小説『 凍 裂 ・僕の中の林檎の樹』

飛鳥世一・M.Misha

小説『 凍 裂 ・僕の中の林檎の樹』

「パッキャーン」

 日本の北に位置する寒冷地。冬の夜あけまえ、外の気温が寒暖計の底を打つころ。高々の生活音や車の音であれば前夜から降り続き積もった雪に吸収をみる。

「パッキャーン」静寂を引き裂くように明けきらぬ北の雪原を凍裂音が揺らす。星は震え、弦月はその爪先から氷柱ツララを落とすほどの樹々の悲鳴が響く。

 驚いた鴉たちが啼きわめきちらかし、一斉に梢を揺らす。鴉の動きを目で追いながら立ち尽くしたままの伸一の眼前、一段下に広がった雪原は五月ともなればアスパラ収穫の最盛期を迎えるはずの白い畑が広がっていた。「音」の生じた位置を確かめるためか、伸一は聞こえてきた方こうに首だけをまわす。

 どうやら音は林檎畑の入り口をその命脈としていたようだ。凍裂音の始まりの合図は概ね木々の植わり際からとなるのが常だ。湿度の高い凍えた風は、しだいに林の内部までとどきはじめる。起き抜けに梢を揺らした鴉の啼き声を合図に樹々は次々に悲鳴をあげる。 

「リンゴ園」の管理者の家だろう。林檎の樹が気になったものか茶の間には明かりが灯った。


 伸一の胸の前、十字に交差した両手には緑と白、黒の毛糸で編まれた「ぼっこ手袋」がはめられていた。冬を前に母がみずから編み伸一に手渡してくれたものだった。正直、新聞が配りにくいと感じていた。新聞を掴みにくいと思っていた。それでもその手袋を手放すことが出来ず、毛糸の手袋をはめたまま新聞を配るのが伸一の一日の始まりだった。いつの間にか手袋は手のひらと手の甲の色が変容をみせ、手のひらの指先に近い部分にいたっては何色の毛糸が使われたものかの判別がつかないものとなっていた。

 刷りたてのインクの匂いが飛びきらない新聞の墨が手袋を黒く染める。左手だけを雪にこすりつけるとそこの雪だけが黒く滲む。雪のついた手袋を目の前にかざすと伸一は手を振る。雪は小さな玉になり毛糸にぶら下がっていた。 

 胸の前で組まれた右腕には未配達四十数件分の地方紙朝刊が抱きかかえられている。小学校五年生、大柄とはいっても朝刊四十数件分を抱えることは大人でも両手仕事になる量だ。

 東の空が白みはじめる。鴉の啼き声がいっそうに喧しい。星は震えることをやめ弦月はその姿を不確かな幻へと変える。 

 林の林檎の樹々からの悲鳴はその間隔を広げ始めたようだ。

                     

                 ※

 

 ドイツはベルリンの中心部。街を東西に横断するシュプレー川の中州北側にベルリン大聖堂がそびえる。ドイツバロック様式で建てられたそれは千九百年代初頭に建て替えられたものであり、ベルリン市民の拠り所でもある。  

 ベルリン大聖堂の道を隔てた南側に広がるのがフンボルトフォーラムとして国際的にも知られた美術館、博物館が集まったアートコンプレックスの一画。ポツダム広場からだと徒歩で三十分ぐらいだろうか。 

 伸一は日本からの団体ツアー客を連れこの街を訪れていた。終日自由行動日だったツアー客はそれぞれに市内の観光や散策を楽しむ予定となっていた。


 ホテルで時間を持て余した伸一は美術館巡りを思い立つと、日本から持参した市街地図が綴じられたガイドブックを開きベルリン市内の美術館情報を探す。

「ベルリン国立東洋美術館… 日本の絵画や版画だけで七千点収蔵、日本の凡ての美術品だけで九千点か。ドイツに来て日本の美術品見学というのも意味は分からんが、時間つぶしにはちょうどいいだろう。行ってみるとするか」

 行きすがら伸一は市内を散策し、春まだ浅いベルリンの川もを渡る風の匂いを楽しんだ。途中、何組かのツアー客と出遭い立ち止まっては自由行動中の行き先や情報などを伝えては別れることを繰り返す。

「添乗員さんはどこに行くのですか?」どのツアー客も異口同音にそう口にする。

「あぁ~ 散歩ですよ」そう答えることが当たり前のように伸一は散歩と告げた。  

 中には「こんな所で丸一日も自由行動にされても、どこへ行っていいのやら皆目だわ。ちゃんとバスで連れていてくれれば良いのに」と愚痴をこぼす者もいた。

 こんな所で自分の行動先、目的地を伝えようものならツアー客の殆どは添乗員の後を付き従ってくることになる。折角の"自由時間"が台無しとなるのである。

 相変わらず日本人は「自由」が苦手だ。旗の後ろを歩くことにかけては世界200の国と地域の中、トップレベルの優秀さを見せつけることが出来るのだが、目の前から旗が無くなると途端に路頭に迷う。そのくせ"旗"の少し前を歩こうとし、さも『わたしは団体旅行とは関係ない』という体裁を保とうとする空々しさは忘れない。

