2-7 Late Knight

 甲州街道では、救護と同時に消防車による放水が始まった。ただ、発生から10分が経っている。既に何人かは事切れているだろう。

 その反対側、シンジュクスクエアの片隅で無力感に苛まれる澪は、今にも泣きそうな表情を浮かべていた。いっそ、このままゲリラ豪雨でも降ってほしい。そうすれば、我を忘れて泣き叫べるのに。

「……澪」

名前を呼ぶだけしかできない詩応に、澪は

「あたし……誰も助けられない……」

と震える声で言った。今のままじゃ結奈も彩花も詩応も、そして流雫さえも。

 今の澪は、見ていられない。しかし、だからと独りにはさせられない。流雫も、この騒ぎで新宿まで辿り着けるか。

 詩応は思わず唇を噛み、目を逸らす。遠目に新南改札が見えた。その周囲には、避難してきた人々が屯している。

 更にその右、タイムズスクエア側から上がってくる2人の男。そのうちの一人は、昨日合宿の最後に1時間、自分たちに教えを説いていた総司祭だった。

 ネイビーの教団のスーツを着た初老の男は、総司祭と云う役職。それは、太陽騎士団日本支部のトップを意味する。大学時代、留学先のフランスで信仰に目覚めたらしい。

 その総司祭が、隣に付き人を連れている。特に今年に入って教団が狙われる事件が多く、今では秘書と云うより護衛と云った意味合いが強い。だからか、引き締まった肉体と厳つい風貌をしていた。司祭の顔が顔なら、宛らマフィアのボスと手下に見える。

 確か、夕方の飛行機でフランスに向かう、とは聞いていた。本部が置かれるダンケルクの大聖堂に出向くためだ。……しかし、渋谷ではなく新宿からの移動、それが引っ掛かる。

 東京中央国際空港は東京の端、行くなら渋谷からの方が近い。新宿で何か用事でも有ったのだろう。

 辛うじて拾えるWi-Fiで、SNSを開くボーイッシュの少女。何か情報でも有ればいいが……と詩応が思った瞬間、爆発音にも似た発砲音が耳に突き刺さる。ふと顔を上げた詩応の瞳に、前屈みになる総司祭が映る。

「な……!?」

思わず声を上げた詩応の隣で、ふと我に返ったように目を見開き、顔を上げる澪。その瞳にも、発砲音が生んだ新たな事態が映る。

「司祭!!」

と詩応が叫ぶより早く、立ち上がった澪が靴音を立てた。


 もっと近くにいる集団よりも早く、倒れた初老の男に駆け寄った澪は

「救急を!!早く!!」

と叫ぶ。それに重ねるかのように再度

「司祭!!」

と叫び、デニム調の上下の少女の隣に寄った詩応が駆け寄り、膝をつく。司祭と呼ばれた男の脇腹から鮮血が滲み、ネイビーのスーツを汚していく。

 澪は総司祭の口元に耳を近付け、頸動脈に触れ、右腕の腕時計を見た。……6秒間に1回の呼吸と脈。すぐに搬送されれば……。

 屯している人は、スマートフォンを司祭や澪に向けるが誰一人通報しない。……やはり、突然のことに単なるヤジ馬と化しているだけか。

 代わりに駅員が

「通報しましたので!」

と少女に向かって叫ぶ。澪は大きく頭を下げたが、次の瞬間に付き人の男に顔を向ける。その目は、怒りに満ちていた。

 「旭鷲教会……!?」

少女の口から出てきた小さな言葉に、詩応の目付きも険しくなる。そして付き人は口角を上げ、踵を返そうとする。

「待て!!」

と詩応は叫び、立ち上がりながら地面を蹴った。インターハイの表彰台すら狙えるハズだった元陸上部、それもスプリンターとしての脚力が、伏見詩応の最大の武器。

 ……間違いなく、アタシも狙われる。そう思った詩応は、黒い銃を小さな鞄から取り出した。その瞬間、70メートルだけ走った男は急に足を止め、追ってくる少女の額に銃口を向けた。

