第7話 6 私、知ってるのです… 少尉さん
「お前たち、すまないな。私用につき合わせてしまって」
軍用車の後部座席に座ったフリューゲルは、助手席の青年士官に笑いかけた。その横のレイルダーは運転に専念している。
「いいえ。閣下はこのところお忙しくしていらしたから。今日は少しでも時間ができてよかったです。奥様のお見舞いは久しぶりなのでしょう?」
「ああ。そう言ってもらえると助かる。ケイン」
街はすっかり冬景色だった。
道路沿いの楓の木は紅葉の盛りを終えて、葉を落とし始めている。もうすぐ木枯らしが通りを吹き抜ける季節だ。
フリューゲルは妻、カーマインの見舞いに病院へ向かっていた。
かつて戦場で補給部隊の隊長として活躍した彼女だが、ここ数年はゆっくりと体が弱ってきて、最近自宅療養から、入院となってしまったのだ。
「そうだな……ここのところ、またしても西の動きが
歳の離れた妻をこよなく愛しているフリューゲルの顔は暗い。
かつての反乱で、所領や財の半分を国に取り上げられ、ここ数年鳴りを潜めていた西の領主ラジム公爵が代替わりし、再び人や物資を集め始めているという密かな情報があるのだ。
もしもまた内戦となったら、その地での戦闘に慣れたフリューゲルが、再び陣頭指揮として司令官に任じられる可能性が高い。
「新しい公爵殿は、父上以上の野心家だそうだな。困ったことだ……いくら王家と同じくらい古い大陸の名家とはいえ……いやまだ、決定的ではないが」
「……」
レイルダーは、バックミラー越しにフリューゲルをちらりと見たが、やはり何も言わなかった。
「お父様!」
母の特別病室に続く廊下にはアンがいた。いつも学校が終わると、母の病室に立ち寄るのだ。
「アン」
「お時間が取れたと伺って、お越しをお待ちしておりました」
「ああ、久しぶりだ、アン、元気そうでよかった。今日は新顔を連れてきたぞ」
「ケイン・クルーと申します。お嬢さん」
「ケイン……中尉さま。これからよろしくお願いしますね」
アンは階級章を見ながら、握手のつもりで手を差し出した。
しかしケインは、優雅な所作でその手を取ると、そっと唇を寄せた。優雅な所作だ。
さすがに近衛だけあって、ケインも整った容貌をしている。
近衛とは王宮の守護が任務だが、飾りの役目もあるので、家柄だけでなく、容姿もある程度の水準が要求される。
「こちらこそ。アンお嬢さん。おいくつになられるのですか?」
ケインは赤くなったアンに愛想よく尋ねた。
「十四歳になりました。次の学期から四年生です」
「おお、それではいよいよ上級生の仲間入りですね。素敵なお嬢さんだ。なぁ、ヴァッツ」
「そうだな」
レイルダーは熱なく答える。馬場の帰りに路上で見かけたのは、もう二月以上も前のことだ。あの頃はまだ夏の終わりだった。
美しい女性を連れて歩いていた彼の姿は、あれからアンの小さな胸を何度も痛めた。
でもきっと少尉さんは、あんな些細なことなど、すっかり忘れているに違いないわ。そもそも私のことだって気がいてないかもしれないもの。
「お、お久しぶりです。レイルダー少尉さん」
「ああ……アン、久しぶりだ。背が伸び……たか?」
レイルダーは眠そうな視線をアンに落とした。
「伸びましたよ。一センチだけですけど」
かつては鳩尾くらいまでしかなかったアンの背丈は、レイルダーの胸に届くまでになっている。髪がふわふわなので、実際よりもちょっとだけ高く見えるのは内緒だ。
「……少尉さんは、ご友人にヴァッツと呼ばれているのですか?」
「親しい仲間が勝手にそう呼んでいるのです」
レイルダーが答えないので、取り持つようにケインが答える。
じゃあ、あの女の人も、そんな風に呼んだりするのかしら?
