置いてけぼりの森 其の七

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     5


 田んぼを抜けると、集落の明かりがほつりほつりと見え始め、私は泥にまみれながら近くの民家まで駆けつける。軒先に出てきた家主に助けられ、その後は一気に救急車やらパトカーが押し寄せて来た。子細はもう思い出せない。

 ただ、助けを求めた先の家主のおじいさんに森を抜けて来たことを説明すると、それまで親切だった対応が途端に腫れ物を扱うかのようになったことは覚えている。

「帰ったら、森で見聞きしたことは忘れなさい。それから祈祷師に頼んでお祓いをしてもらいなさいな……それから……可哀想だが、級友さん達のことは諦めなさい」

 それから不可解なことが相次いだ。

 バスが崖下の森に転落した日から少なくとも一夜は経っているのにも関わらず、私が助けられたのは当日の日付の午後九時丁度であったこと。

 事故が起きてから一週間が経つのに、警察や消防が転落したバスと乗客を発見できないこと。

 これは私の入院先の病院に事情聴取に来た刑事の人から聞いた内容であるが、刑事の人達も私の話に首を傾げるのみで何だか話が噛み合わない。

 しばらくはニュースや新聞でも取り上げらていたが、私を尋ねる警察官の回数が減るごとに事件は風化していった。

 そして私が退院する頃には完全に誰も取り沙汰されなくなり、根本的に何も解決されないまま日常に戻らされた。

 それでもたまに瀬野君や柘植野さんや嘉川さんや優太の親が家に訪問してくる。父や母は私に気遣って部屋に籠ってなさいと言うけれど、時折応接間から彼らのすすり泣く声や怒声が響いてくる。

 親族や担任は皆は口を揃えて「忘れなさい」と言ってくる。その方が楽だと。

 私も自分が見たものが信じられないと思える時もある。頭を強く打って変な幻覚を見たのだと……むしろその方が気持ち的にも楽なのだ。しかし、それでいいのか? と自らを責める声も確かにあって、日がなぐるぐる考え込んで、ついでに色々と思い出して嘔吐することもあった。

 ただ時流に身を任せるうちに悲哀や後悔といったものは薄れ、磨耗していくのも事実で、社会人となる頃には当時の喪失感さえ朧気なものとなっていた。


 月日は流れて、気付けば私は母校の教師になっていた。そして、何の因果か文芸部の顧問を任されている。卒業してから僅か数年のうちに学生増加による校舎の建て替えと増設が行われ、あまり私が知っている造りではなくなってしまったけど、全く知らない場所にいる訳ではないという安心感が漠然とそこにあった。やはり母校というのは偉大だ。

「ゆうこりん先生はこの学校の文芸部だったんですよね」

 部活指導という名目で業務を休憩する傍ら、部室でお茶を飲んでいると東雲さんが話しかけてきた。 私は「その呼び方はやめなさい」と答えると、彼女は「先生が学生の頃の部誌に目を通したいんです」と控えめに申し出てきた。

 東雲さんは文芸部の部長で、去年に卒業した三年生と入れ替わるように入部してきた。当時は二年生がいなかった為、一年間は彼女が実質一人で運営していたようなものだ。今年に一年生の仙台さんや菊池君が入部していなければ廃部の危機もあっただろう。

 その二人は少し離れた席で「だから言ってるじゃん! 『不思議の国のアリス』の方がキャロル!ディゲンズじゃねーって」「わかりにくいなぁ……『クリスマスキャロル』もキャロルで良くね? 同じキャロルじゃん」「あんたバカァ?」何やら仲睦まじく便覧を広げ、古典の小テスト勉強に励んでいる。

 おおっといけない、と、意識を東雲さんに戻した。

「ええ。構わないけどまだ残っているかしら……ひょっとしたら図書室の書庫にあるかもしれないけれど、でも、何に使うの?」

 大昔の部誌なんて本当に何に使うつもりなのか。尋ねると東雲さんは、「実は文化祭で過去の作品の展示を行おうと思ってて」と少しはみかみながら答える。なるほど。と、一瞬理解しかけるが途中で、あれ、と思う。

「どうして私の時のものを……?」

 よくよく考えたら、それって当時の私の詩なり短編なりを生徒達に読まれるというわけで……黒歴史の公開に繋がりかねないのではないか。しかし、東雲さんは上目遣いで私を見る。

「駄目……ですか?」


 その日の下校時刻を過ぎて少しが経った夕刻頃、私は図書室の書庫で棚を漁っていた。東雲さんが入部した当初の申し出であったのならあっさりはぐらかしていたというのに、人付き合いというのはげに恐ろしい。

