとても精悍で、どきりとするほど美しい顔立ちをしている。深く日焼けした肌も、うなじで結んで長く垂らした銀髪も、返り血で汚れているけれど……汚れた姿さえ魅力と感じさせるような、獣めいた色香を彼は放っていた。
「…………俺の顔が、そんなに怖いのか」
「! いえ、違うんです……ご、ごめんなさい」
じっと見つめすぎてしまった。無遠慮な視線を送っていたことを謝ってから、私は居ずまいを正した。
「レナウ卿。命をお救い頂いたこと、改めてお礼申し上げます。……教えていただけますか、ここは、森のどの辺りなのでしょうか? 私はクローヴィア公爵領から迷い込んできたのですが」
「ここは『メライ大森林』の南西部。クローヴィア公爵領とコニエ伯爵領の周辺地帯だ」
「メライ大森林……」
魔狼を人里から引き離そうとしているうちに、私は奥まで入り込んでいたらしい。
「ここは魔獣も数多く生息する始原林だ。令嬢が1人で踏み込むような場所ではない。……ましてや、王太子殿下の婚約者ともあろう女性が」
私は返事に困ってしまった。王太子妃だったのも大聖女候補だったのも、すでに昔のことだ。今の私は何者でもなく、ただ心を病んだ女として療養生活を強いられるばかりなのだから。……でも、レナウ卿が私の現況を知るわけがない。
「クローヴィア嬢がなぜこんな場所にいるのか、俺には想像もできないが。……俺が詮索するような事でもないのだろう。貴女を安全な場所まで送り届ければ済む話だ」
「……安全な場所?」
表情の乏しい美貌で、彼はうなずいていた。
「クローヴィア公爵領まで護送すれば良いか? 王都が希望なら、それでもかまわないが」
「……でも、あなたはお仕事の途中なのでしょう?」
問題ない、と彼はつぶやいた。
「幸い、調査も済んでこれからザクセンフォード辺境伯領に戻るつもりだった。……それで? 俺は貴女をどこへ届ければいい」
安全な場所。
……そんなものはない。
「クローヴィア嬢?」
公爵領には、戻れない。
戻ったら、病人扱いされて閉じ込められてしまう。意地悪な父母や妹に嘲笑われて、一生みじめに生きなければならない。
王都に行っても、居場所はない。
私はもうアルヴィン殿下の婚約者ではないし、聖痕が消えてしまったから大聖女内定者でもなくなってしまった。宮廷も中央教会も、誰も私を守ってはくれない。
身体が勝手に、震え出した。
「どうした、クローヴィア嬢」
「…………私はどこにも戻れません」
レナウ卿が、怪訝そうに眉をひそめた。
私は、どこにも居場所がない。私は何の役にも立たず、誰からも必要とされていない。
「クローヴィア嬢……どうしたんだ」
どうしたらいいの? どこに行けばいい? どう生きたらいい? 怖い……体が芯まで冷たくて、心が砕けてしまいそうだった。
「……分からないんです」
声がふるえた。
「私は……どうしたら良いのか分かりません」
彼が、私を覗き込んできた。これまでの無感情な美貌とは違う、何かを推し量るような目で。
そんな彼に、私は縋りついていた。
「…………私を、助けてくれませんか」
彼は驚いているようだった。――当たり前だ、出会ったばかりの私に縋りつかれても、迷惑に決まっている。私は、なんて浅ましいんだろう。
「私を、あなたのところに連れて行ってくれませんか……?」
我ながら、どうかしている。見ず知らずの男性に頼るなんて。……でも。
「必ず、あなたのお役に立ちます。絶対にあなたを困らせません。だから、お願いします……どうか私を助けてください!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます