第25話
塔から飛び出してから、四日ほど経った。そろそろアミの体調が心配になってきた。今まで私がやっていたように、シェルドやエディゴがアミについていてくれているだろう。二人がついていてもどうしようもできないことが起きていたら……。
私がアミの塔にたどり着いたときには、もう手遅れになっていたら……。
皆と連絡が取れない不安が、悲観的な考えを導く。暗い気持ちに包まれた時、横から肘で小突かれた。
「大丈夫?何かあった?」
ミウレは気配でものをみている。様子がおかしいと気配にも変化が出るのだろう。この人に隠し事はできないと思った。
「いや、アミは大丈夫かなって心配になって……。」
ミウレは「アミ?」と首を傾げた。記憶力がないことは聞いていたが、私たちの目指す場所に関わることまで忘れているとは思っていなかった。また一から説明しても、ミウレは初めて聞いたかのような反応をしていた。
「目的地は覚えているよ。でもね、なんであの場所を目指しているのかは、全く覚えていないんだ。ごめんね。」
私の心の中を読んだかのような言葉だった。ミウレもわざと忘れたわけではない。仕方のないことなのだ。私は「大丈夫だよ」と声をかけたが、ミウレには聞こえていないようだった。
「アミって人が心配なのはわかるけど、焦ってもいいことないよ。これがボクたちの最高速度。」
それは分かっているのだ。ミウレに案内してもらわなかったら、無事にたどり着かなかっただろうし、ついたとしてもすごい時間がかかっていただろう。恵まれているということは分かっていても、それでも不安はわいてきてしまうものなのだ。
「……前にね、このあたりの地図を触らせてもらったんだ。目が見えない人のための、模型みたいな触れる地図ね。」
なぜミウレがそんな話をし始めたのか分からないまま、私は相槌をうった。
「その地図では、ケイドの塔から目的地の塔まで、指一本分の長さしかなかったんだ。」
ミウレは私の前に人差し指をたてて見せてきた。
「この二つの塔は、すごく近いんだってその時思ったよ。でも実際歩いてみると、ものすごく遠い。」
ミウレは空を見上げた。今日の空は白い物体が一つも浮いていない、淡い青色の綺麗な空だった。
「改めて、この世界の広さを実感したよ。ボクたち人間が生活するには、この世界は広すぎるんだ。指一本の長さ歩くだけでも、不安になるくらい時間がかかって当然なんだよ。考えたってしょうがない。もっと楽しいことを考えよう。」
ミウレの言うとおりだった。本当にこの世界は広い。外の世界に出てから、自分が今まで生きてきた環境がどれだけ狭い環境だったか、何度も思い知らされた。
「ありがとう。楽しいことを考えるよ。」
ミウレが隣で笑った。ハコベラも心なしか楽しそうに見える。
「もうすぐ、この森を抜けるよ。その先にね、すごくきれいな場所があるんだ。」
ミウレと出会ってから、ずっとこの森の中を歩き続けていた。昼間でも暗いので気が滅入りそうになっていた。
しばらく歩き続けると、水が流れる音が聞こえた。シャワーを浴びているときの音よりも、耳に心地よい音だった。
「川の音が聞こえるね。」
「かわ?」
ミウレは一瞬不思議そうに首を傾げたが、すぐに私がずっと塔で生活していて、外の世界のことに詳しくないことを思い出したのだろう。小さく「あ、そうか」と呟いた。
「川はね、水が流れている所でね。魚がいっぱいいるんだ。」
魚、ミウレと初めて出会ったときに食べた、お粥の上にのっていたものか。川に少し興味はあったが、寄り道している時間はない。しかし、そんな私の気持ちを察したのか、ミウレは「川に行ってみる?」と提案してきた。
「近いのか?」
「うん、寄り道にもならないくらい近い。」
それなら行ってみたいと思っていると、ミウレが隣で小さくため息をついた。
「こう言わないと、ケイドは行きたい気持ちを我慢しちゃうでしょ。急いでいるのは分かるけど、人のために自分のやりたいことを我慢しなくてもいいさ。」
「……そうだね。……ミウレ、川まで案内してくれないか。」
ミウレは「もちろん」と言って私の手を引いて走り始めた。
すぐに川についた。透き通った水が緩やかに留めなく流れて、底の様子もはっきり見ることができた。水の中で動いている生き物がいて、これが魚というものかと思っていると、ハコベラが勢いよく川に飛び込んで、川の中で動いている生き物を抑えつけた。ハコベラの足元でバシャバシャと水が飛んでいる。
「お、いいぞ!ハコベラ!結構大物だな。待て、今取りに行くから。」
ミウレはハコベラの足元まで向かうと、小刀でその生き物を刺した。しばらくして、ミウレは川の底から生き物を引っ張り出した。
「でっかい魚だ。丸焼きにして食べよう。」