 いや。

 彼女は一生懸命部活に取り組んできた。この一年間、廃部寸前の部活であったのに、一年生の身分で一人で切り盛りするのはさぞ大変だっただろう。その姿を近くで見ていたからこそ、私は彼女に協力したいと思ったのだ。

「それにしても……見つからないな」

 書架には状態が悪くなった図書や知名度の低い古典文学、その他、歴代生徒の卒業アルバムや文集等が不規則に並んでいる。状態不良で読めなくなった本はともかくとして、誰からも読まれずにこうして埃をかぶっていくことを思うとこの背表紙達が不憫だ。一度、大掃除の際にでも一挙に文芸部に持ち運ぼうか。あそこならもしかしたら誰かが興味を示して読んでくれるかもしれない。

 そんなことをぼんやりと考えながら、数冊のハードカバー本を棚から取り出した時だった。

「あ」

 棚の奥の方にB5サイズの少し厚めの冊子の背表紙が覗いた。何だか見覚えがあるような気がして、つい反射的に引き抜く。装丁は和紙だったか……ただ年月を経て紙魚が食い、よりざらっとした感触が指先から伝わってくる。しかし、どれ程の年を取っても懐かしみのあるものは肌で覚えているものか。

 天の部分の埃を払ってさくいんの頁をめくると、そこには当時の文芸部員一同の名前が羅列されている。部長であった『嘉川夏音』をはじめ、『瀬野義隆』『柘植野笙子』『中村優太』そして、『二ノ宮結子』。

 ぐっ。

 胸焼けのようなものが一気に込み上がってきた。その理由に心当たりが無いと言えば嘘になる。結婚して私は二ノ宮姓から佐伯姓に変わった。その頃にはもう殆ど彼らの事を忘れていて、私一人がしっかり大人になっていた。でもそれは、言い換えれば四十年余りの時間、目を逸らし続けて来たということではないだろうか。

 あれから私は、一度でもでもあの森に立ち向かっただろうか。

 あの出来事について、あの地の文献等を調べたりしたのだろうか。

 いや、私は逃げていたのだ。あの森にいた時から、ずっとずっと逃げ続けていた。見捨てない、見殺しにしないと嘯いて、何も成し得なかった。私は。

「佐伯先生、大丈夫ですか」

 肩を叩かれ、はっと我に返る。見上げると、柳田先生の心配そうな目と目が合った。

「先生の姿が見えないので心配になって来てみました。見たところ体調が優れないようですが」

「いえ、大丈夫よ……ありがとうね」

 とは言いつつも気付けば窓の外は真っ暗で、いつの間にか私はしゃがみこんでいた。どっ、どっ、と胸に残る動悸を押さえながら、私はどれ程の時間をここでぼんやりしていたのだろう、我ながら慄く。

「とりあえず、ここから出ましょう。何だか、あまり良くないです」

 良くない、というのがよくわからない表現だったが、差し出された手を素直に掴む。すべっとしていてひんやり冷たい手。今年に赴任してきた若い先生であるが、実のところ顔立ちが中性的すぎることと後ろでくくられた長髪のせいで未だに性別がわからないでいる。失礼なので本人にはさすがに聞けないが、私と同じことを思っている生徒や先生は他にもいるのではなかろうか。

 ふと力を込めるだけで私を引き上げるあたり、やはりこの人は男なんだろうか。そんなことを考えていると、気が付けば柳田先生は二重瞼の鋭い目で私を見ていた。

「えっと」

「森のことは忘れてください」

「……え」

 ぎくっとして聞き返そうとした。しかし、その頃には既に柳田先生は書庫から退室していて「ちょっと」私も追いかけるように廊下に出たものの、彼の姿は煙の如く消えていた。

 ただ、廊下の奥。仄かな闇の中。消火栓の赤いランプに混じって、何かがじっとこちらを見ている。そんな気がした。


 夫とは見合いで出会った。

 母が独り身の私を見かねて紹介してきたひとだった。六年年上の、車会社の営業マン。煙草も吸わなければ酒も飲まない。一見して不器用そうなひとではあったが、その分真面目さが垣間見えた。そして見合いが終わる頃にはなんとなく好印象を抱いていた。

