第2話 剣術道場
一連の出来事が動き始めることになった日の朝、俺がいたのは剣術道場だった。
俺は赤い階級章を襟につけた黒い詰襟の軍服姿で、黒い柄、黒い鞘、菊の花をかたどった銀色の鍔の日本刀を腰に帯び、呼吸を整えていた。
軽く腰を落とし、左手は鞘をしっかり握りしめ、右手は開いた状態で黒い組紐を巻き付けた柄に、ゆっくりと近づける。
三歩ほど先には試し切り用に藁を束ねたものが置かれていた。
俺は藁束に神経を集中させ、摺り足で静かに間合いを詰める。
「!」
鍔鳴りがした時には、斜めに切断された藁束が、古い板張りの床の上にずり落ちるように崩れ落ちた。
背後から気の抜けた拍手が聞こえた。
「いやあ、不意討にはもってこいの技だな」
揶揄するような声で失礼な言葉を投げかけてきたのは幼馴染の武者小路雅春だ。
出勤前の早朝に道場に来るような物好きは、俺と道場主の息子であるこいつくらいのものだった。
「聞き捨てならないな。居合は不意討をするための技じゃない。護身のための技だ」
「ふん、どんな技術も気高い理想通りには使われないもんさ。居合もしかり。それに居合だけじゃなく、少しは他の技も磨いた方がいいと思うぜ。剣術の試合に勝てるようにな」
赤い柄、黒い鞘の刃渡り一メートルを超える長刀を腰に帯びた雅春は、見上げるほどの長身で、やせ型、癖のない長い黒髪、黒い瞳、白い肌に、細く涼しげな目をしたなかなかのイケメンだった。
俺とは違って日本の由緒ある一族の出身らしい。もっとも、彼の一族の長い歴史は、プラスの意味を持つものとマイナスの意味を持つものがないまぜになっていて、それが原因で幼い頃からいろいろ言われることが多かった。
これは俺が勝手に想像していることではあるが、本人の責めに帰すべき話でもないのに、心無い言葉を投げかけられてきた彼は、自分の内心を素直に表現できなくなったんだと思う。
「剣術の腕が立つと勘違いして奢っているのか? 少しは謙虚さというものを学んだ方がいい」
周囲の人間のせいで性格がひねてしまったのだとしても、俺が我慢するいわれはない。雅春の不遜な態度に、俺はカチンときて、厳しい言葉を投げかけた。
「大きなお世話だ。ちなみに剣術の腕が立つのは、主観的な思い込みではなく客観的な事実だ。ここにいる鍛冶賢人くんとの対戦成績でも圧倒的に勝ち越しているしな」
俺の厳しい言葉に反応して、さらに酷い返事が返ってきた。
「五一勝四八敗は、圧倒的な勝ち越しとは言わない」
「いやいや、このところオレの三連勝だ。今後、差は開くばかりとオレは見ている」
まったくもって鼻持ちならない言い方だ。
「なら、試してみるか?」
「望むところだ」
雅春の奴は満面の笑みを浮かべた。
何のことはない、こいつは俺の試し切りを見て自分も剣を振るいたくなっただけだ。なんて素直じゃないんだろう。
こうして俺たちは他に誰もいない早朝の道場で、黒い詰襟の軍服の上に空気で膨らませた半透明の合成樹脂製の防具を頭、腕、胴体に装着し、竹刀を構えて対峙することになった。
「いつでもいいぞ」
「お先にどうぞ」
雅春は上段に構え、俺は正眼に構えた。
困ったことに二人とも得意の戦法は後の先をとることで、先手必勝でそのまま押し切るタイプではない。
そのため、対戦するとお互い相手の出方を窺うことが多く、睨みあう時間が長かった。
今回も空気が固まる。
神経を研ぎ澄ませながらも、どこか一点を見つめたりせず、ぼんやり周囲に視野を広げた。
目を保護する合成樹脂が視野を妨げているのが鬱陶しかったが、相手も同じ条件なので文句は言えない。
俺は心の中で二人の戦いを予測した。
俺が雅春の喉元に突きを入れるビジョンに、上段から雅春の竹刀が振り下ろされるビジョンが重なる。
俺の攻撃の気配を感じて、雅春の手元がピクリと動く。
実際に斬り合ってはいなかったが、俺と雅春はイメージの中で激しい攻防を繰り広げていた。
「おまえら何をやってる? 放送は聞いていないのか!」
張り詰めた緊張の糸は、突然、道場の板戸をあけて入ってきた男性の声で断ち切られた。
入ってきたのは、赤黒い柄と赤黒い鞘の刃渡り一メートルはありそうな長い刀を杖のように携えた白髪交じりの初老の男性だった。
「そうだぞ、にいに。ちゃんときいてないだろ」
初老の男性の後ろから、ピンクの花柄の着物を着た小さな女の子も顔を出した。
長い黒髪をポニーテールにした色白の子で、切れ長の目が雅春にどことなく似ている。
「なんだよ、親父!」
