置いてけぼりの森 其の四

     ✕✕✕✕✕✕


     4


 肌寒さと若干の吐き気に目を覚ました。

 周囲は少し明るく、夜が明けたのだと理解するのに時間を要する。それからぼうっと車内を見渡した後、その惨状に胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

 瀬野君。

 柘植野さん。

 そして、嘉川さん。

 一昨日まで何気なく顔を合わせていたのが、今では嘘のようだ。一瞬で日常から奈落に突き落とされ、かろうじて私は底に落ちきっていないが、奈落は奈落。地獄の中でまだ死んでいないだけだ。

 そう、バスは死を運んだ。

 そのことを理解するのに秒は要らない。

 ぐるぐると考え始めれば、なりをおさめていた吐き気が一気に頂点に達し、えずいた。何も食べてないないので胃液しか絞り出せない。

「……探さなきゃ」

 最後の一人を。

 のそっと立ち上がり、降りれそうな箇所を探す。

 昨日は脱出を試みる余裕なんて一切なかった。そんな心境にすらなれなかった。でも今は、ここに私が居続ける理由がない。

 大きく割れた窓から、ガラスの切っ先が触れないように枝をつたい出た。

 なるたけ幹に近くて太い枝を選び、恐々と足をかける。足元の枝が、パキ、といたずらに音を立てれば身がすくむ思いで幹にしがみついた。半ば思いつきで外に出てみたが、想像していたより早くに後悔が訪れた。

 さわさわと風に揺れる葉が肌をくすぐり、野太いのに木肌が湿気でつるつるした。靴のソールが滑る度に落下の恐怖が全身を駆け巡る。今は下を見てはいけない。嘉川さんの事を思い出しかけ、目を閉じて頭を横に振った。気分を紛らわすために頭上を仰げば、数メートル先の上空で全長12メートルはあろう観光バスが子供の悪戯のように巨木に突き刺さっている。「……」

 こうして端から見ると何かの冗談みたいだ。でもさっきまで私はあの中にいたのだ。そして今も私は場違いのような出で立ちで空中散歩をしている。

 体感よりもバスから離れていた事に軽く驚いて、今更後戻りはできないということも思い知る。

 どっ、どっ、どっ、とうるさい動悸を無視して、手足を動かす。

 広葉樹林なのか、幸いにも横に伸びる枝が多い。

 時間はかかるが、慎重に下れば安全に地上に降りられる。はずだ。

 そう盲目的に信じて、下へ、下へ。

「はぁっ、はぁ」

 寒かったはずなのに、いつの間にか身体が熱かった。額から流れ落ちるのは葉からこぼれた朝露か、吹き出た汗なのかすらもわからない。背筋には熱気がこもり、ちょっとだけ喉が乾いた。

 最後に木登りをしたのはいつの頃だっただろう。同性の友達の中でも体力には自信がある方だった。幼い頃は無茶をして公園に植樹された木のてっぺんまで登ったこともある。

 それが、いつしか虫が苦手になり、股を開いて枝に足をかけることを下品に感じるようになった。私は男勝りな方だったけれど、着実に年頃になっていった。

 今は好きな人だっている。

 確かめなければならない。

 登る方ではなくて降りる方だけど、それはそれで体力を使うものだ。バスから地上までの高さは目測でビル三、四階ほど。それが三階、二階と徐々に地面との距離を詰めていく。見える景色も段々と変わっていき、空は遠ざかる。

 そして。

 ずっ。

 と、足で土を踏みしめた。

「は、はは」

 腰が抜けたようにその場にへたり込み、頭を垂れる。空中で浮いていた箱の中より安定感がある。当然か。そうやって茫然として、どれくらい経っただろうか。気が付けば目尻に涙が溜まっていて、顔を上げると一気に頬を流れた。

 やっと、立てる。

 いや、立ち上がらなくてはならない。

 歩いて、周りを散策しないと。

 震える脚に言い聞かせ、枯れ木や枯れ葉に埋もれた柔土を、その場にそぐわないスニーカーで踏みつけながら進む。時折、ガチッと金属のようなものを踏んだかと思うと、それは時計だったり、眼鏡だったりした。