 正直にいうと見合い自体は最初乗り気では無かった。教職が板につき始めた頃で、それなりに日々忙しく送るなか、男に時間を費やしたいとも思っていなかったのだ。

 しかし、見合いを経て交流を続けるうち、彼の真摯さと誠実さが私の中で着実に信頼に繋がっていった。知り合って数ヶ月後に交際が始まり、数年後には籍を入れていた。

 結婚生活はそれなりに楽しかった。

 勿論、夫婦喧嘩もしたけれど後になって内容も思い出せないような些末なものだったし、何より彼は浮気や賭博といっただらしないところは一切無い。子宝には恵まれなかったが、それでも良いと思える程には夫婦生活に満足していたのだ。

 一年前に夫が癌で倒れた時は、大きいショックを受けたものだ。

 救急車で運ばれ、その時は一命を取り留めたものの医者からは癌が腹膜の臓器に転移し手がつけられない状態であると説明を受けた。

 いわゆる、ステージ4。

 余命は一年間もつかどうか、といったところだ。

 試せる民間療法はどれも尽くしたがあまり効果を得られず、抗がん剤や放射線台治療に移行しているものの治療が芳しくないため入院している。見舞いには一日一回行くようにしているが、日に日に衰弱しているのが見て取れる。最近は寝てばかりの時が多く、痩せ細り浮き出た頬骨と、真っ白くなった肌を見る度心がざわつく。

 どうしてこの人が。

 家から持ってきた水筒を取り出しオーバーテーブルのコップに茶を注ぐ。暖房が効き過ぎているのかここの個室は少し暑く感じた。これでは目覚めた時に喉が乾くだろう。

「……るだろ」

 聞こえた。

 見れば夫は目を閉じたまま、唇を微かに動かしている。それは、ぼそぼそ、と何だかうなされているかのような。

「あなた……」

 きっと嫌な夢を見ている。

 身体に痛みが巡ってきたのだろう。私は起こそうとして、その肩に触れた。それと同時。夫の身体がバネのように跳ねた。私は咄嗟に仰け反ったが、今までにないような強い力で手首を掴まれる。

「っ」

「覚えてるだろ」

 ひどく低く、重たい声。とても夫の声とは思えない。夫は白目を向いたまま、起き上がって私の手首を掴んでいる。

「はなして……!」

 オーバーテーブルからコップが落ちる。コツン、とプラスチックの乾いた音が床から聞こえる。

「覚えているはずだ。あの森で教えただろ」

「やめて……!」

「は、はは、はは、は」

 夫は、いや。

 夫の姿をした何かは、涎を滴らせけがらわしく嗤う。手首はまだ掴まれたまま。私は残った方の手でナースコールボタンを殴打する。微かなブザー音がどこからともなく聞こえ、間もなくして看護師数人が部屋に押し掛けてきた。

 看護師に押さえつけられ夫はようやく掴んでいた手を離し、私はその場にへたり込む。看護師の内の一人が「大丈夫ですか」と私を立たせて側の椅子へ座らせてくれたが、間もなくして暴れる夫の対処へと回った。そしてそのまま夫は寝台ごと緊急処置室に運ばれ……程なく夫は亡くなった。


 私は森で何を教えてもらったのか。

 でも、何に?

 うん。実は覚えている。

 葬儀が終わり、私は日常に戻った。夫をいたむ気持ちもあったけれど、私は出来るだけ当時の事を鮮明に思い出しながら、ノートに書き連ねる。


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 ノートには、以上の内容が加筆されていた。

 閉じて、焼却炉に向き合う。ダイオキシン発生云々で廃止されて久しく、しかし物自体は廃棄されることなくひっそりと校舎裏て錆の餌食となっている。鉄扉を引っ張るとガビと重々しく蝶番が擦れる音がした。

 右手にはライター。この場所は人気の無い事から不良生徒の喫煙所と化している。そのおかげで探せばすんなり見つかった。ここでノートを燃やして焼却炉に放り込んでもおそらく大事にならないだろう。

 フリントホイールを回すと、しゅっという音と共に小さな火が点く。肌寒くはあるが無風であり、火が簡単に消えることはない。

 ただ今一度、これでいいのか、と自問自答する。

 あれから。

 瞼の向こうから明るいものを感じ目を開けると、窓の外は優しい明かりが差していた。携帯で時刻を確認するとしっかり日本時間が表示されていて、冬休み初日の朝方を迎えたことを知る。

 部室を見回すと、扉の際に仙台さんが倒れていた。そして、開け放たれた扉の奥。廊下には菊池君と、その隣に東雲さんが倒れていた。

 少しぎょっとしたが、三人とも健やかに寝息を立てている。部室も廊下も寒く、このままでは風邪をひくかもしれないと起こしたかったが、おそらく何が起きたのか覚えていないだろう。

 それに親が行方不明届けを警察に出しているだろうから既に大事になっている可能性は充分にある。騒ぎとなっても面倒なので、机の上に置かれたノートを手に取り、文芸部を後にした。

