RingNe

アメミヤユウ/体験作家

第一章/生巡・#三田春

 まず、光があった。光合成で吸収しきれなかった緑色の光。その陰が降り注いでいる。大蛇のように地を這う根、バベルの塔のように聳える幹、太陽の力が溢れてひび割れた樹皮に、手を伸ばすも触れ難い。重心を前に倒し、不可抗力を装って触れた。分かった。


 「人は死んだら植物になる」

 どこからか氷のように冷たく美しい女性の声がした。目の前の景色が展開し始める。


 海、風、雲、雨、土、火、雷……鳥、鹿、蜂、菌糸、ササラダニ……目眩く量子配列、創発して現象する世界。人は植物に輪廻する。樹冠の揺らめきや樹皮の密度に自らの身体を参照し、未来と感覚を同期した。


体内の水脈、迸る電気信号、意味は香気で発信し、時間は色で受信した。無数のセンサーが情報の流動性を担保して、雪崩れ込む感覚は万華鏡のように美しいフラクタルだった。

 花弁を散らせ、円環の廻りを祝った。気付いたら目が醒めていた。


 これは少年期の夢。毎夜のように見ていたので、今でもはっきり記憶している。夢から醒めた朝は何百年も前からここにいるようにも、今来たばかりのようにも思えて、時間がぼやけていた。包丁がまな板を叩く音が台所から聞こえてくると、少しずつ現実にいる感覚が取り戻される。


 父は僕が生まれる前に失踪し、母と二人で暮らしていた。三階建てのアパートの一室、たくさんの植物と本に溢れた家だった。ある日、父が失踪した理由を母に尋ねた。

「森に帰りたくなったんだって」と言っていた。当時はそんな御伽噺のような理由を信じてしまっていたけれど、御伽噺は大抵何かの暗喩であることを今なら知っている。父は恐らく土に還って、帰らぬ人になったのだ。


 母は毎日の昼の仕事と、三日に一度の夜の仕事をしていた。夜の仕事がある日は、夕方から出かけ翌朝まで帰ってこなかった。

 小学二年生の僕は、母の夜の仕事の日に併せて、夕方からこっそりと金時山へ行くようになっていた。父は森に住んでいるのだと思っていたから、探しに出かけていた。小川の流れる登山道を登り、植樹された杉が並ぶ人工林の奥まで進む。時折「お父さん」と声を出して呼びかけてみるが、それは知らない国の言葉のように弱々しく響いた。木にかけられたピンクのリボンを見失わないように慎重に、森をくまなく歩いていた。


 日が落ちるにつれて、植物たちは蠢き始める。息を吹き返した動物のように、ザワザワと命が動く気配がする。そんな匂いがする。夜になる前には必ず帰るようにしていた。一度夜遅くに帰っていたことがバレて、優しい母を鬼のように怒らせてしまった後悔もあるけれど、夜の木々たちは「おかえり」と手招きするから、その誘いが怖かった。


 母は朝、地元の名産である足柄茶の茶畑を手入れして、昼からは事務のリモートワークをしていたようだった。

 忙しいと分かっていたのに、構ってもらうために宿題が分からないとごねたり、わがまま言ったこともあった。必ずしも受け入れてくれるわけではなかったが、母はそんなとき当然のように仕事を切り上げ、子どものように小さく柔らかい手を僕の頭に乗せて、手伝う理由も手伝わない理由もしっかり話してくれた。


 休日は一緒にピアノを弾いたり、近くの滝で遊んだり、部屋の植物たちの手入れをしたりしていた。母は霧吹きでフィカスやパキラに葉水を与えながら、時々植物に語りかけていた。僕が不思議そうにそれを見ていると 

 「植物もピアノの音が好きらしいわよ」と笑った。



 僕は人一倍健康で頑丈に育ち、中学三年生にもなると母より一回り以上大きくなっていた。目線が高くなると、考え方も変わる。年相応に、自分より小さい存在に頼りきっている情けなさを思うようになり、家事を分担するようになっていた。それと、この頃の母は箸を落としたり、何もないところで転んだりすることが増えていたことが気がかりだった。日々の負担が減って休む時間が増えれば、きっと良くなると思っていた。


