1-8 Quick Rat
「詩応さん!」
澪は隣の少女の名を呼びながら、その手を引っ張る。
「ちょっ……!澪っ!」
突然のことに詩応は驚きと焦りを露わにしながら、澪に手を引っ張られたまま先に四散したヤジ馬を追うように走る。北……真が走って行った方向だった。
澪が後ろを振り向くと、流雫は歩道橋を駆け上がる。……南へ向かっていった。後は、3人の出方だ。
「……澪……!」
200メートルほど走っただろうか、詩応が澪の手を振り解いて止まる。
「詩応さん……!?」
澪は息を切らし、数歩分後ろの彼女に振り向く。……誰も追ってきてはいないようだ。
「……何だ……?サイレントインベージョンって……?」
詩応は、先刻澪が呟いた言葉を口にした。澪は呼吸を整えながら答える。
「……組織の内部から……侵略すること……」
「……内部から……!?」
ボーイッシュな少女の言葉に、澪は頷く。
「最初から、教団を内部から崩壊させる目的で入信して教会職員になり……」
その言葉に、詩応は
「スパイ……!?」
と言葉を被せる。澪は頷く。
スパイ……エージェントと云う呼び方もされる。日本語で云えば、工作員か。ただ、疑問は残る。澪は言った。
「……ただ、昨日の件を受けて作戦が変わった……?」
歩道橋の階段を駆け上がる流雫は、右耳に挿したイヤフォンから聞こえてくる澪の声に、やはりその可能性が高いと覚悟する。後ろを振り向きながら、
「葬儀……人が集まる場……犯人にとって、これ以上のチャンスは無い……」
と流雫は言った。先刻、詩応が
「……葬儀にまで……」
と呟いたのが聞こえていた。だから、そう読めた。
「流雫?」
と澪が呼ぶと、詩応は
「借りるよ」
と言って、澪のイヤフォンのぶら下がっていた方を手に取り、耳に着けた。2人が何を話しているのか、気になる。図らずも背中合わせになる少女2人。
「……今の発砲は……!?」
「……多分、偽旗作戦。まるで、ノエル・ド・アンフェルと同じ……」
澪の問いにそう答えた流雫は、チューブタワーの手前まで辿り着いた。
……恐らくあの3人は、こっちに来る……。理由は一つ、人が多いからだ。
……昨日の殺害と今し方の教会特攻……。その動機は、よくも悪くも、太陽騎士団の名を社会に知らしめたいからか。
被害者だとしても「狙われる宗教団体」として、一言で言えばヤバいと云う印象を植え付けたい。教団にとっては事実無根、単なるとばっちりであろうと、イメージダウンに直結するからだ。
ただ、仮にそうしたところで疑問は残る。教団の連中が発砲する理由が無いのだから。例えば、教団をよく思わない連中の攻撃を受け、その報復に市中で発砲事件を起こす……には、矛盾が有るように思える。
日本ではマイナーな、海外生まれの新宗教。しかし、社会活動に精力的で世間からの評価は高い。それが全てではないが、少なからず世間を敵に回していない以上、アンチか何者かの特攻を受けただけで「社会を敵視する」必要は何処にも無いハズだ。
……発砲事件は、教会突撃を試みた連中と関係を持ったサイレントインベーダーが起こした仕業。流雫には、それ以外に尤もな理由が浮かばない。無論、全てが単なる推測でしかない、と云う大前提だが。
「……く……っ!」
詩応は奥歯を軋ませる。今回も、だとすると……。
「今度は……アタシたちの命が……」
と呟く詩応に、澪は
「詩応さん……」
とだけ呼ぶ。その声が流雫にもイヤフォンを通じて聞こえると、前から銃声が響いた。……前から!?