 見上げると、枝に引っ掛かっていた中年男性が、一人生き残った私を恨めしそうに見ていた。咄嗟に下を向いて、忘れろ、と念じる。よく考えれば乗客は私達文芸部員一行だけではない。辺りを見渡すとあちこちに骸が横たわっていて、バスの中同様、死の臭いが立ち込めている。

 嘉川さんの遺体も、この近くに……。

「っぷ」

 無意識に探し始めた自分を窘めるかのように、猛烈な吐き気が襲ってきた。嫌だ。もう、こんな。「おい」

 小さく、声が聞こえた。

 痙攣する背筋を無理やり伸ばし、周囲を見渡した。いる。ここにいる。声を発したかったが、どこから聞こえた声なのか見当もつかない。森のざわめきを人の声と聞き間違えたのか。そう落胆しかけた時だった。

「ここだ」

 また、聞こえた。

 喉が押し潰されたかのような、掠れた声。しかし、なんとなく聞き覚えのあるような感じがして、咄嗟に返事をした。

「優太?」

「その声は、結子か……?」

 ガサッと音が聞こえたのは、先にある小さな土手の下。駆けつけると、わずか数メートル下に馴染みの顔を見つけた。

 中村優太なかむらゆうた

 彼は、驚いた顔でこちらを見上げる。

「あぁ……これはちょっとたまらないな」

 それ以降は言葉を失ったかのように口をパクパクさせ、その頬を涙がつたい落ちた。私も同じ気持ちだった。これは奇跡だ。

 私は咄嗟に足下の草を蹴り、緩やかな斜面を探す。意外とすぐにそれは見つかり、土がなだらかに盛り上がった箇所を踏みつけて半ば勢いに任せて駆け下る。

 一目見てわかった。彼は歩けない。一命は取り留めたものの、落下の衝撃で脚の骨を折ったか最悪、腰や背の骨をやってしまっている可能性すらある。

「はぁっ、ふぅ」

 優太のもとに辿り着いた。依然として彼は土手に背を預けたまま立ち上がる様子もない。それもそのはず。予想通り、彼の右膝は赤黒い血が滲んでいて、爪先はあらぬ方を向いている。

「優太……脚が……」

「脚だけで良かった。歩けないくらいで済んでる」

 彼は優しげな笑みを浮かべて顔を上げる。怪我の状態からしてそんな余裕はないはずだ。苦痛でのたうち回っていてもおかしくはない。なのに、その瞳には落ち着きが窺えた。

「……ここに一人で来たってことは、他の皆は……」

「……うん」

 私は、瀬尾君、柘植野さん、嘉川さんの事を話した。優太は最後まで、うんうん、と首を縦に振って、途中で聞き返したり話を遮ったりすることはなかった。それが彼なりの配慮なのだろう。最初は冷静に発していたはずの声が話し終える頃にはどうしようもなく震えていて、おそらく聞き取るのに難儀したはずだ。

「私は……何もできなかった」

 彼女達の最期を傍観することしかできなかった。自らを責める声が内から押し寄せ、とどまらない。今にも押し潰されそうな気持ちで、いつの間にか優太の顔をまともに見れなくなっていた。

「わ、私は、は」

「……結子」

 ぴと。頬から冷たい感触が伝わり、それが彼の手と気付くのに少しかかった。

「よく、頑張ったんだな」

 続くその一言に、身体の震えが止まった。自責の言葉でできあがったもやみたいなものがゆっくり晴れていく。そしてその晴れ間に彼の顔を見た。まるで魔法のようだ。私は黙って彼を抱き締めて、ただただ泣いた。