 クレマチスの花が咲く季節になると、母はピアノに座ることもなくなり、好んで弾いていたゴルトベルク変奏曲はスピーカーから流れるようになっていた。

 「春、ちょっといい?」

 時間をかけてゆっくりと洗濯物を畳んでいた母が僕を呼んだ。目の前に座ってからの神妙な面持ちと沈黙は、言葉以上に雄弁だった。その沈黙におけるメッセージがなくて、言葉だけが先にやってきていたら、僕は多分耐えられなかった。


 筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されたことを聞いた。そしてこの病気がこれからどういう症状を進行させていくのか、家のこと、暮らしのこと、入院のこと、学費のこと、理路整然と一通りを話した。母の目は潤んでいて、淡々とタスク共有をするように話しきることで、何とか涙が落ちるのを食い止めようとしていたことが伝わってきた。胸の奥深くに、底も見えないほどの穴が開いた。それはただ在るだけで、この世の全てが香りを失うような、深く、黒い、大穴。


 母は僕に話した通りの未来を辿っていった。やがて自力でお風呂やトイレに行くことも難しくなり、入院した。そして約三年かけて徐々に病状が進行し、人工呼吸器を使わないと呼吸もできない状態にまでなった。あまりにも、あっという間だった。

 


 大学生になった僕は農学を専攻し、病床の窓際に置いたフィカス・アルテシマが太陽のほうに枝を伸ばしている理由も、ピアノの音を聴くことができないことも知っていた。


病室にはバイタルが安定していることを示す規則的な音だけが響いていた。母の耳にイヤホンをつけて、好きだった音楽を流してあげようと、母の顔に近づく。耳にイヤホンをつける寸前で、痩せ細った顔の頬骨の影や、垂れた皮膚の解像度に堪えきれず、慌てて母から遠ざかり、後ろを向いて涙を堪えた。バレないように目を擦ってから振り返り、今日大学で学んだことやバイト先のことなんかを、できるだけ楽しそうな調子で話した。


 母は少し前までは目を動かし、アイトラッキングを用いたキーボードでコミュニケーションすることができていたが、すぐに目を動かす筋力もなくなり、今では一方的に話すことしかできなくなった。窓際においた三号鉢の小さなフィカスは順調に生長していて、もう少し大きくなると窓際に置けなくなるので、根切りをするか、小さなものと置き換えなければならなかった。


家の中で不思議そうにフィカスの枝に触れ、共に光合成しているように陽に当たっていた母の後ろ姿をふと思い出してしまう。堪えきれず「トイレ行ってくる」と立ち上がったところだった。


 少年の金切り声が廊下から聞こえた。ドアが勢いよく開いて、叫び声がより一層部屋に響いた。僕はカーテンの隙間から恐る恐る様子を伺うと、パジャマを着た少年が頭を抱えて叫んでいた。少年は時折咳き込みながら声の限り叫び続けていたので、僕はナースコールを押そうとしたところ、看護師さん二人が慌てて入ってきて、少年を宥めながら廊下まで連れ出した。

 「びっくりした。入院中の男の子が叫びながら部屋に入ってきたんだ」と高鳴る心拍を深呼吸で落ち着かせながら母に話した。なんだったのだろう。


 

 翌日、バイトの時間が始まるまでガーベラを挿した花瓶の水を取り換えながら、学校で習った植物の睡眠の話をしていた。そのうち、カーテン越しすぐに子どもの声が聞こえた。

 「すみません」

 「はい」と応えてカーテンを開くと先日発狂していた少年が立っていた。

 「あの……昨日は大きな声で驚かせてしまい、ごめんなさい」と彼は頭を下げた。律儀に謝りに来てくれたことに、少し驚いた。

 「君は……」

 「えっと、渦位瞬ウズイシュンと言います」

 「そうか。瞬くん。いや、僕らは大丈夫だよ。それより君こそ身体は大丈夫だったの?」

 「はい。もう大丈夫です」と彼は答えた。昨日看護師さんに彼のことを尋ねたところ、喘息に起因するパニック発作とのことだった。呼吸が苦しくなると死を予感し、恐れが過換気症候群の諸症状を引き起こし、彼の場合最終的に発狂してしまうとのことだった。彼はじっと母を見つめていた。管の数を数えているようにも見えた。