流雫が思わず後ろを振り向くと、3人の男は追ってきている。……この連中とは別にいるのか。4人以上の犯人……多勢に無勢、どころの話ではない。
「澪、伏見さん、今は逃げて!」
と流雫が言うと、澪は
「流雫!?」
と返す。先刻よりも焦りが増しているように思えた彼女に、流雫は
「噴水の方でも銃声が……!」
と答える。
ヒサヤセントラルパークスの南端、大通りを渡った先に噴水が有る。その方向から銃声が聞こえた。
突然のことに四散した人々が赤信号で車道に飛び出し、クラクションが何度も鳴った。車を降りた人たちも、逃げる人々の様子から一瞬でその事態に気付くと、その場に車を置いて逃げる。中には空いている座席に乗せて避難しようとする人もいたが、大通りは混乱を来している。
直接現場は見えにくいが、聞こえてくるクラクションの合奏から、その様子が容易に想像できる。
「挟み撃ち……」
流雫が思わず呟いた声に、澪は唇を噛む。
……流雫を信じていないワケじゃない、しかし、無事だとこの目で見なければ、何も安心できない。怪我していても、死んでいない限り無事だと言いそうで、それが怖い。
そして何より、流雫に死なれることが怖い。……乗り切る方法は一つ。
「……詩応さん、そのまま逃げて下さい。あたしは流雫を追います」
そう言った澪の背中から、詩応の少し裏返った声が、肉声とイヤフォン越しの両方から聞こえた。
「正気で言ってんの!?」
……自ら戦火に飛び込む真似など、狂気の沙汰でしかない。流雫も流雫だが、澪も澪だ。詩応は呆れ顔を滲ませる。
しかし、澪は
「正気ですよ」
とだけ言った。
今は、詩応を連れてと云う理由が有った、だから逃げろと云う流雫の言葉に肯いただけの話。澪1人だけなら、最後まで残ると背いていた。
「……流雫、待ってて」
とだけ言った澪は詩応の耳からイヤフォンを外すと、自分の首元に掛け、今来た方向へと走り出した。
澪の言葉に、詩応が正気かと疑ったのは当然だと、イヤフォン越しに遣り取りを聞いていた流雫は思った。自分も大概ではあるのだが。
……死に場所を探したいワケじゃない。ただ、澪と反対方向に走って、3人揃って流雫を追ってきただけだ。それは澪と詩応にとって好都合だった。流雫にとっては不都合だが、狙われても不思議ではなかった。
……ショートヘアはシルバー、そして瞳はアンバーとライトブルーのオッドアイ。それだけで、流雫が日本人ではないことが判る。それが原因で、学校でも疎まれてきた。それでも、あのテロが原因で離れたとは云え、フランスは祖国として今でも愛している。
その見た目で狙われた……それは思う。ただ、似たようなことはトーキョーゲートでも遭遇している。今更と云えば今更か。
ただ、大きな交差点の反対側で銃声が響いたのは、完全に予想外だった。
「グル……」
流雫は呟いた。
……教団に潜んだ連中以外にも、敵がいる。例えば、教会に職員として出入りしない、末端の信者を装っている……そう云う輩。やはり、血の旅団が日本で秘密裏に……。
そして、恐らく銃撃戦を避けられない。
「流雫!」
イヤフォン越しに、流雫を呼ぶ声が聞こえた。少年はその声の主を呼び返す。
「澪?」
「あたしが囮になるわ!」
最愛の少女の言葉に、流雫は背筋が凍る気がした。……澪が囮!?
