第9話 8 パーティに行くのです! 少尉さん

 お母さまひどい!

 少尉さんの前であんなことをいうなんて!

 きっと少尉さんは私のこと、手近な男の子を相手にする、つまらない子だって思われたわ!


 給湯室の壁にもたれたまま、アンはその場にしゃがみ込んでしまった。

 レイルダーに対するこの気持ちを誰にも言ったことはない。

 しかし、さといあの母ならば、とっくに気がついているとアンは考えていた。

 もしかしたら冗談めかしたふうを装って、奥手なアンを後押ししてくれたとも思う。

 カーマインはアンを愛してくれている。

 それは確かだ。

 しかし、美しく華やかで、才能あふれた娘時代を過ごしただろう彼女には、平凡なアンの気持ちがわからないのかもしれなかった。


 お母さまは、私のためを思って言ってくれている。

 それはわかっているけれど……。


「でも……やっぱりパーティは欠席しよう。ヨアキムにからかわれるのも嫌だし」

「ヨアキムとは行かないのか?」

「ひゃあ!」

 アンは飛び上がった。

 いつまでたっても初めて聞いた時と同じく、どきどきしてしまう、深く滑らかな声。

「しょ、少尉さん!」

 膝から力が抜けかかるのをアンは必死で堪えた。

 彼は父のお供で母の見舞いに来たのであって、アンに用事があるわけではない。

「そんなに驚かなくても」

「ごめんなさい! でも、なんで、ここに?」

「アン、学校でいじめられてるのか?」

 レイルダーはアンの質問を無視して言った。その目はいつものように眠そうではない。

「え? いえ、いいえ。いじめられてなんかいません。ただ……男の子ってどうも苦手で……口が悪いし、態度も乱暴だし」

「俺だって男の子だぜ?」

 ひょいとすくめられる広い肩。

 そんな所作ですら、どうにも格好よく、アンには運動場や食堂で馬鹿騒ぎを演じている、同級の少年たちと同性だとはとても信じられなかった。

 少なくとも彼は、ではない。

「少尉さんは違います! 私が言ってるのは学校の男子ですから!」

「ああ、前に馬場で見たな。学校の男子は、女の子にああ言うことをするのか?」

「いえっ! ええと、みんなではなく、一部の乱暴者っていうか……幼稚な奴がいるだけで……」

「それがヨアキム?」

「……ええ、まぁ」

「アンをからかうのは、そいつがアンを気にしてるからだと思う。多分」

「からかうのは悪意があるからです。私はそんなの嫌いです」

「珍しいな」

「え?」

「アンが負の感情をそんなふうに出すのは」

「そ、そうですか? 今の女の子はこのくらい言いますよ」

「……言われてみたいな」

「え?」

 レイルダーの言葉は多くはなく、いつもアンはその意図を図りかねるのだ。

「えっと……少尉さん?」

「俺が行こうか?」

「……へ?」

 その言葉は唐突に降ってきた。

「アン、俺と一緒にパーティに行ってみないかい?」

「……」

 アンの小さな口は開いたまま、閉じることを忘れてしまっていた。

 あまりにも突然で、思いがけない申し出に、思考は停止したままだ。

 しかし、その言葉を発した本人は顔にも特に変化はない。「ハンカチを落としましたよ」とでも言うような様子である。

「ま、嫌なら」

「行きます!」

 かぶせ気味に叫んだのは、思考ではなく反射だった。

「ぱ、パーティに行きます! 私は! 少尉さんと!」

 倒置法で言い放ってから、アンはレイルダーが笑っていることに気がついた。

 滅多に表情を崩さない彼が、今自分に笑いかけてくれている。もしかしたら自分笑っているのかもしれないが。

「で、でも……そのぅ……近衛のお仕事は?」

「来月なんだったら、どうにかできる」

「……本当に一緒に行って、くださる、のですか? 学校のパーティなんかに?」

 アンは頭を振り上げて青年を見た。

「ああ。よろしく」

「はっ、はい! こちらこそ、どうぞ、よろしくお願いいたします!」

 アンの目の前に、伝統ある学校の講堂が浮かんだ。

 いつも学長先生の退屈な話や、苦手なダンスのレッスンに使われる、古くいかめしい苦手な場所だ。

 しかし、年に二回のパーティの時だけは、たくさんの明かりが灯され、花や布で飾られて楽隊がきて、凝った料理が運び込まれる華やかな場所になると言う。

 もともとその多くが貴族の子弟である。生徒のみならず、その家族が懇親を深め、交際範囲を広げるための重要な行事であった。

 ダンスもあるので、生徒たちはペアとなる相手を探すのに躍起になる。もちろん級友だけではなく、家族でも友人でもいいことになっている。

 そして女生徒達は、素敵な男性にエスコートしてもらうことを夢見ていた。


 私……私、少尉さんと並んで歩けるのね……。

 ああ、これはまるで!


「ゆ……」

「ゆ?」

 夢みたい、と口からこぼれそうになった言葉を、アンはかろうじて飲み込んだ。

「ゆ……友人に心配をかけずにすみます」

「そうか。じゃあ、今から閣下に伝えに行こうか。きっと母上も心配している」

 レイルダーは、今にも爆発しそうな顔のアンの頬をつついた。

 いや本当に爆発してしまったのかもしれない。目の前が金色になってしまったから。


 私は少尉さんとパーティに行く!

 行けるのだわ!

 お父さまに連れられるのじゃない、初めて自分で参加するパーティに!


 その瞬間のアンの足は、きっと床から少し浮いていたに違いない。


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