「もうじき夜になる」

 涙が乾いた頃には夕焼が空を覆っていた。優太は神妙な面持ちで私の肩を掴む。どきっとして彼に向き直った。

「正直に言うと、助けて欲しい。だが、この脚じゃあ歩くことはおろか立ち上がることすらできない」 彼は淡々と言う。

「お前だけでも逃げろ」

 さあっと森がさざめいた。

 私は、彼が何を言っているのかわからなかった。私の話を聞いていなかったのか。私は、もう誰一人として見殺しにしたくないのに。

「……まだ、見てないんだろ」

 ぐっと、肩を掴む力が増した。

 少し痛い。でもそれ以上に彼の目が怖かった。「な、何を」

 聞くと、我に返ったように彼は慌てて肩から手を離す。そして取り繕うかのように「何でも」と答えた。

「……?」

 肩をさすりながら、優太を見る。彼はさっきよりも息が荒く、何かに怯えているように感じた。だけど、何に……? 私は何を『見てない』のか。私の疑念が伝わったのか、彼はうつむけていた顔を上げてこちらを見る。

「俺は見ての通り歩けない」

 彼は右脚をさすりながら、「もう、感覚すらないんだ」と独り言のようにこぼす。膝に滲んでいた赤黒い血は、今や泥のように凝り固まっている。壊死が進んでいるのだろうか、ズボンの下の惨状を想像すると寒気がした。

「……でも、放ってはおけない」

 彼の側に寄りその手を握る。さっきより冷たく、わずかに震えがある。近くで見ると唇も徐々に紫色になりつつある。これは、良くないのではないか。

「……最初は、俺だけじゃなかった」

「え」

「バスから落ちて生きていた人が、もう一人いた」

「っ」

 その言葉をにわかに信じることができなかった。

 しかし彼は、何かを決心したように、ゆっくりと先を続ける。

「中年の男の人で、俺より重症だったが、なんとか会話ができたんだ。家族の話とか、学校の話とか……痛みを紛らわすために俺たちは何でも話をした。だが、辺りが暗くなってきた。丁度、今みたいに」

 木陰の影が濃くなり、少し冷え込んできた。

 陽が落ち始めたのだろう。この森が夜闇に静まることを想像して身震いした。そういえば、ここはバスから見下ろしていた『底』の果てだ。こんなところに優太はずっといたのか。彼と、そのもう一人の誰かは。

「その人は、そこにいた」

 優太はさすっていた手を持ち上げ、私の肩越しを指差した。振り返る。あるのは木立の合間にある枯れ草と落ち葉。倒れている人なんてどこにもいない。

「優太……何を」

「夜になって、会話も限界が来た頃、俺は少し、ほんの少しだけ寝入ってしまった。……そこに人がいるという安心感もあったんだ」

 彼の声が少し震えた。仕方がない、と、正当化して、でもそれが単なる言い訳だと薄々気付いているかのような。

「『あれ』が、『あんなの』がいるなんて思わなかった」

「ゆ、優太?」

「野犬や熊なんかじゃない。大きな目と、大きな口があった。髪が長いやつもいれば短いやつもいる」「ちょっと」

「食われてた……! 生きたまま……!」

 優太は縋るような目で私を見た。その顔は青ざめ、先程までの余裕はどこにも残っていない。私は彼の手を握り直し、静める。

「落ち着いて……私は……優太だって、もう誰も見捨てない。そうでしょ」

「でもここで俺に構ってたら、夜が!」

「優太が何を見たのか知らないけど、私だって放ってはおけない」

 取り乱す彼の右腕を持ち上げ、半ば無理やり肩に回す。優太は「やめっ」抵抗するが、彼に左足に力を込めるよう促した。やがて彼は大人しくなり、こちらに体重を預ける。

「脚がっ」

「我慢して!」

 私も両足で踏ん張り、なんとか立ち上がる。それから優太の右脚の分を私が担い、二人三脚の要領で一歩ずつ前へ踏み込んでいく。すると、意外とすんなり進んで行くことができた。

「は、はは」

 歩ける。二人で。

 それがなんとも嬉しく、思わず声に出して小さく笑う。移動が可能だとして、こんな森の中に行く宛など何処にもない。ただ、優太や私がいた場所に留まり続けるのだけは絶対に避けたかった。死体が沢山あるということは、きっと、ここでは何かを寄せ付けるということだ。

