寝ぼけたエチュード
魔法少女空間
第1話 エチュードは揺れない
柔らかい日差しが窓からそっと足を忍ばせてきて、ゆったりと長椅子に腰掛けた私を照らしてゆく。少し開けた窓からは日向と桜と冬の緊張をちょっぴり含んだ、言ってみれば新しい何かを予感させるような、最も春らしい春の風が私の肌をなでる。そんな時はチャイコフスキーのピアノ協奏曲を聴くのがいい。激しくも柔らかい希望だらけのパッケージはなかなかに心を揺らしてくれる。
そんなわけで私こと篠塚理恵は、少しばかりませてきた愛娘、理音と麗らかな春の午後を楽しんでいた。
といっても、理音は紅茶の底にたまった砂糖をぼうっとかき混ぜている。まぁ、退屈するのは無理もない。理音はクラシックマニアの私の影響で、歌詞がある曲より楽器の音のほうが好きだが、どうやら彼女はピアノの方が好みらしい。
リストの超絶技巧。ベートーベンのピアノソナタ。バッハの小曲。ショパンのエチュード、プレリュード、ノクターン。
「あれっ、お母さん、変えちゃうの?」
「たまにはピアノもいいかなって」
プレイヤーにショパンのエチュード集を差し込む。しばらくして、大きな音の波が私たちを包む。
最初に流れてきたのは作品10の1ハ長調。俗に『滝』や『階段』とも言われる作品だが、右手のアルペジオ、分散和音が主となるこの激しい上昇と下降はまさしく、永遠に続くような長い階段を思わせる。大きな幅の行き来が私は好きだが、理音のほうに目をやると今度は窓から見える青空を眺めている。それでも気にせず私は聞き続けて、作品10の3『別れの曲』の途中で理音がわたしにむかって言った。
「お母さん、なんかCDプレイヤー壊れてない?」
妙なことを聞くものだ。私は組んでいる手を変えずに答えた。
「まさか、そんなわけないじゃない。この間買い換えたばかりなんだから」
「でも、なんかピアノの音が変だよ。なんか少し濁っているような」
濁っている?音の響きが悪いということか。私は立ち上がって、ピアノの上に腰掛けているプレイヤーを見つめた。直方体で横幅30センチほどの、しっかりとしたCDプレイヤー。どこにも異常はなさそうだけど。ついでにぺしぺしとと触ってみる。エチュードは揺れない。
「別に変なところはなさそうだけど」
しばらく、理音は目をつぶって聴いていたがやがて、
「やっぱり変な感じがする」
と頭をこづいて見せた。ふーん、変な感じねぇ。プレイヤーが古くなったので良い物を買いにわざわざ街に出かけたというのに、それが欠陥品とあれば私のお金と手間は何だったのか。
私は少し考えてみることにした。
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