第6話 5 その人は誰ですか? 少尉さん 

「おいお前!」

 アンは誰にかけられた言葉なのかわからずに、すたすたと廊下を進む。小柄だが歩くのは早いのである。

 足の長いあの人に追いつくため頑張っているうちに、自然とそうなった。

「お前だよ! くせっ毛の地味女!」

「……」

 くせっ毛と言われて初めてアンは立ち止まった。

 彼女は絹織物のように艶やかで真っ赤な母の髪とは大違いの、自分の髪の毛が嫌いなのだ。

「なぁに?」

 追いついてきた少年──ヨアキムにアンは目を向けた。彼と一対一で話すのは、これが初めてである。

「さっきも言ったが、お前……ちょっとばかし乗馬ができるからって調子に乗るなよ」

「乗ってないわ。ローリエがおびえていたから助けただけ。さっきも言ったけど」

「ああ、あいつも勉強ができるだけの地味女の仲間だからな。地味同士で友達思いだな!」

 少年はアンと同じくらいの背丈だ。だからというわけではないが、アンは全然怖くなかった。これでも軍人の娘である。

 しかもアンは、あのレイルダーに恋しているのだ。同級生の男子生徒なんて目みも入らない。その辺の虫と同じだった。

「ええそうよ。あなたと違って友達は大事にするの。馬もね」

「ふん。これからは自動車の時代だ。馬なんか乗れたって役には立たないさ! 軍隊だってどんどん自動車を導入してる」

 ヨアキムは自分が虫と思われていることも知らないで、胸を張った。

「俺の父上はもう三台も持っているぞ」

「そうなの? その方がいいわ。優しくて賢い馬が戦争の道具になるなんて、可哀想だもの」

「生意気な女だな!」

「からんできたのはあなたよ。私はただ受けてるだけ。言いたいことがそれだけなら、もう行ってもらえるかな?」

「もちろん行ってやるさ! これだけを伝えにきたんだ、聞けよ。たとえ乗馬と言っても、俺は負けたままなのは我慢できない。今度の休日、俺とコース一周の勝負をしろ」

「私、別にあなたに勝ったとか思ってないけど……」

「うるさい! 俺が嫌なんだ」

 うるさそうに返事をするアンに、ヨアキムは顔を真っ赤にして言い募る。

「いいから勝負しろ!」

「でも、近衛の馬場は使用許可がいるから、勝手には使えないわよ」

「それなら大丈夫だ。俺の父が会員の馬場がある。郊外にあるから、迎えに行ってやる」

 少年は自慢げに言った。

「でもそんなの……できるかどうか、わからないわ。お父様の許可も取ってないし」

「それも大丈夫だ。俺の父上から話をつけておくから」

「え〜、お父様たちも巻き込むの?」

「うるさい! その代わり、俺が負けたらなんでも一つだけ、言うことを聞いてやる」

「そんな約束いらない」

 アンは心からげっそりして言った。

 勉強は自分よりもできるはずだが、どう考えても馬鹿だ。この少年があのレイルダーと同じ男性とは受け入れ難い事実だった。

「とにかく! 今度の休日、午後一時に迎えに行くから! いいな!」

 ヨアキムはいいたいことだけ言って、さっさと言ってしまった。


「嫌だなぁ……」

 同級生の、しかも男の子と過ごす休日なんて、普段のアンには考えられない。

 アンは休日は軍の編成や武器のことを調べたり、戦略の本を読んでいる。だから、学校でのことは、できるだけ学内ですませたいと思っているのだ。


 でも、乗馬かぁ……勝負はともかく、それは魅力的よね。

 久しぶりに甘栗号に会える。


 アンの家には現在馬はいない。

 前はいたのだが、今では厩は自動車用のガレージになってしまい、フリューゲル家の馬は、まさしく今ヨアキムが言った郊外の馬場に預けてあるのだ。

 甘栗号は父からアンにもらった馬で、年取った優しい雌馬だった。


 そして──次の休日。

 一時きっかりにヨアキムが迎えにきた。

「こんにちは」

 アンはあからさまに嬉しくなさそうな挨拶をするが、ヨアキムには通じない。

「早速出かけるぞ」

 黒塗りの車には彼一人が乗っている。アンの家も両親は不在なので、エレンの付き添いを断って一人で後部座席に乗り込んだ。

 父や母はあっさりヨアキムとの乗馬を許してくれたことが、ちょっと悔しい。彼の家、アルトラン伯爵家にはそれだけの信用があるのだ。

 車はすいすいと通りを進んで郊外の馬場に着く。

「お前んちの馬もいるんだろ? だったら勝負は公平だよな」