 「お母さんの症状、よくないんですか」

 「動けないんだ」と僕は答えた。

 彼は少し考えた後「植物状態ってやつですか」と言った。 

 「よく知っているね。でも母は植物状態とはまた違って、今も目が見えているし、聞こえているし、僕らと同じように感じて、思考しているんだよ」

 少年はそろりと母に近づいて「昨日はごめんなさい」と言った。

 彼は振り返ってカーテンを開ける。

 「来てくれてありがとう」と僕が言うと彼は恥ずかしそうにカーテンを閉じて部屋を出た。

 毎日病院に通っていた僕と彼は、その後も廊下でたまたますれ違ったり、発作の現場に出会したりしては僕が話しかけ、学校のこととか家族のこととか、たわいもない話をする仲になった。

 


 ある日の廊下、母の病室に入る前で、私服姿の彼を見かけた。今日で退院するらしかった。

 「おめでとう」と僕が言うと彼は頭を下げてそのまま沈黙した。

 「どうしたの?」

 「お母さんまだ良くならないですか?」

 「うん、ちょっと今のところ、回復の見込みがない」

 彼は沈黙しながら、何かを考えているようだった。僕はそれをただ見守った。 

 「なんであんな、呪いみたいなことがあるんですかね。春さんのお母さんだけじゃなくて、病院にはたくさんの人が苦しんでいて、どうしてこんな苦しい思いをして、これからも生きなくちゃいけないのだろう」

 僕は少年越しに見えるタクシーを見ながら「呪いか」と言った。


 「見えるし聞こえるのに、動けなくて話せないなんて地獄じゃないですか。植物状態じゃないって言っていたけど、植物と変わらないように見える」

 僕は彼の高さまでしゃがんでから話した。

 「それじゃ、植物たちはみんな地獄で生きているってこと?」

 「そうだよ。動けないし、見えないし、話せないし、僕だったら絶対に嫌だ」

 「そうなんだね。僕は、人は死んだら植物になるんじゃないかって思っているのだけど、僕らはみんな地獄行きか」

 「そんなわけないよ。植物になんてなるわけない」

 「そうだよね、でもなぜかどうしてもそう思ってしまう。それで、植物になった自分はどんな風に世界を感じるのか、植物たちは今なにを感じて過ごしているのか、そんなことをよく考えている」

 彼は呆れた顔でこちら見つめていた。


 「植物って二〇以上も感覚があるって知ってた? 人に例えると視覚や嗅覚のような器官もあるし、それに加えて、重力を感じたり土中の栄養素を感じたりすることもできる」

 彼は顔を上げて「そんなに」と言った。僕は微笑んで「そんなに」と繰り返した。   「それに植物だってずっと観察しているとゆっくり動いているんだよ。タネを飛ばして引っ越ししたりもしている。あとちょっと難しいかもしれないけど、光の速度で生きる生物から見たら、人間も植物も等しく動いてない生物だ」

 「わかるよ」と彼は言った。

 「頭がいいね。それに植物は人より何倍も生きる。つまり時間の感じ方が違う。何もしていないように見えて実はたくさんのことをしているし、もしかしたら僕ら以上に世界のことを知っているかもしれない」

 「そうなんだ、悪くないかもね」と彼の表情は少しだけ明るくなったように見えた。

 「でしょ。まぁ人もそう悪くないよ」と言ったあと少し考えて、続けた。

 「そういえば来週やっと母の意識に触れることができるんだ。互いのBMI(ブレインマシーンインターフェース)を繋げることで、母の意識世界を覗くことができるらしい。母が生きることは呪いだと思っているかどうか、よかったら一緒に見てみるかい?」

 彼はすぐに「見る」と言って頷いた。

 「じゃぁ来週の四時にここで」

 彼の両親と思しき男女がタクシーから降りて歩み寄ってきたので「元気でね」と言って、別れた。

 


 二三年後 神奈川県南足柄市──

 改札を抜けると金木犀と煙の匂いがした。雲一つない晴天、三方に広がる山々から金風が吹き込んだ。いつも通り十時間は寝たにも拘らず、未だ眠かった脳のぼやけがすっと晴れる。駅前の観光案内図の横にあるビジョンに、新たな映像が映されていることに気づいた。そこには堆肥葬合法化二十周年に、昨年市をあげて催した祭りの模様が映されていた。協賛したうちの会社の名前も載っていた。記念として、それぞれの山の入り口には鳥居が立ち、堆肥葬管理センターへの予算も拡充されることになったらしい。