 することが見つけられなければ寝てしまえば良いだけなのだ……、なにかをする必要もなく日常を持ち込んでも良い。パンフレットに踊る「非日常」という分かったような分からぬような文句に踊らされ、よくよくパンフレットの中身も確認することなく来るからそうなる。

 伸一は独り言のように呟きながらシュプレー川のほとりを歩く。川ほとりに設えられた花壇では春の花の植え替え作業が手際よく行われていた。


 フンボルトフォーラムは様々な美術館や博物館で成り立っていた。元々はベルリン国立博物館の敷地内なのだがその中の一角にベルリン国立東洋美術館、またの名をアジア美術館が存在する。 

 日本の版画や絵画だけで七千点を収蔵しているというから日本の美術館規模で云えば兵庫県立美術館と同等クラスになり(※二千二十二年十一月時点)欧米からの評価も高く、ヨーロッパにおけるジャポニズム文化の定着にも一役買った美術館との評伝も知られたところだ。

 フンボルトフォーラム正面に立つとドーム型の天蓋が訪れるものを迎える。建築様式はドイツバロック様式とかネオバロック様式と呼ばれているらしいが、伸一に観えたそれは寧ろアールヌーボ様式であり、ベルエポック様式のそれに想え、ニースのランドマークホテル・ル・ネグレスコのファサード天蓋部分のドームを彷彿とさせた。「ネグレスコホテルのドームは確か娼婦ラ・ベル・オテーロの形の良い、たわわなオッパイを模して造られたと云われていたはずだが… ここは誰の胸を模しているのだろうか」

 伸一はファサード前で誰に云うとはなしに"たわわなオッパイ"とふざけ半分に呟いてみせた。別棟のベルリン国立東洋美術館まで行き、伸一は切符を買い内部に歩みを進めると重厚な壁や廊下がゲストを迎えた。 

 伸一は館内売店の位置を確めると真っすぐに売店へと向かい収蔵・展示図録集を買い求め売店脇に設えられたベンチに腰を下ろすと図録集を広げた。

「さて、来てみたは良いものの何を観るべきかが分からない。闇雲に見たところで時間も無駄にするだろう。ましてや三時間ぐらいでは全部は見られないだろうし」そう考えながら目ぼしい画を探すと伸一の指はページを捲る動きを止める。

「この画… 誰の画だろう… 速水御船(はやみぎょしゅう)… 夜雪… 」ドイツ語と英語で書かれていたが専門的なことは何もわからなかった。ただ、画の対象に向き合ったときの表現の巧みさは空間の支配力によるということは理解できた。

「水墨画なのだろうか」伸一はその画からの印象を言葉に置き換える。

 画は冬の雪景色の中に一本の木が描き込まれており、その画は伸一にとっては林檎の樹をイメージさせるものだった。 

 真っすぐと伸びた小枝、力強さを感じさせ風雪によって撓んだ(たわんだ)であろう幹は生命力を滲ませる。

「まだ若い樹だろうなぁ… 」伸一は図録を膝に乗せたままその画に見入った。

 見学を終えた老若男女が売店へとなだれ込み、ハガキやら図録集やら思い思いの記念品を購入している姿が視界に入る。見学中の会話を我慢していたように様々な国の言葉が売店で飛び交う。と、売店の中、何かが割れる音が響いた。

「ガチャーン」

 売店の定員たちは慌てた様子も見せず、電話を手に取ると何処かに向けて話をしていた。程なくすると作業服を着、箒とモップと塵取り、バケツを持った清掃員が二人で来ると床の掃除をはじめた。伸一は速水御船・夜雪に目を落とすと"まんじり"ともせぬままにその画に眺め入った。


                 ※ 


 寒冷地の凍える冬空の下、新聞配達をしながら一生懸命貯めたお金は自ら買うことを夢見ていた自転車「ヤンクル」購入のための資金だった。

 ある日の父親の帰宅はそんな伸一の夢をぶち壊しにするには十分なものとなった。 

 見慣れない男たち三人を従えた父親の帰宅。男たちは父親が招き入れる言葉も待たず、当り前のように家に上がり込むと茶の間のソファーに腰を下ろす。

「オメェラチは、ちょっと奥さ行ってれ 」

 父親は子供たち二人の顔も見ずに告げた。茶の間のテレビではアメリカで人気の猫と鼠の人気アニメが流れ、セリフの無い動画に効果音だけが茶の間に響いていた。伸一と、小学校三年生になる弟の伸二は、茶の間に隣接した子供部屋へと下がる。