 優太の話を全て真に受けた訳ではない。

 しかし、身に覚えが無いと言えば嘘になる。

 あの時。バスからカーテンで作ったロープをぶら下げ、嘉川さんを助けようとした時。私は何かの視線を感じた。それは、近くの枝から私を見ていた。 ロープが切れたのは耐久性が無かったからかもしれない。単なる布きれの寄せ集めだ。それに、人間の体重を支えるような強度などカーテンの繊維に期待してはいけなかった。

 でも。

 でも、もしあれが、事故ではなかったら。近くの枝にいたものが下って行ったように見えたのが、見間違いではなかったとしたら。

ーーくれ。

 あの時聞こえた言葉みたいな声。

 あれが「寄越せ」という意味の「くれ」だったとしたら。私は何を奪われた? 誰を、何に、奪われた?

「……結子? 顔色が……」

「な、何でも、ない」

 忘れろ。

 そう念じて、掘り起こしかけたものを必死に埋める。今は、二人で生き残る。それだけが最優先だ。決して余計なことは考えるな。何も。

「お前は、何も悪くない」

「えっ……」

 思わず脚を止める。しかし優太から「ほら、行こう」と促されたことで、ふと我に返った。脚を動かし始めたところで彼が先を紡ぎ出す。

「さっきから結子は自分を責めている節があって、気になっていた……思い過ごしだったらいいんだ。忘れてくれ」

「う、ううん。少しだけ気が楽になった。ありがとう」

 本心だった。大した怪我のないまま生き残ったこと。本来ならそれは喜ばしいことなのに、瀬野君達のことを考えるといつの間にか塞ぎ込んでいる。それが、きっと優太には伝わってしまうのだろう。「皆、結子がそばにいて救われたと思う。それは誇ってもいいんじゃないか」

 優太が優しく微笑む。対して私は、心のどこかでその言葉に甘んじきれない。

「……でも、私にも、何か、他にもやれることがあったんじゃないかって」

 皆、苦しんでいた。

 怖がっていた。

 予想しえなかった「死」という概念が痛みを伴って迫って来ることに対して。

 だけど私は、大丈夫だよ、という無責任な言葉しか投げかけてやれなかった。何なら、柘植野さんが苦しむ姿を見て逃げ出したいとさえ思ってしまった。そんな私が彼ら彼女らに誇れるものなんてあるのだろうか。

 だけど、私の葛藤をよそに優太はあっさりと首を横に振る。

「俺達にできることなんて、限られてる」

「そんなこと……」

「どうしても変えられないものがある。時代の流れだったり、老いであったり。……そして俺達がたまたま直面したのが、『死』だった」

「……」

「結子は、できる限りのことをしたんだ。……でも、それ以上の事をしようというのなら、それは傲慢に近いんじゃないか」

「私は……」

 言おうとした時だった。

 がさ。

 何かが視界の端を横切る。小柄な……小動物みたいな。それは木の幹に隠れたかと思うと、一気に上へ駆け登って行った。えらく素早く、薄暮の闇の中ではその姿を捉えるのは難しい。

「どうした?」

 気付いていなかったのか、優太が脚を止めた私を怪訝そうに見る。

「鼠……みたいな生き物が」そこに。

 そう言い終えるより先に彼が「ここから離れるぞ!」と血相を変えた。その動揺ぶりに、きゅっと胸が引き締まる。まさか、今のが。

「小さいのも大きいのもいるんだ……! 土の中や木の上に潜んでたりする」

「た、ただの小動物とかじゃあないんだよね……? リスとか鼠とか」

「そう思うなら上を見てみろ……! あまりおすすめはしないがな」

「う、え?」

 言われた通り見上げる。

 夕空をバックに、幾重にも重なる枝葉のシルエットが浮かんでいる。しかし、その輪郭は今や夜闇に溶けつつある。

「……何も、見えない。あ、いや」

 びか。

 一斉に、森中が赤い光を放った。

 そのように見えた。それは一つ一つが爛々と光っていて、大小それぞれである。そして、それが何かの双眸の群かもしれないと思ったのは、それぞれが動いたからだ。

「な、何、あれ」

 目が赤く光る生き物なんて、ネズミくらいしか知らないが、これは、ノネズミにしてもおかしい。いや、生き物、なのか。お伽噺等に出てくるような化生のモノなら、或いは。

「言っておいて何だが、もういいだろ」

 ぐっと頭を押さえられ、強制的に視線は前へ戻される。それでも、今しがた自分が見たものについてぐるぐると頭の中で巡る。結論はわからない。わからないが、もしあれが全部『目』だったとしたら。