「それだけは!」
流雫は思わず大声を上げた。囮なんて危険過ぎる。しかし、
「でも、このままじゃ流雫が……!」
と、澪は退かない。
……絶対に退かない。だから、2人で戦うしかない。僕が死なないために、何より澪を殺されないために。2人で逃げ延びるために。
流雫は、黒いショルダーバッグから銃を取り出す。昨日と同じように、引き金を引かなくて済むことを願いながら。
「……絶対死なない」
再度呟いた言葉に、澪は立ち止まると
「あたしだって」
と答えながら、シルバーの銃身をトートボストンから取り出した。
……先刻の覚悟を、再度刻む2人。今まで何度もテロに遭遇し、銃口を向けられても、決して怯まなかった、屈しなかった。だから、今だって。
澪はふと、スマートフォンの画面を開く。流雫との通話……その隣の赤いボタンを押す。そして自分に対して頷いた。
3人の男たちとの距離は20メートル程。銃の射程距離に辛うじて入っているが、距離が有ることと流雫が動いていることで、男たちは撃てない。動いている物に当てるのは難しく、無駄撃ちはできないからだ。尤も、6発だけしか撃てない正しい仕様であるならば。
戦って負けても、正々堂々立ち向かうことが何より重要。学校で悉く言われてきた心得は、しかし戦には通じない。負ければ死ぬ、それだけだからだ。生きたいなら、卑怯な方法でも、褒められない形でも勝つ。それしか無い。
所々段差は有るものの、全体的にフラット、そして中心に水が張られた水路エリアが有るために狭い直線2本。連中に背を向け続けるリスクが高い。
……澪が囮になる、それは彼女が撃たれるリスクが高いと云うこと。それなら自分が囮になる。そう思ったが、それは隙を突いて澪が撃つことを意味する。
……澪には、引き金を引いてほしくない。綺麗事でしかないことは判っている。
綺麗事だけじゃ、生きられない。それが、たった一つの現実。しかし……。
その流雫の迷いを嘲笑うかのように、銃声が聞こえた。上空に向けての威嚇だったが、流雫は歯を軋ませる。
「っ……!」
こうなった以上、残された方法は……。
シルバーヘアの少年は急に立ち止まり、バレルを覆うスライドを引いて男たちに振り返る。3人の男もそれに釣られて止まり、銃を向ける。大径の銃口との距離は、5メートル。射程距離にしっかり入っている。
「……これも、ルージェエールの仰せのままなのか?」
流雫の一言に、3人は身構える。
「何?」
「ソレイエドールを否定し、革命戦争に勝利して真理の根を継承していく。……宗教に興味は無い、しかし僕まで狙われたとなると……話は別だ……」
と言った流雫のオッドアイは、3つの銃口とその持ち主を同時に捉える。
好きか否か、ではなく無関心。それが或る意味最も厄介だが、それでも標的に成り得ることを流雫は知っていた。
革命戦争で勝つのは、血の旅団。勝つ相手は、太陽騎士団をはじめとする異教……もとい邪教、そして無宗教の連中。つまり、ルージェエールを崇め奉らない者は須く迫害して根絶やしにすべき。
クリスマスを狙い、フランス最大勢力のキリスト教徒まで敵に回した、血の旅団らしい過激思想には感心する。同時に唾棄もするのだが。
……しかし。
「ルージェエールなど知らん!」
真ん中の男が叫んだ。一瞬引き攣り、
「バカ!!」
と同時に声を上げた2人の男の顔は、しかし一気に青ざめていく。
だが、何よりも困惑したのは目の前の流雫と、3人の後を追ってきた澪だった。
澪のダークブラウンの瞳は、3人の奥に見える最愛の少年の、見開かれた目を捉えた。10メートル以上離れていても、左右で異なる色の瞳は目立つ。
「……えっ!?」
思わず声を上げた澪の耳に、流雫の声が響く。
「な……!?」
……血の旅団の、自分が崇める女神の名を知らない……!?
「……どう云う、こと……?」
澪は小声で呟く。
……血の旅団でないなら、まさか太陽騎士団の信者……?しかし、詩応さんは見たことが無いと言っていた。
単に、彼女が見掛ける機会が無かっただけで、内部で反逆を起こした……?ただ、それでもやはり引っ掛かる。
「太陽騎士団さえ滅ぼせば!!」
真ん中の男は叫んだ。……本性を現したか。
左右の2人も慌てて銃を構えるが、足並みが乱れていることは誰から見ても明白だった。しかし、このままだと流雫が撃たれる。
……方法はただ一つ。澪は頷き、スライドを引くと大声を上げた。
「そこまでよ!!」
「そこまでよ!!」
突然、背中の方から響く声。その主に、3人が揃って振り向く。
ベージュのケープ型コートに、ダークブラウンのセミロングヘア。右手には小口径の銃。先刻追わなかった女が、何故追ってきた?太陽騎士団のスーツを着た男たちは、驚きと疑問の表情を露わにする。
「澪!?」
と声を上げた流雫に、澪は
「血の旅団でないなら、何者なの!?」
と大声で問う。その目は、刑事の娘としての正義感に支配されている。しかし、少なからずの困惑を抱えたままだ。
「五月蠅い!」
と真ん中の男が叫び、上空へ向けて引き金を引く。
……澪は怯まなかった。何より、銃身の底……弾倉にホログラムシールが張られていないことが目に止まる。
「やはり……!」
澪は呟いた。昨日の犯人と同じ……!そして、まさか渋谷の……!