「兄(にい)ちゃん、あの人たちなんだべ? 」

「……なんかの借金取りだべなぁ」

「したっけ、なまらおっかねかったっけさぁ 」

 父親が母親に事情を説明している声が微かに聞こえてくる。所々がテレビの効果音でかき消される。と、突然母親の振り絞るような、苦痛に呻き上げるような怒声が子供部屋に流れ込んた。

「何言ってけつかる、そんな金はここの家にはない。連れてけばいい!」

 母親は男たちに向けて叫んだ。「あ~ぁ、連れて行きなさい! こったら、はんかくさい者。自分でやったことだ、何処へでも連れて行ってもらいな! 」

 母親はそう言い放った。

 どうやら借金取りは競馬の「の●や」の取立人だったようだ。

 弟の伸二が怯えながら伸一に告げる。

「兄ちゃん、母ちゃん大丈夫なの? 」 

「シッ!静かにしてれ 」伸一は大人の話しに耳をそばだてる。伸二は既に泣き顔をはだけていた。

 借金取りのリーダー格は母親に向け「いくらあんだ 」と詰め寄る。

 情けなかったのか母親は涙を飲み込んだのか、くぐもった声を振り絞ると「無いッ!」とひと言吐き捨てた。

 伸一は、母親の声が聞いていられなかった。朝は夜明け前から建設作業現場の飯炊きに行き昼前に帰ると化粧品の営業に出かけ、子供たちに食事を与えた夜には知り合いが開けるスナックの手伝いに出ていた。

 のべつ幕無し仕事に明け暮れ身を粉にして働く母親の姿を見知っていた。

 伸一は立ち上がると大人たちが会話をしている部屋に歩み入た。手には、インスタントコーヒーの空き瓶を黒く塗り潰したものが握られていた。 

 大人たちの目が一斉に子供に向かう。居心地の悪さが伸一を襲った。

 言葉を吐き出そうにも上ずって言葉とならず、口からする呼吸だけが微かに言葉の形跡を留めていた。

「お、ふぅ…ふう…おれ…ふぅぅ…少しだけある 」

「なんぼあるよ? 」

 間髪入れず、口を開いたのは父親だった。母親は鬼のような形相で父を睨みつけている。伸一は母親が何も言わないことを願った。お金だけをその場に置きとっとと子供部屋へ引き下がりたかった。

「2万ちょっとぐらいだべ 」伸一は目標としていた自転車を手に入れるまであと2カ月の所まできていた。

 金額を聞いた大人たちを囲む空気が一気に緩む。小学校5年生の子供にさえ、その弛緩した空気が読み取れた。それぞれが硬直した空気の落とし処を模索していた矢先、最善と思える落とし処はやはり子供が運んできた。伸一は大人たちの前に歩み出ると、床に「貯金箱」をぶちまけた。

 黒く塗りつぶされたインスタントコーヒーのビン。蓋を外すのでさえ指がかじかむ。気を許すと泣きそうだった。一度泣いたら歯止めがきかなくなりそうだった。伸一は小銭を積み上げ、手のひらに載せると列をそろえ数え始めた。

「揺れるたわわなちぶさ」という呪文を頭の中で唱えながら。

 十枚ずつの小銭を数えた。


 親に隠れ、はじめて生きた活字に触れたのは小学校四年生のときに手にした「週刊宝石」という大衆小説だった。たしかな意味も解らず、半分以上が読めない漢字に埋め尽くされていた。なんとなく……、そう。なんとなくだけが十一歳の少年の感受性を支配していた。

 ただただ親が困っている姿を観たくなくて母親が泣いている声を聞きたくなくて、父親がいじめられている姿をみたくなくて、ただそれだけで子供は貯金箱を大人たちの間に配達した。

 男たちは、父親から金を受け取り、領収書を渡すと帰っていった。茶の間を支配していたはずのアメリカ製の無声動画アニメは既に終わっていた。


 それから2か月後、冬の寒い夜。伸一は父親に尋ねた。

「前に俺が出したお金いつ戻ってくるの? 」と。

【あれがあれば新しい自転車が買える】そう思った。

 父親は「近い内にな 」伸一にそう告げた。

 その夜明け、伸一はチェーンも軋みタイヤカバーすら途中で折れた自転車に跨ると新聞配達へと出かけた。

 母親は既に居なかった。


 雪原と化したアスパラ畑の一段うえ。

 白みかけた空を震わせる林檎の樹の凍裂音が哭き響く。

「パッキャーン」

 伸一は胸の前に抱えた地方紙の朝刊を数部ずつ二つ折りにたたむと、冬の真っ白なアスパラ畑にばら撒いた。

  

                  ※


「さて… ホテルに帰るとするか……」

 伸一は画を鑑ることも無くベルリン国立東洋美術館をあとにした。

 売店脇のベンチの上では開き置かれた図録が所在なさげに残されたままに。   


           

                                    了

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