「うん……あ!」

 アンは馬丁に引かれてきた甘栗号に駆け寄った。

「久しぶりね! 甘栗号! 元気そうでよかった!」

「あ、あまぐりぃ? なんだそりゃ!?」

「だって、毛艶が栗に似ているから」

 アンは鼻面を寄せて甘える馬の相手をしながら言った。二人はまるで友達のように見える。

「そんなの、たいていの馬がそうじゃないか」

「いいじゃない。あなたの馬はなんていうの?」

「俺の馬は雷帝号だ! どうだかっこいいだろう」

「……へー」

 微妙な視線をヨアキムに投げかけて、アンは周回コースに入った。

「じゃあ。早速やりましょ」

 アンは嬉しそうな甘栗号の首を叩いた。

「お、おう!」

 ヨアキムの連れてきた運転手がスターターである。白い旗が振り上げられ、二頭の馬は同時に走り出した。


 甘栗号が走り始めた途端、アンは勝負を忘れ、ヨアキムのことも忘れた。

 ただ、馬と一体になって風を切り裂き、空を、雲を追いかけることしか頭に無くなったのだ。

 夏の終わりの風はどこまでも心地いい。色褪せ始めた木々の緑も美しかった。

 気がついたら、とっくにゴールを追い越して二週目を駆け抜けていた。

「あれ? 私なにしてたっけ?」


「お前……ほんっと乗馬だけは上手いのな」

 帰路。

 車の後部座席に並んだヨアキムは悔しそうに言った。

「そうね。本当にそれだけだけど」

 競技の結果は明白で、アンは三馬身ばしん以上の差をつけて余裕を持ってゴールしていたらしい。彼女自身は気がつかなかったが。

 これにはさすがのヨアキムも、文句のつけようがなかったようだ。

「悔しいけど、負けは負けだ。約束だ。言ってみろ」

「なにを?」

「一つだけ言うことを聞くって言っただろ?」

「……」

 できたらもう話しかけないで欲しいと、通りを眺めながらアンが言おうとしたその時──。

 車窓から見間違えようのない人物が目に入った。

「あ……」

 すぐそこの歩道をレイルダーが歩いている。私服で。女性を連れて。

 その時信号が点滅し味め、車がゆっくりと停止する。

 歩道をゆく女性の顔はこちらからは見えない。しかし、流行の素晴らしい服を着て、明らかにはしゃいでいるのがわかった。レイルダーの腕に自分の腕を巻き付け、もたれかかるようにして歩いている。

 レイルダーの顔は、いつもとそんなに変わらないが、女性の歩幅に合わせてゆっくり歩いている。


 少尉さん……。


 アンの肺は急にすぼまり、呼吸がしにくくなった。指先がどんどん冷えていく。

「……」

 ふと、レイルダーが視線を傾け、車内のアンと目が合った。

 金色のまつ毛に縁取られた瞳が、いつもよりも少しだけ大きくなる。彼は驚いたのだ。

 信号機が変わって車は発進し、彼の姿は背後に遠くなる。アンは後ろの窓から彼の姿を見つめることはしなかった。できなかったのだ。

「アンシェリー・マリオン・フリューゲル!」

 フルネームを呼ばれてアンは我に帰った。

「……っ!」

「なにをぼんやりしてる!」

「え? ああ……別に」

「ごまかすなよ。お前が見てたのはフリューゲル閣下の、側近の男だろう? 俺知ってるぞ。あいつに見惚れてたのか? 女連れだったな」

 ヨアキムの言葉は鋭くアンの胸に刺さった。

「え、ええ……知ってる人だったから……えっと、それで話ってなんだっけ?」

 アンは動揺を押し殺しながら隣の少年へと視線を戻した。彼は奇妙な顔でこちらを見ているが、もうどうでもよかった。

 アンは、訳のわからないこの感情から、少しでも目を逸らしたかったのだ。

 一刻も早く一人になりたい。

「なんでも一つ言うことを聞いてやるって話。お菓子とか、花とか。欲しいものを言ってみろ。買ってやる。ドレスでもいいぞ」

「……ああ、そうね、とりあえず家まで急いで欲しいわ」

「……ふん」

 心ここに在らずのアンに肩をすくめ、ヨアキムは運転手に急ぐように命じた。

 アンの心は萎んでしまった風船のようだった。


 ああ、やっぱりそうよね。

 わかっていたことだから、今さら傷つくことなんてないのよ、アン。


 そうして、アンの学園での最初の年度が終わった。

 


   *****


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