少尉さんは女性にもてるって上級生も言ってた。夜会ではいつも違う大人の女性がそばにいるって……。
でも少尉さんが本当にお好きなのは……。
「レイルダーの名前は長いから」
ヴァッツライヒと言う、風変わりなレイルダーのファーストネームは、この国の人間には、やや発音が難しい。
「それにお嬢さん、少尉というのは階級称だから、レイルダーの他にも大勢いますよ。士官学校を出たら、皆一応少尉を任官しますから」
「でも、私には少尉さんは、少尉さんなのです! そうお呼びしたいのです!」
アンはまだつるぺたの胸を張った。
十四歳でこの平べったさは、本人も気にするところではある。少し発育が遅いようだ。
「そ、そうですか」
やや引き気味に、ケインは小柄な少女を見下ろした。アンの頑張る方向がよくわからなかったのだ。
「アン。カーマインに私が来たと伝えてくれるかい?」
前を行くフリューゲルが振り向いた。妻に気を遣っているのだろう。
「はい」
アンは男の見舞客を連れてきた父の気遣いを理解し、病室に入ってからしばらくして戻ってきた。
「お母さまは、お客さまを喜んでいらっしゃいます。退屈していたのですって」
「そうか。少しは元気なのだな。では、先に私が行くから、後でお前たちも会ってやってくれ」
「お二人はこちらに掛けてしばらくお待ちくださいませ。私はお茶を淹れてまいります」
それはアンの配慮だった。まずは父と母を二人きりで合わせてやろうと思ったのだ。
「うんと熱いやつを頼む。今日は冷えるから、アン」
レイルダーは手袋を外して指先で、暖かいアンの手に触れた。一瞬だけだったが、アンにはその冷たさが伝わる。
「ふーん……あれがフリューゲル中将のお嬢さんか。有名なご両親とは全然違うんだな。しかもあんなに幼い」
ケインはぱたぱたと給湯室に向かうアンを目で追いながら言った。
「奥方は……素晴らしい美人だよな? 俺、数年前に夜会で見かけたことある。お嬢さんとは全然似てないんだな」
「……」
「可愛いけど、どっちかつうと地味だよなぁ……」
「黙ってろ」
レイルダーは廊下の椅子に座って足を組む。つま先がケインの膝に触れた。
手に触れてもらった!
アンは湯を沸かしながら、レイルダーが触れた手に唇を寄せた。些細なことでも、アンの心は天にも登る気持ちなのだ。
いつも、どこか遠くを見てる半開きの瞳が、ほんの一瞬だけアンの方を向いてくれる。
宝石のようなその刹那。
給湯室の小さな鏡の中の自分は、喜びにはち切れそうな顔をしていた。
やっぱり大好き!
私はこの気持ちだけでいいのよ。
そう──少尉さんがどなたを好きでも……。
アンが茶器を整えて病室に向かうと、不意にレイルダーがこちらにやってきた。
「持つ」
「あっ! いいえ大丈夫……」
遠慮するアンの言葉も聞かず、レイルダーはひょいと盆を取り上げると、すたすた歩き出してしまった。
「勉強はどうだい?」
「はい。追試を受けたのは三つだけです」
「そりゃ優秀だ」
レイルダーは薄く笑った。
美しい彼の微笑みを見て、アンは盆を持ってなくてよかったと思う。きっと中身を全部こぼしていただろうから。
「アンはやっぱりすごいな」
「……本当にお久しぶりですね。お忙しくされていたのですか?」
「ああ……まぁ。あまり楽しくはないことだらけで」
「楽しくない? その……お友だち、に会ったりもしないのですか?」
思い切ってアンは尋ねてみる。女の人、と言う勇気はなかったが。
「俺に友だちはいないよ」
「おお! お茶がきた」
アンが何も聞けない間にフリューゲルが顔を出し、二人はそのまま病室に入った。
広い特別室の奥の長椅子にはフリューゲルが腰掛け、それにもたれるように母、カーマインが寄り添っていた。
男性に会うからだろう、きちんと着替えて髪を軽く結っている。その指には火のついていない細い煙草。
少しやつれてはいても、彼女は非常に美しかった。
その名が示す通り、燃えるような赤い髪と瞳。全てがぼんやりした色の自分とは大違いだとアンは思う。
当たり前だ。
優しくて大好きな母だが、血は繋がっていないのだ。
アンは産みの母の顔を写真でしか知らない。彼女が生まれてすぐに亡くなってしまったからだ。
「いらっしゃい、ヴァッツライヒ。久しぶりね。そして初めまして、ケイン中尉」
カーマインは鮮やかに微笑んだ。母は難しいその名を滑らかに発音する。ケインは非常に緊張した面持ちで敬礼した。
「初めまして奥方様! お目にかかれて光栄であります!」
「私も嬉しいわ」
「……」
アンはレイルダーを見ていた。
そしてレイルダーは母を見ている。
「失礼ですが奥様、病院でも煙草を?」
「そうなんだ、ケイン。言ってやってくれ。一日一本だけとか言うから許しているんだが、やっぱり体には悪いから」
「……そうですね」
レイルダーは母の細い指先を見つめていた。
「でもね、この香りを嗅ぐだけでとっても落ち着くの。心の安静だって健康には大事だわ。でも今は我慢する。アンもいるしね」
そう言って、カーマインは元の箱に煙草を戻した。国内ではほとんど見かけない、珍しい銘柄の煙草だ。
それはレイルダーが吸っているものと一緒の銘柄だった。いや、おそらくレイルダーが彼女をまねて吸いはじめたのだ。
アンは彼の仕事も、趣味も、好きな食べ物も何も知らない。ましてや過去のことなど。
けれど知っていることもある。
──少尉さんは、本当はお母様のことが好き。
それは、かねてからのアンの確信だった。
*****
カーマインとは赤色を意味します。
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