 詩応は慌てて足を止めた。男との距離は3メートル。大きな人差し指が数センチ動いただけで、ボーイッシュな少女は額から鮮血を噴き出しながらこの世から消える。

 「旭鷲教会の仕業か……?」

その問いに、今し方の標的と同じネイビーのスーツを着た男は、不気味な微笑を露わにするが、何も言わない。詩応は

「司祭殺し……乗っ取りでも企んでるのか」

と問う。

「乗っ取り?どうせ死ぬんだから、知らなくてもいい」

そう答えながら、黒い角刈り風の男は目の前の男勝りの少女の奥を見た。……その目線が澪に向いていることに気付いた詩応は、男に顔を向けたまま叫んだ。

「澪!!離れろ!!」

 その声の途中で、澪は地面に突いた手を軸に立ち上がる。

「逃げて!!」

と叫びながら、背を向けていた方向に走る少女。

「逃げ……!!」

再び叫んだ声を掻き消すように、数秒前までいた場所から鋭い爆発音が聞こえた。

 「きゃぁぁっ!!」

「うわああっ!逃げろっ!」

「何なんだよ今日は!!」

混乱から悲鳴と怒号が入り混じった混沌が、世界一の駅の一角を包む。

「澪!見るな!!」

詩応が叫ぶ。彼女の顔は、変わらず付き人に向いたままだ。

 ……見るな、その言葉と音から、総司祭が爆発したことが刑事の娘には判った。

「っ……!!」

歯を軋ませる澪の瞳は、詩応が対峙する男に向けられた。

 ……あたしの騎士は此処にいない。だけど、だからと云って死ぬワケにはいかない。……流雫と生きて会うためにも、絶対に死ねない。

 戦士然とした凜々しさが宿った、ダークブラウンの瞳の主は靴音を鳴らした。


 「旭鷲会の宗教団体……旭鷲教会。血の旅団の援助を受け、太陽騎士団の経典における悪魔、ゲーエイグルをドイツ語に訳した、クレイガドルアを崇拝する宗教右翼……」

可愛くも強い芯を持った声が紡ぐ言葉は、詩応さえも知らなかった情報だった。

 今の混乱で屯していた人は全員散り散りになり、この場に残っているのは澪と詩応、そして付き人の3人だけだ。他の誰にも、聞かれる心配は無い。

「澪!?」

ボーイッシュな少女は思わず声を上げたが、無理も無い。

 澪の恋人が祖国の地で得た収穫は、あまりにも大きい。それは犯人の狼狽ぶりを見ても判る。澪と呼ばれた少女は、一体何者なのか……2人の少女と対峙する男は、その謎に支配されている。

「……太陽騎士団を狙う理由は何なの?」

詩応の隣に立った澪の言葉に、男は

「黙れ!!」

と叫ぶ。

 ……言えない理由が有るのか、ただ本当に何も知らず、単に澪の声が耳障りなだけか……。どっちにしたって、こんな場所で真実など出てこない。

 しかし、同時に澪と詩応は大きな疑問に襲われた。……何故、警察も救急も駆け付けてこないのか。甲州街道側での塩素ガス騒ぎが収束していない、としてもだ。


 品川でNR線に乗り換えようとした流雫の耳に、駅の放送が聞こえた。新宿駅は駅構内で毒ガス事件が起きているため、通過するらしい。正確には運転停車と呼ばれ、信号の都合で一度停車するがドアは開かないと云うものだ。

 ……先刻見ていた、代々木駅からのルートが唯一の望みだ。しかし、スマートフォンから圏外表示が未だ消えない。

「くっそ……」

流雫は無意識に呟いた。同時に、彼の端末が駅構内のWi-Fiを拾ったらしく、ニュース速報の通知が届く。

「渋谷で大規模抗議集会、発砲も」

その見出しに

「渋谷……!?」

と思わず声を上げた流雫は、ニュース記事を開いた。

 ……渋谷駅前の広場で、太陽騎士団に対しての抗議集会が開かれた。但し、ゲリラ的だったために、警備員や警察官が駆け付けた。そこで衝突が発生し、発砲も起きている。

「……まさか……」

流雫は小さな声を上げた。

 列車に乗ると、Wi-Fiは使えない。車内のデジタルサイネージでのニュースも、今見たものと変わらない。逆に言えば、先刻思ったことを整理するには最適だ。あくまでも、妄想の整理だが。

 ……今新宿と渋谷で起きている2つの事件、そのどっちかがもう片方の撹乱……だとして、わざわざそうするだけの必要は無い。……ただ、もし今から3件目が何か起きるとするなら……その撹乱目的?