 今に至る。

「……」

 やはり儀式は失敗した。

 佐伯先生は間違いを犯したのだ。

 そしてその代償は、本人にかえってくる。

 仕方の無い事だと自らに言い聞かせて、胸に去来きょらいする虚しさを抑えて。

 深呼吸をしてノートの端にライターの火を近付けた。

「待って」

 後ろの方から声が聞こえた。

 振り返り、そこに立っていた人物に軽く驚く。

「……起きてたんですか」

 東雲さんは少し疲れたように手を膝につけながら、ゆっくりこちらに歩いてくる。

「目が覚めたら、丁度君が階段を降りていくところだった……どうして起こしてくれなかったの」

「騒ぎになると面倒なので」

「皆で旅行に行くって約束したでしょ」

 何故、と思う。

 どうして覚えていられるんだ。

「多分、この子が守ってくれたんだ」

 彼女は、はい、と脇に抱えていたそれを差し出した。鶏のフードを被ったそいつはーーぴーすけは、ふん、とどこか誇らしげに笑っているように見える。

 でも、そうか。他の二人と比較すると、東雲さんとは長いこと一緒にいた。その上、ぴーすけの存在まで知っているとなると、或いは。

「君のところのひよこさんは優秀だね」

「……どういたしまして」

 ライターを一旦ポケットにしまい、ぴーすけを受け取る。ふむ。真冬の外なのに何だか少し温かみがある。……さっき東雲さんが寝てた時、どこにいたのだろうか。一見してわからなかったが。

「それ」

 東雲さんがすっと指差した。その指の先にあるのは、手に持っている例のノート。彼女はおそるおそるという風にこちらに尋ねる。

「それは、本当にあったこと、なんだよね?」

「おそらくですが」

 佐伯先生が当時の事を思い出して綴ったものだ。

 そうでなければ、あれ程の事にはならなかっただろう。

「佐伯先生が体験した『死』にまつわる事象。それを東雲さん達に読ませることで『認識』させて、反魂の呪いは始まります」

 いささか荒唐無稽な内容だったので、単なる創作かと思っていた。

 例えば、いくら巨木だからといって、重さ15トンはあろう観光バスを支えられる樹木など日本には存在しないだろう。よしんばあったとしても、国道沿いの辺鄙な森に生えていたりするものか。

 でも、森自体が異質な場所となると、話が変わってくる。

「どういうわけか、たまたま神域で不幸な事故が起きた……今もこのバスは見つかっていないそうです」

 告げると、東雲さんは「そっか」と小さくこぼしてうつむいた。その所作は手記に登場してきた彼らを悼んでいるようにも見える。……そうか。この人は、嘉川さんを受け入れることができるくらいに優しいのだ。

 きっと、彼女もハッピーエンドを願ってやまなかった。

 でも。だからこそ強く言わなければならない。

「佐伯先生はあなた方を利用しようと考えた。彼女に同情するのは間違いです」

 東雲さんは二年近くもの間、佐伯先生を慕ってきた。そんな人が自らの闇に囚われ、結果的に森に連れていかれた。だなんて、信じたくないだろう。

「冷たいんだ」

 鼻声になって、東雲さんはうずくまった。

 その背中にどう声をかけようか……そもそも声をかけるべきか。いや、今はお互い知っている仲だ。何を迷う必要があるのか。

「……きっと佐伯先生は、森を抜ける前に得体の知れない『何か』と出会い、今回の呪いを教えてもらった。心の弱さに付け入られたんです。でも……東雲さんには『死』を受け入れる強さがある」

 受け入れなければ、東雲さんも佐伯先生の二の舞になるかもしれない。それだけは、絶対にあってはならないことだ。

「このノートは処分します」

 ノートを広げ、ビリッと半分に裂いた。そして半分を東雲さんに差し出す。彼女は訳がわからない風にこちらを見上げ、首を傾げた。

「残りの半分は持っておきます……旅行先で、二つ合わせて処分しましょう」

 東雲さんはゆっくりノートの半分を手に取り、それから涙目で少し笑った。

「君は、冷たくて優しいんだ」

「約束ですから」

 ポケットからライターを取り出し、出来るだけ遠くへ投げる。そして、投げた先の茂みの中でばすっと音がして、続いて何かがざざっと捌ける音が微かに聞こえた。鳥等の小動物だったかもしれないし、或いはもっと別の何かだったかもしれない。ただ、何だって今は構わない。

「旅行は、東北の方がいいです……勿論、新幹線で行きましょう」

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