魚は、ミウレの腕の長さとほとんど同じ大きさだった。運ぶのを手伝おうと魚に触れると、表面がぬるぬるしていて思わず手を引っ込めてしまった。
ミウレが丸焼きの準備を始めたので、私も塩の塊を削る作業を始めた。食事の度に、外の世界の食べ物を口に入れないようにしなければと思うのだが、いつも誘惑に負けて食べてしまう。外の世界の食べ物は、栄養剤などとは比べ物にならないくらいうまい。もう栄養剤では満足できない舌になってしまったのではないかと本気で心配するくらいだ。
作業をしていると、ハコベラが岩の表面を恐る恐る爪でつついているのが見えた。近くに寄ってみると、岩の上に二本のはさみのようなものを掲げてハコベラと戦う小さな生き物がいた。私はとりあえず初めて見たその生き物と、それをつつくハコベラを写真に収めた。いつもどんな生き物にも果敢に挑み、必ず仕留めるハコベラが不安げに私の方をチラチラと見ながら爪で小突くだけで、一向にその小さな生き物を仕留めようとしない。
「どうしたの?」
火おこしを終えたミウレがやってきた。ハコベラの足元にしゃがみ、小さな生き物をつまんだ。
「あ、カニか。これも塩で焼こう。」
カニを懐に袋に入れると、ミウレはハコベラをわしゃわしゃと激しくなでた。
「ハコベラはね、カニだけはどうしても苦手なんだ。まだ子犬のときにはさみで傷つけられて、それが大人になった今でも記憶に残っているんだ。」
火の前に腰かけて、火が消えないように小枝を足しながらミウレは続けた。
「ボクには記憶力がないから、子供のときの話なんてほとんど覚えていないんだ。なんなら数日前の話も忘れちゃうから、忘れてはいけない大事な話は、レイ姉ちゃんに覚えておいてもらっているんだ。」
ミウレは魚の内臓を取り出し始めた。森で狩る獣を捌いている様子は、見ていられなかったが、魚を捌いている所はそこまで気にならなかった。
「レイ姉ちゃんも、ボクと同じ有害物質に弱い子で、脳の切除手術を受けて体の一部が動かせなくなった子なんだ。だから、ずっとベッドで本を読んで過ごしているんだ。ボクが狩りから帰ると、毎回ボクの話を聞いてくれて、ボクが忘れたくない話をボクの代わりに覚えてくれるんだ。」
魚の下処理を終えると、ミウレは足元に落ちていたちょうどいい長さの棒を魚に突き刺した。
「レイ姉ちゃんは本当に頭がよくて、ボクはいつも憧れている。でもね、レイ姉ちゃんは頭がよくて記憶力もいいから、昔のことがいつまで経っても忘れられなくて、たまにそれで苦しんでいるんだ。」
魚がついた棒を火の近くの地面に刺し、ミウレはため息をついた。
「ボクは今まで忘れたくないことも忘れてしまう自分に何度も悩んで、苦しんでいた。でも、苦しむレイ姉ちゃんを見ると、忘れられないのもつらいんだなって思う。」
ハコベラをなでながら、ミウレは私を見た。ミウレに目はないが、はっきりと私を見ていた。
「ケイドにも、あるの?忘れられなくてつらいこと。」
私は少し考えた。塔に置いてきた秘書や水槽の脳のことが頭によぎった。私の中にある、彼らへの罪の意識、それはいつまで経っても消えないのだろう。ある意味、忘れたい記憶だ。しかし、それ以上に、アミやシェルド、エディゴなど、端末を介して出会った大切な人たちとの思い出の方が、大事で、輝いて見えた。
「あるよ。でも、忘れたくないことの方がたくさんある。」
ミウレは泣きそうに顔をゆがめた。
「いいね、それ。羨ましい。」
ハコベラの頭をぽんぽんと叩いた。
「ボクにも忘れたくないこと、たくさんあったはずなのに、ボクだけの力では一つも思い出せない。ケイドと出会ったことも、きっといつかは忘れちゃう。本当にごめん。」
ミウレはうつむいた。こんな時に涙も流せないのは本当に気の毒だった。
「じゃあ、今は僕がレイ姉ちゃんの代わりをするよ。紙とペンを持っているんだ。それで僕たちが出会ってからの日々を書き残しておいて、村に帰ったらレイ姉ちゃんにそれを読んでもらえばまた思い出すことができる。」
そう言うと、ミウレはぱっと顔を上げた。
「それいいね!」
まだ昼間で、川があるところは木もなく、他の場所と比べたら太陽の光もよく届く。私は早速鞄の中から紙とペンを取り出した。これらは端末が電池切れで使えなくなったときに、写真として残したいものをスケッチするために用意しておいたものだが、端末は昨日やっと充電が切れ、予備電池に切り替わったとこなので、電池切れの心配はいらなかった。
ミウレがちょうどよく焼いてくれた魚を、二人で交互に食べた。あっさりしているが、肉とは違った脂のうまさがあって、ずっと口の中に残しておきたかった。
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