 映像内には、堆肥葬の素晴らしさを語る美辞麗句が並んだ。堆肥葬は遺体を管理センターで堆肥化し、希望の植物の根に漉き込むことで、人間を生態系の循環の中に戻すプロジェクトであること。SDGsや欧米諸国から始まったデスポジティブムーブメントの流れで法案が可決された、新しい死生観を提示するものであること。遺体の分解に必要なエネルギーは火葬の八分の一で、約三十日で一体の遺体から荷車二台分の堆肥が作れること、など。 


 堆肥葬の合法化と僕がSheep社へ入社したのは同じ年だった。DNAが焼失しなくなったことでRingNe《リンネ》が開発できたことを振り返ると、なくてはならない出来事だった。

 狩川を渡る橋の空中には、立体広告を表示するためのプロペラがついたドローンがホバリングしている。そこにはRingNeの広告アニメーションが表示され、横を通り過ぎるとき指向性スピーカーにより音声が聞こえた。


 「RingNeは大切な人とあなたの架け橋です。RingNeを装着し、植物に触れると、量子サイクルした故人の情報を即時解析。新時代の量子解析リング、RingNe」


 橋を渡ると多様な草花が生茂る上空に合成樹脂製の網目がアーチ状の遊歩道となり、有機的な曲線を描いて広がっている。草花が網目まで届かないように高さは自動的に調整され、植物たちの領土や光合成を如何に邪魔しないかを目的に道が設計されている。


街中に植物が生茂る一方で、都市緑化の目的で整備された街路樹は減った。アスファルトの一区画に土を盛り定植する行いは、植物を孤独にしていると市民運動が起きたことがきっかけだった。植物たちは根で繋がり、葉から放出される化学物質で会話することから、街路樹は孤独な檻と喩えられ、一部の市民は植物になった自らの死後に想いを重ね、先制して環境整備をしていた。


 建物の二階まで蔦に包まれた商店の軒先には「無神花ムシンカ商品販売店」とサイネージが掲出され、人の量子情報が植物に量子サイクルしないよう厳重に管理された農作物や紙、衣服が販売されている。


 神花とは人の量子情報がサイクルした植物の通称で、人は死後植物の姿をした神になるという、神道と量子化学が中途半端に混ざった思想による名称が、とあるDAOを中心に急速に広がり、一般化していた。


 夕飯の買い物と思しきエコバックを持った女性は、商店の露店販売で並べられた通常の玉ねぎを一つずつ指元に装着されたRingNeで解析し、神花していない玉ねぎを発見するとカゴに入れていた。神花した植物を食べても違法ということではなく、一部スーパーでは認証されていない一般の野菜も並んでいる。市場規模は圧倒的に小さくなったものの、材木屋や製紙会社も存在する。しかし一般的な倫理規範として、神花した植物を食べたり、材にすることは躊躇われていた。全ての神花は考え方によっては、誰かの墓になり得るからだった。


 RingNe以降、より顕著になった植物主義社会は、個体と命を一対のものと捉える旧来の生命観を変容したと言える。RingNeは一個体に内在する複数の命の残滓、つまり遺伝子情報を可視化し、流動的なコロニーとしての生命体の姿を立ち上がらせた。それが良いことだったのか、悪いことだったのかは未だに分からず、網の道を歩きながら既に変わった世界をただ見つめていた。


  RingNeは人の死後、散逸した量子情報のうち多くが光合成時に植物へ転移することを示した。人類から植物へ移行する量子情報変換(Quantum Information Transfer from Humans to Plants or QIT-HP)は通称、量子サイクルと呼ばれ、俗称としてRingNeするという動詞に発展した。それがアニミズム的価値観と共鳴し、量子サイクルを済度と解釈して神花と名称するDAOの発足にまで至った。


 人は死後植物になるという生命観の変容は、火葬せず遺伝子情報を直接希望の植物へ転移することができる、堆肥葬の需要を急激に高まらせた。多くの森林所有者はビジネスモデルを林業から堆肥葬管理へ転向し、皆伐の消えた森は自然に生態系が回復した。獣害被害も減り農作物の収量も増え、農薬の規制も厳しくなり、有機野菜が安く流通するようなった。


全世界的に緑化が進み、環境保全の意識が飛躍的に高まった結果、カーボンニュートラルが達成され、現状地球温暖化の危機がなくなったことは植物主義社会の良い面としてよく語られている。他にも……と探していると、店舗の壁面ビジョンからニュースが流れ、注意が移った。