 しかし、だとすると、新宿で起きた塩素ガス騒ぎも渋谷の件とグルと云う前提が必要に……。

 そこで流雫は整理を止めた。今は澪が無事であればいい。メッセンジャーアプリさえ使えれば、どうにでもなるのに……。

 品川から代々木までは十数分。その間に何度も駅に停まるが、その度に新宿ではドアを開けないと云うアナウンスが流れる。

「澪……」

流雫は最愛の少女の名を呼び、右手首を飾るブレスレットを見つめる。そのチャーム、ルビーの三日月にキスした流雫は、ただ澪の生を信じることに、全ての意識を注ぐことにした。

 やがて、列車は代々木に着いた。新宿で降りる予定だった人々が挙って降りていく。それに混ざる流雫は、駅まで人が散ると先刻見たルート通りに走り出した。マップでは数百メートルと表示されているが、それがやけに遠く感じる。事態が事態だからか。

 大きな踏切が見え、その手前から新宿駅に向かって階段が延びている。澪が何処にいるか判らないが、駅まで行けばどうにでもなる。

 流雫は息を深く吸い、地面を蹴った。


 ようやく警察官が駆け付けるが、男は詩応に向けていた銃口を警察官に向けた。警察官も慌てて銃を出し、威嚇しようとする。

 その背後から3発の銃声が響いた。銃を構えていたハズの警察官は、呻き声を出す間も無くその場に倒れ、タイルの地面を血で汚す。

 「何苦戦してやがる!」

と怒鳴り声が聞こえ、澪はその主に振り向く。男は自動改札機を飛び越え、駆け寄ろうとした駅員の頭上に向けて引き金を引く。

「ひっ!!」

駅員は突然のことにその場に崩れた。あまりの恐怖に、力が入らず立てない。

「邪魔すんな!」

そう叫びながら近寄ってくる男は、デニム調の上下の少女に銃口を向けた。

 総司祭や付き人と同じネイビーのスーツで、所謂ロン毛。スーツ越しにも、引き締まった体格なのが判る。……物理攻撃なら、まず歯が立たない。

 「ほぉ……お前があの教会にいた目障りな女か……」

と言った男は片手で銃口を澪に向けた。

「……河月のこと……?」

と声に出す澪。……誰かが勝手に撮影し、ネットに流した事件の動画を見たのか。

「……可愛いなら可愛いらしく、大人しくしてればいいんだ。……しかし華奢だな……」

と言って、男は上下デニム調の服を着た少女の全体を見つめる。

 その汚らわしい目線に屈しない澪の目は、遠くから走ってくる少年を捉えた。ネイビーの服装で、頭はシルバー。……流雫?

 新宿駅がパニックに陥っているのを空港で知って、隣の駅から回ってきているのか。どっちにせよ、澪にとっての騎士がついに日本に戻ってきた。

 澪の口角が無意識に上がった。視界の端でそれに気付いた詩応も、それにつられた。……やっぱり、澪はこうでないと。

「何を笑ってやがる!!」

と男が叫ぶ。女子高生2人は立場が判っていないのか、不愉快極まりない。まあ、判らせるだけだ。そう思った男は気付いていない。少女にとっての騎士が、背後からこの場に近付いていることに。


 新南改札が見えた。流雫は一度、建物の影に隠れる。

 ……澪が、そして偶然再会してとばっちりを受けたのか……詩応が、それぞれネイビーのスーツの男と対峙しているのが遠目に見える。……またしても、旭鷲教会の仕業か?

 そして、その近くに転がる死体が2つ。

 流雫の近くではヤジ馬が固まっているが、総司祭の射殺と人体爆発で完全に言葉を失っている。パニックになっていないのは、予想外の事態に脳が全ての判断をシャットアウトしているからだろうか。

 しかも分が悪いことに、1時間前に日本に着いたばかりで、銃を持っていない。……しかし、丸腰には丸腰なりの戦い方が有る。……僕は死なないし、殺されない。澪や伏見さんも殺されない。

 流雫は頷いた。


 「血の旅団が……旭鷲教会と決別したい理由がよく判るよ……」

突然聞こえた少年の声に、ロン毛の男はその主に振り向く。

「誰だ!?」

その問いに、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳で手前の男を見据えた流雫は

「破壊の女神テネイベールの化身……なんてね」

と言って戯けた。

 ……端から真面目に答える気は、流雫には無い。しかし、偶然にも目の色が同じ……常に異端児に見られてきた理由の一つを逆手に取り、そして冷静さを失わせるにはこれしか無い。

 何しろ、経典上クレイガドルア……もといゲーエイグルにとって、裏切った娘テネイベールは創世の女神ソレイエドールよりも、忌むべき存在だったからだ。旭鷲教会の人間なら、この3体の神と悪魔のことぐらい、基礎知識のハズだ。

「ふざけやがって……!!」

男は不愉快と云う表情を露わにした。

 突然現れたかと思いきや、血の旅団と決別だの女神の化身だの、頭が悪いとしか思えない事を言ってやがる。しかもオッドアイの目……ますますふざけている。最早存在自体が特大の地雷だ。

 ……流雫を相手にするには、冷静さを欠かないことと、彼の勝機を全て潰すこと。何度も彼に背中を預けて戦ってきた澪だからこそ、判ることだった。その罠に嵌まっていることに、男は気付いていない。

 その澪の隣、詩応には一つの疑問が突き刺さっていた。

 ……血の旅団が、旭鷲教会と決別?