「俺達は、狙われている」

 優太の呟きに、私は膝を落としそうになる。

「そう、なるよね」

「陽が完全に落ちれば……もう、わかるよな?」

 わかりたくない。ただ、今はひたすら前を目指して脚を動かすしかない。ザクザクと腐葉土を踏みつけながら前進して、できる限り『あれ』から遠ざかる。

 ……できるのか、そんなことが。

 頭上を覆うように、枝の上で無数の目が光っていた。少なくとも二体や三体ではない。それに、動きも素早く目視では追えない程だった。怪我人を連れ立ってでは、とても逃げ切れるとは思えない。……一人なら? 私一人ならどうだろうか?

「……もし」

 優太が切り出し、動悸が弾む。我ながら馬鹿な考えがよぎったものだ。しかし、そんな私の反省をよそに彼は淡々と告げる。

「もし駄目なら、お前だけでも逃げろ」

 優太の顔は真っ直ぐを向いている。

 左脚だって懸命に動かしている。でも、私が一人で歩くのよりは数段遅い。そして、それを一番わかっているのは彼自身だ。

「そんなこと、できるわけ」

「見捨てるとかじゃないんだ」

 私の言葉を遮るように、彼は語気強く被せる。

「俺は、大丈夫だから」

「その脚のどこが大丈夫なの」

 爪先はひん曲がり、患部からの壊死が進行していることは明らかだ。一人では歩けない程に、優太は重傷を負っている。なのに、そんな彼を置いて行くなんて、これまで以上に残酷だ。

「二人で助かるって」

 頭上でカラスの鳴き声がけたたましく響き、私の声をかき消す。そして一斉に木々の合間から羽音が聞こえ、何かから逃げるように飛び去った。

 無理だよ。お前達は助からない。

 まるで、そう言われ馬鹿にされたような気分だ。足が地面を踏む度膝が震え、諦めに似た感情に侵食される。

 それでも。

 それでも私は。

「私は……!」

 己を鼓舞して歩みを止めず、その先に助かる糸口があるのだと盲目的に信じて、草木をかき分ける。 しかし、ガチッと何かを踏みしめた。暮れなずむ陽射しを頼りに、脚を上げて、まじまじとそれを見る。

 時計だった。

 ベルトが金属の、少し高価そうな。

「……」

 見覚えがある気がして、周囲を見渡した。

 眼鏡。水筒。鞄。靴。手鏡。財布。ネックレス。帽子。そして、死体。

「い、いや……そんな」

 まさか。

 おそるおそる見上げると、枝に引っ掛かっていた中年男性が、私を恨めしそうに見ていた。

「なん、で」

 理解が追いつかない。

 頭上には、樹木に突き刺さった大型バス。私が昨晩居た場所。私達はその真下から離れたはずだ。どこも曲がることなく真っ直ぐと。

 なのに、ここへ一巡してきたかのように戻ってきた。

「    くれ」

 後ろから声が聞こえた。

「  よこせ」

 今度は頭上から。

「  ほしい」

 四方から。

「っ」

 悲鳴を喉元で押し殺す。

 今ここで理性を失ったら終わりだ。

 冷静にならないと。

 だが、次第に赤い点が視界の端にちらつき始めた。見えたかと思うとすぐに茂みや幹に隠れるが、徐々にこちらへ迫ってきている。

 囲まれている。

 一度そう思ってしまうと進むことも戻ることもできず、ただただ立ち尽くす。

「だ、駄目、かも」

 叫びたいのを堪え、代わりに弱音をこぼす。

 優太は何も答えず、黙って前を向いている。何を考えているのだ。それとも私と同じように思考停止状態にあるのか。

 ただ、こうしている内にも四方八方から「声」が近づきつつある。

「     よこせ」

「  くれ    」

「  もらう   」

「   くわせろ 」

「ごちそう    」

「  おまえも  」

「   くってやる」

 耳を傾けると発狂しそうになる。息が荒くなって、目尻が熱い。呼吸を整えることすらやっとの精神状態。だけど、心が折れた時こそ本当の意味で終わりだ。私達は、ここで終わるのか……?