男の方は、武者小路雅春の父親で、俺の剣の師匠、武者小路宗春(むしゃのこうじ・むねはる)だ。やたらと姿勢が良く、眼光が鋭い。長身の雅春とは違って俺と同じくらいの中肉中背の体格だった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
俺が姿勢を正してあいさつすると、宗春は息子には厳しい視線を向けていたが俺には優しい視線を返した。
「春香ちゃん、おはよう」
「おはよう!」
小さな女の子の方は元気よく俺に手を振ってくれた。
「で、放送って何? もうすぐ目的地だとかっていうあれか?」
「その通りだ」
「そんなのとうの昔に知ってるよ」
反発する息子に宗春は深いため息をついた。
「これから出勤だよな」
「ああ」
「じゃあ、その前に部屋を片付けろ!」
「そうだ、おかたづけしろ!」
「あ~、もう、春香うるさい! なんだよ、きれいなもんじゃねえか」
「あのいろいろ出しっぱなしの状態で無重力になったらどうなるか考えてみろ」
「かんがえてみろ」
その指摘は俺にとっても身に覚えのあるものだった。
「片付けに帰ります。失礼しました」
反射的に、そう口にしていた。
「けんとにいちゃん、えらい!」
「あっ、おい」
俺は武者小路宗春に頭を下げ、制止する雅春を尻目に慌てて防具を脱ぎはじめた。
道場から出ると、外は幅六メートルほどの灰色の通路だった。
通路の両脇には、クリーム色の扉が等間隔で連なっている。
天井全体が青白く光り、通行に支障がない程度にぼんやり周囲を照らしていた。
早朝ということもあって人通りは少なく、時折、散歩をしている作務衣や甚平姿の年寄りとすれ違う程度だ。
『まもなく目的地の赤色矮星グリーゼ六六七Cの恒星系に到着します。そのため本日正午から移民船は慣性航行を終了し、一Gでの減速を開始します。人工重力の切り替え作業に伴い、一時的に無重力状態になりますのでご注意ください。繰り返します』
耳に心地よい女性の声で、二回ほど同じ内容の放送が繰り返された。
数百年ぶりに訪れる一大イベントに、俺はなんとなくソワソワした気分になってきた。まったくもって、楽しみだ。
クリーム色の扉に表示されている部屋番号を確認しながら薄暗い通路を数分歩くと、自分の家にたどり着いた。
「ただいま」
「あれ、兄ちゃんだ」
やたらバタ臭い顔立ちの金髪で鳶色の瞳の少年と、玄関の扉を開けた瞬間、バッタリ出くわした。白いワイシャツに黒いズボンという中学校の制服姿で、小柄で線が細い。俺の実の弟で中学一年生の鍛冶来人(かじ・くると)だ。
「お、おう」
「じゃあ、いってくるね」
弟は、この年頃の少年には珍しく、素直で朗らかだった。
「どうした。そのまま仕事に行くんじゃなかったのか?」
玄関に入ると、紺色の作務衣姿の金髪碧眼の中年男が俺に話しかけてきた。
がっしりした体格で、棍棒のような太い腕にもビッシリ金色の体毛が生えている。
腰には俺と同じような黒い柄、黒い鞘の日本刀を帯びていた。
まるで似ていないが、俺の実の父親だ。
仕事は苗字のとおり金属加工の職人すなわち、鍛冶だった。
「ちょっと、部屋を片付けておこうと思って」
「それなら母さんがもう片付けてたぞ」
「えっ!」
そういうことはしないでいただきたかった。
「あら、お帰り」
紺色の留袖姿、黒い髪、黒い瞳の俺の母親が、衣擦れの音とともに現れた。
帯には桜色の布袋に入れた短刀を差している。
彼女も、どちらかというとぽっちゃりした方だったので、狭い玄関はますます狭くなった。
「賢人の奴は部屋を片付けに戻ったんだと」
「まあ」
母親は優しい笑みを浮かべた。
「じゃあ、私が片付けない方がよかったかしら。机の上に置きっぱなしだった電源の入ったタブレット型コンピュータとか」
「あっ、いえ」
俺の背筋に嫌な汗が流れた。
昨日の夜は、エロゲーをしながら寝落ちしてしまい、今朝はそれをすっかり忘れて朝一番で道場に行ってしまったのだ。
母親が何も見ていないことを俺は神仏に祈った。
「母さんは何も見てないから安心してね。パソコンが壊れないように起動中のアプリケーションもみんなキチンと終了させたし」
残念ながら、どう考えても全て知っている状況だ。
「仕事に行きます。部屋の片づけありがとう」
俺は目を伏せながら頭を下げた。
恥ずかしくて、とてもじゃないが母親の顔は見ることはできなかった。
俺はどんよりした気持ちで自分の家を後にした。
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