 「昨晩、植物の違法輸入代行会社に家宅捜索が入り、代表の山内氏が逮捕されました。昨今の堆肥葬需要の増加に伴い、国外の植物を転生先として求める声も多く、こうした違法輸入も増えています。日本の森林における生態系の保全と個人の弔い方の自由について、染谷さんはどうお考えですか?」

 黒いニット帽を被ったマーケティング会社の代表の男性がキャスターの質問ににこやかに答える。


 「こうしたジレンマはRingNe以降に急増しましたよね。これまで堆肥葬は宗教的な曖昧な希望でしたが、RingNeは人が死後植物になることを科学的に証明してしまった。そうなると我々は死後の計画という新しい概念のもと、その自由と責任を負うことになります。転生したからといって意識や記憶が引き継がれるわけではないにしても、死後自らの身体を構成していた量子の行き先を選びたいという欲求は、分かるんですよね。現在日本にもいくつか世界各地の環境を再現しつつ森の生態系も脅かさないマルチエコスフィア型の管理センターがありますが、個人の弔いの自由を保障できる施設が今後も増えていくことを願います」


 僕もそう思いますと、ビジョンに念を送った。網の道を降りてアスファルトに着地する。AI水素自動車が横切る湿った道路を横断するとすぐに会社の白い外壁が聳える。壁沿いも肥沃なガーデンスペースが広がっていて、ツユクサ、イヌタデ、ゲンノショウコなどの野草が群雄割拠に勢力争いを繰り広げている。


 壁沿いにエントランスを目指すと、黄色いレインコートを着た少年が、青いじょうろで草花に水やりをしていた。雨は降っていない。じょうろの水が切れると、すぐ近くのウォータースポットで給水をしていた。なぜ雑草に水やりをしているのだろう。歩きながら見ていると、ランドセルを背負った小学生の男女二人が少年に駆け寄ってきた。


 「円くん、何してるのー?」とツインテールの少女が無邪気に尋ねる。

 「お母さんに水やり」とレインコートの少年はツユクサを見つめたまま答えた。

 「こんなところにお母さんいるんだねー、これ雑草でしょ? 可愛そうー」ともう一人の赤い帽子を被った少年が嘲ると、少女は連られ笑いを堪えながら「ちょっとそういうのダメだって先生が言ってたでしょ」と言った。

 少年は変わらず植物だけを見つめ、無言でツユクサや、その周辺の植物に水をやり続けていた。


 「なんで他の植物にもお水あげてるの?」と再び少女が尋ねる。少年は水が切れるまで口を閉じ、水が切れると二人の方を見た。 

 「植物はみんなで生きているんだ。学校で習っただろ」

 赤い帽子を被った少年は「行こうぜ」と言って走り去っていき、少女は置いていかれないように、慌ててあとをついて行った。レインコートの少年もじょうろを片手に網の道の方まで歩いて帰っていった。


 つい立ち止まって見てしまっていた。少年の後ろ姿を見つめながら、かける言葉を探していた。しかし何も出てこず、自分の口からは何も言えず、情けなく振り返って、再びエントランスに向かって歩みを進める。


 堆肥葬自体は手軽な価格でできるようになってきたとはいえ、死後転生する植物の種類には格差が発生していた。管理センターで植物の管理を代行するサービスのランクや、場所、その植物の管理コストや植物自体の珍しさから、経済状況による格差も生まれていた。比較的富を持つ家庭は堆肥葬管理センターで堆肥化し、センター内で希望の植物に堆肥を漉き込み、適切な管理がなされていた。


中には山全体を管理センターとして毛細血管のようにカーボンチューブを張り巡らせ、全自動で水やりや追肥がなされるような場所もあった。やがて朽ちて土に帰った後も再び新たな植物を植え変えるまで世話をするので、遺族側の負担はほとんどない。その分、祈る機会も減る。


 真っ白な社内に入ると、エントランスの中央に生えた白い樹皮の人工の楠が聳え立つ。合成樹脂や木材の繋ぎ合わせではなく、紛れもない木質を分子合成で0から作っている。成木として生まれ、プログラムが機能する限り寿命もない。Sheep社を象徴するような無機質な有機体。


 見ているとなぜかお腹が空いてくるので、社内のコンビニに行って有機酵素玄米と様々な具材のおにぎりを六つ手に取った。会計を済ませ、研究室の方まで歩く。途中でコーヒーを買い忘れたことに気づき、コンビニの方へ振り返ると男性の顔がすぐ目の前に現れた。「わ」と声を出してのけ反り「びっくりした」と条件反射のように言った。男性は誠也くんだった。三十センチほどの距離で尾行されていたらしい。この距離はもはや尾行どころか忍術の類だ。