「ケケッ」

 真上でガサッと枝が跳ねた。見上げれば私達を見下ろしていた中年男性がいなくなっている。彼の死体はさらわれたのか、いや、それとも。

「 おいてけ」

 どん。

 不意に突き飛ばされた。咄嗟に踏ん張って、転倒は免れる。だけど、優太は無事では済まない。当然のようにその場に倒れていて、苦悶の表情を浮かべている。

「どうして」

 私を突き飛ばしたのは優太だ。いよいよ自暴自棄になったのか。私はその腕を掴もうとするも「やめろ!」と彼に強引に振りほどかれる。

「何で!」

 耐えきれず私は叫んだ。だけど優太は何も答えない。でも、その代わりのように彼の瞳が少し光った。薄みのかかった赤色に。

「っ」

 後退りして、木の根本に躓いた。今度はしっかり尻餅をついて、でも、臀部の痛みなどもはやどうでも良かった。

「……まるで寄生虫だ。俺の中で内側から貪っていた。それから、夜になるのを待ってたんだ」

「なんのこと……」

「俺はどっちにしろ長くなかった。そしてあいつらは弱った身体を好むから……だから、」 

 ぱきょ。

 優太から変な音が聞こえた。まるで、手足の可動域を無視して関節が曲がった時のような、痛々しく生々しいもののような印象を受ける。

「優、太?」

 彼は、ピタリと動きを止めた。

 何故だかぞわりとする。得体の知れない何かに囲まれていることよりも、ずっと、怖い。動悸の治まらない胸。震える脚。私は内から鳴り響く警鐘に従い、立ち上がってゆっくりと一歩引く。

「俺は、  もういいから  」

 優太の胴体から、ズッ、と何かが突き出た。巨大な虫の脚のように見えたし、痩せ細った老婆の腕のようにも見えた。ただ一つ言えることは、彼は人ではない何かに成ろうとしている。私は……私は、気付けば彼に背を向けて走り出していた。

 気がおかしくなったのかと思った。恐怖のあまり見間違いをしたのだと。でも、土を蹴る音や木枝や茂みのざわめきが背後から確かに聞こえる。

 何かが一斉に追いかけてきている。

 それは、気のせいではない。

 絶対に。

「  ま   て」

 無意識に私は叫んでいた。薄暮の中の微かな明かりで草木を見分け、ひたすらに木立の間を真っ直ぐ駆ける。そうやって一心不乱に走り続け、息が切れたりして立ち止まったりしたのか等は定かに覚えていない。

 時間が経った感覚もない。

 月が天高く昇っていることに気付いた頃にはもう私を追いかける気配はなくなっていた。無音だったはずの森の中。いつの間にかコオロギの鳴き声が聞こえ始め、更に進んだところ、やけに開けた場所で足元がばしゃと水に浸かった。

「っ」

 底はぬかるんでいて危うく転けそうになる。

 ふと改めて周囲を見渡すと、先の水面に月影が浮かんでいた。月光を頼りに目を凝らしてみると、土が所々に盛り上がっていて筋となっている。そして、それが畔だと理解するのにそう時間はかからなかった。

 私は水田に脚を踏み入れた。

 人間の息がかかった世界の最果てに、やっと辿り着いたのだ。その事実に安堵しながら、前に一歩二歩ざぶざぶと進む。近くに農家があるはずだ。助けを求めなければ……あの森の中には、まだ。

「ギギ……」

 背後の雑木の中。何かの気配を感じた。緊張が一気に高まったが、それらは森を抜けてこちらまでやってくる様子も無かった。振り向きかけたが、気付かないふりをして前へ進んだ。

 おそらく、無数の赤目が、陣地の外に出た私を恨めしげに見ている。きっと、その中には皆もいるのだろう。

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