 流雫のことだから、その情報もフランスで手に入れたのだろうか。しかし、だとすると旭鷲教会は逆に危険な集団になるのでは。

 ……その話を流雫から聞き出したい。姉の死の真相に辿り着けるなら。そのためにも、ここで死ぬワケにはいかない。銃を握る手に力が入る。


 見れば見るほど、あのオッドアイそのものが不愉快。先に潰したい。そう思った男は咄嗟に流雫に銃口を向けた。その瞬間、流雫は足音を鳴らして逃げ出した。

「逃がすか!!」

男はシルバーヘアの少年を追い始めた。澪は後ろを振り返りながら、銃を出す。……まずは目の前の男を

 「お前ら……!」

男は詩応に銃口を向けたまま、引き金を引こうとする。……正当防衛、成立の瞬間だった。

「詩応さん!!」

澪が叫んだ瞬間、詩応は男の太腿を狙って引き金を引いた。2発……ネイビーのスラックスに穴が開き、血が滲む。

 「な……!!ああああ!!」

男は患部を押さえながら前屈みになり、殺意に満ちた目で2人を睨む。

「殺す……!」

男は痛みに乗せて叫びながら、銃を左手に持ち替えて、詩応に向けようとする。

 「詩応さん!」

再度隣の少女の名を呼びながら、バッグからシルバーの銃を出す澪。その動きの流れから地面を蹴り、左肘に銃身を外から叩き付ける。

 「がぁっ……!!」

目を見開き苦悶する男は、有り得ない方向に曲がった肘の先から力が入らず、銃を地面に落とした。……丸腰と思っていた少女に油断していたのが、明暗を分けた。

 男が激痛に耐えられず膝を突くと、澪は落とした銃を蹴飛ばし、後ろ首を掴んで背中に銃を突き付けた。まさかの事態に備えて、護身術と云う形で父から教わっていたことが役立った。

 しかし、詩応はその隣から彼女と同じことをする。突然のことに、澪は声を上げた。

「詩応さん!?」

「アタシが押さえる!澪は流雫を!!」

と詩応は言う。……今は、こんなことで言い争っている場合じゃない。澪は詩応に頷くと、男から離れて流雫とは反対の方向に走り出す。

 「……旭鷲教会……何が目的なんだ……?」

と詩応は痛みに顔を歪める男に問う。

「お前らが……知ったところで、何になる……」

声を詰まらせて返す男に、詩応は

「旭鷲教会に……アネキは殺されたんだ!」

と声を上げた。その目は、最早殺意に満ちている。

 「この国に……邪魔な存在……排除せねば……」

と、総司祭の付き人……を装っていた男は言った。詩応はその言葉に被せる。

「日本に邪魔だと……?だからアネキも殺したのか……?」

「……誰のことだ……」

男は短く、そう言った。その答えに詩応は、思わず引き金を僅かに引きながら、叫んだ。

「渋谷で銃殺されたんだ!!」

怒りに満ちて、殺意が暴走しそうで、そして泣き出しそうで。

「口封じだ……だが俺は止めようとした……!」

そう言った男の声は、震えていた。いっその事殺せ……と思えるほどの痛みが足と腕に走る。

 「口封じ……だと……」

男の言葉をリピートした詩応に、男は言った。

「旭鷲教会は……トップシークレットだ……しかし……偶然話を聞かれた……」

「だから殺したのか!」

そう叫んだ詩応の視界が、一瞬で滲んでいく。

 ……旭鷲教会にとって不都合だから口封じ。たったそれだけのために、詩愛姉は殺されたと云うのか。ほぼ即死で、しかし偶然居合わせた流雫と澪に看取られながら。

 不意に、ネイビーのスーツを着た男の首を掴んだ力が緩む。しかし、太腿と肘を押さえたままの男は、その場に倒れた。痛みに気絶したのか。

 詩応はその場に膝から崩れる。もう、限界を突破していた。

「くっ……う……うあ……うああああっ!!」

頭を抱え、叫ぶ少女。このまま狂って壊れれば、どれほど楽だろうか……。

 ボーイッシュで強い詩応は、しかし多感な年頃の高校生でしかない。そして今、螺旋状に絡む怒りと悲しみに襲われ、大声で泣き叫ぶことしかできない。

 ……声にしたところで、救いの手が差し伸べられるワケでもない。それぐらい判っている。しかし……。

 助けて、詩愛姉……。

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