 「もう、驚かさないでよー」と苦笑いする。

 「先輩、相変わらず尾けやすいですね」と彼は無表情で言った。

 「何か買い忘れですか?」 

 「うん、コーヒー買い忘れた」

 「じゃ自分もお供します」

 「敵に狙われているわけじゃないから大丈夫だよ」と僕は笑った。

 

 「そういえば昨日はレポート記事、早速ありがとうね。流石、仕事が早い」

 「いえ、あれくらいならすぐできます。PEプラントエミュレーションプロジェクト、ここ最近で一気に進みましたね」

 「植物適応する知能の内的モデルがネックだったのだけど、AIの出力された設計図通りに作るのが一番というコンセンサスが取れてから早くなったね。人間がその仕組みを理解できる必要はなかったらしい」


 僕らは無事コンビニでコーヒーを入手して、研究室に向かった。道中に昆布のおにぎりを開けて、食べた。一度尾行されると背筋に不要な気配が付き纏う。存在感とはその存在がいなくてもしばらくは在るものだ。時々確信めいた気配を感じて念のため振り返ると、誠也くんが後ろで手をひらひらさせていたりする。彼は無表情で前を見つめていた。白い通路を進み、研究室の前に立つとドアが開く。


 研究室には緑の陰が全面に投影され、フロアを囲むように八カ所に設置されたスピーカーから森の音がサラウンドで聴こえている。巨大なモニターの前に十のデスクが設置され、RingNeの研究開発は十名のメンバーで行われていた。


日々更新される故人の遺伝子データをRingNe上で変換するアプリの更新作業や、RingNeで触れた植物から量子情報を解析しアーカイブと照合するデバイスの基幹機能の管理など、保守はそれぞれ専任のAIが担当し、人間はAIのエラーが起きていないか確認しつつ、アプリの新たな機能をAIが出力したアイディアから選定し、経営部へ提案をまとめる中間管理的な業務が多かった。


現在は二年前に逝去した大物演歌歌手が転生したタンポポが綿毛となり矢倉岳に群生しているので、慰霊トレイルが組まれようとしていた。

 誠也くんと僕はそれぞれ自分たちのデスクへ移動した。PCを起動させ、社内用のチャットを一通り確認してコーヒーの蓋を開けたところだった。ニュースチャンネルに新着の通知。ウェブメディアの記事が貼られている。


 ”堆肥葬管理センター南足柄第一スフィアで大規模森林火災発生中。堆肥葬管理センターでの火災は国内初”


 第一スフィアというと丸太の森辺りか……すぐ、近くじゃないか……。心拍数が上がり嫌な汗が出てきた。起きてはならないことが起きてしまった。ニュースに気づいた研究員が、モニターの画面をテレビのニュースに切り替えた。僕は何か救いを求めるように画面を凝視した。現在消火活動中だが火災の原因はまだ特定できておらず、既に敷地の三分の一の面積が焼失しているとのことだった。誠也くんを除いて、他の研究員も皆絶望的な表情で画面を見つめ、しばらくの沈黙が流れていた。

 

 装着しているBMIブレインマシーンインターフェースから着信音が鳴る。

 「三田ミタさん、火災のニュース見ましたか? 報道から何件か問い合わせが来ています」

 広報部の女性が慌てた様子で話す。

 「問い合わせは僕に?」

 「そうです。一つずつお伝えします。まずは、神花となった魂はどこにいくのか、もう一つは焼失したDNA情報を復元する方法はあるか、というのが主な内容です。確認して折り返すとご連絡しています。あぁ、また問い合わせが……」


 僕は片手を側頭部に添えて、考えていた。胸が詰まるような思いだった。RingNeを使う人々の中にはまだ量子情報と魂をごっちゃにしている人が多い。植物に移っているのは故人を構成していた量子情報であって、意識や記憶が内在する魂のようなものではない。魂の行方は科学の専門外だ。僕が徳を積んだ僧侶であれば、魂は極楽浄土へ行きますよと、慰めることができたかもしれないが、僕はただの技術者だ。科学が人の心に寄り添うことは難しい。僕らは僕らの立場からちゃんとものを言うしかない。


 「RingNeは故人の遺伝子情報を元に量子サイクルの探索をしているので、燃焼により遺伝子情報ごと焼失した植物のその後を探す術はないです。と言うことを出来るだけ柔らかく伝えてあげて欲しい」

 「わかりました」と電話越しに女性は言った。BMIのノイズキャンセリングが切れると、室内のざわめきが耳になだれ込んできた。それぞれ担当しているプロジェクトの処理に慌てていた。


 向かいの椅子に座る誠也くんが僕を虚な目で見ていた。

 「大変なことになりましたね」と言った。

 「そうだね、大変なことだ」と言って、僕はおかかとクリームチーズのおにぎりを開けて食べ始めていた。 

 「先輩、本当よく食べますね」

 「そうかな。今日はまぁ食べていい日だからね」

 「食べていい日?」

 「明日は食べちゃいけない日。三日おきに断食しているんだ」

 「三日食べて一日休んでってことですか、なんか変な食習慣ですね」

 「昔からの習慣なんだ。でもほら、植物だって毎日水はいらないでしょ」

 「まぁそうですけど」

 これから忙しくなりそうだと予感した僕は、早めに残りのおにぎりを全て平らげて、カロリーを蓄えた。


 「そういえば誠也くん、元々堆肥葬管理センターで働いていたんだよね? 今日の件、例えば放火とかセキュリティ的に可能なの?」

 誠也くんは椅子を回転させながら話した。

 「そうですねー、神花参りのために入山することは誰でもできるので、ずさんっちゃずさんですね。とはいえあちこちにAI監視カメラはついているし、怪しい動きがあったら見つけられると思うんですけどねー」

 僕は顎を親指と人差し指で摘みながら言った。


 「ガソリン撒いて火をつけるみたいなことはできないわけだね」

 誠也くんは椅子を止めて話した。

 「それは絶対見つかります。できるとしたらAI監視カメラの特徴を理解し、セキュリティの穴をつける技術者、あるいは施設の関係者くらいです」

 「なるほど」

 犯人の動機は何だろうか。神花となった植物を燃やすことは、そこに内在する無数の微生物、量子情報の全て、言ってしまえば一つの世界を焼却することに通ずる。そういう繊細な生命観念が一般化してしまっている故に、この事件が起こす余波の大きさが想像できた。


 「三田さん」

 再び広報部から電話が鳴る。

 「テレビ局二社から森林火災について今日夜の報道番組にコメンテーターとして出演依頼が来ています。オンラインで中継となりますが二十時からと二十二時からそれぞれお時間いかがですか?」

 僕はスケジュールを確認して「ありがとう。受けて大丈夫だよ」と返した。

 しかしまた科学の立場から渇いた物言いをするしかない未来に少し辟易とした。お坊さんを呼べばいいのに。世の多くの人を救うのは科学ではなくて、考え方なのだから、と思ったがそれは言わなかった。


 「わかりました。詳細は情報共有いただけ次第追ってご連絡します」と彼女は言った。

 「それから、火災の出火原因なのですが、どうやら森の自然発火の可能性が高いようです」

 「自然発火? 冬でもないのに」と僕は訝しんだ。

 「ええ、それが消火した焼け跡からゴジアオイの種子が見つかったようで」

 「ゴジアオイ……あれか。なんで日本に」


 ゴジアオイは地中海に生息する植物で、気温が三五度程度を超えると、茎から揮発性の油を分泌して、周囲を燃やす特徴がある。渡り鳥が種子を運んでくる距離でもないので、誰かが輸入して植えたのかもしれない。


 「そうですね、本来生息し得ないはずなのですが、出火元が地中海に似た温帯乾燥スフィアからのようで、生育することができたのだと思われます」

 「それでも三十五度を超える温度管理なんてあり得ない……ハッキングか、まさか職員の仕業ってことはないよね」

 「断言はできませんがゴジアオイは当然生育が禁止されていますし、考えづらいかと」

 「そうだよね」と言いつつ、種や苗を植える動作はAIのアラートには検知されないだろうし、管理センターの仕組みをよく知った人による内部的な犯行を疑った。

 「また何か情報得られましたら共有しますね」と言って彼女は電話を切った。

 「まぁ僕ら刑事じゃないんだし、犯人探しなんてしてもしょうがないですよ」と目の前で話を聞いていた誠也くんは言った。

 「それはそうだね。さ、仕事戻ろうか」

 カバンからパソコンを取り出し、鼻を摘むと朝の煙たい香りがした。

 

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