「澪!!」
流雫が叫ぶ。その瞬間、左右の男が振り向きながら銃口を向けた。
……大きな銃口が流雫を捉える。それが全てだった。
小さな銃声が、2発響いた。男は
「ぐっ……!」
と顔を歪め、同時に銃を落としながら膝から崩れる。ネイビーのスラックスを、赤黒い染みが侵食する。その中心地を両手で押さえる。
……最小の口径、そして少ない火薬量。威力は弱いが、5メートルぐらいの距離なら十分で、何より撃った時の反動が小さく、扱いやすい。
相手を殺す必要は無い、ただ動きを封じることさえできればよかった。甘いと言われようと、それは流雫のセオリーだった。
咄嗟のことに男が引き金を引く。だが、その直前に動いた流雫の左隣を銃弾が飛ぶ。
「待て!!」
と叫んだ男は、目障りな少年を追った。
近くの歩行者信号が点滅を始める寸前に、車道に飛び出す流雫。白線を踏まないように走り、スペース21の角の歩道に飛び移ったと同時に、信号が赤に変わる。ネイビーのスーツの男が目の前に飛び出し、タクシーのクラクションが男に向かって鳴らされた。
直後、そのフロントウィンドウにヒビが入り、白いボディのセダンは信号の柱にゆっくりと刺さる。運転席では、初老の乗務員が一発の銃弾を顔に受けて事切れていた。
銃声に振り向いた流雫の目に、殺意にも似た怒りが滲む。しかし、今はどう逃げながら戦うべきか。噴水側で撃った犯人と、追ってくる犯人……最低でも2人に狙われる、少年は覚悟しつつ、しかしスペース21の展望フロアを見上げる。
……昨日見た、スペース21の地下を思い出す。通路の位置関係を、無意識のうちに覚えていた。その多少複雑な構造を、上手く使うしか方法は無い。
流雫が引き金を引き、対峙した男がその場に崩れる。それと同時に、澪は踵を返した。真ん中の男は、必ず追ってくる。
流雫の囮になるハズが、既に1人は流雫を追った。しかし、誰より冷静さを欠いた男が自分に向かってくれば、それだけ流雫のビハインドは減る。しかし、冷静な判断ができないことは、逆に言えば予測不可能と云うこと。何をしてくるのか読めない。
ただ、その意味では流雫はラディカル過ぎるがリスペクトするしかない。予測不可能な行動を冷静な判断の上で起こし、それで勝機を手繰り寄せるのだから。
先刻別れたばかりの詩応に出会すことは避けたかった。そもそもこの名古屋で遭遇した事件は太陽騎士団が絡んだもので、言い方は悪いが完全にとばっちりだ。しかし、信者の詩応と出逢った以上、彼女の安否が気になる。だから、先刻いた方向には行けない。
澪は、流雫とは反対……水路の反対側に逃げることにした。通路は広くないが、それでも小刻みに斜めに走って惑わすしか無い。
ローファーで地面を蹴った少女の耳に、突然
「澪!!」
と聞こえた。少女は、その声に目を見開く。この名古屋に、自分を呼び捨てにする女子は1人しかいない。
「詩応さん!?」
思わず声を上げた澪に、詩応と呼ばれた少女が走ってくる。手には、関東からの高校生2人よりも一回り大きい中口径の銃が握られている。銃身は黒く、2人のそれとは異なりバレルの前半分はスライドに隠れず、露出している。
1ヶ月前まで所属していた陸上部では、短距離走の専門だった。その賜物か、数秒もしないうちに2人の女子高生は合流した。
「流雫は!?」
銃身の後端に刻まれたグルーブに手を掛け、スライドを引いたボーイッシュな少女の問いに、澪は
「あっちに!!」
と、特徴的な展望フロアを指す。
「死ねこらぁぁ!!」
と吼えた男が、片手でグリップを握り、詩応の眉間を捉える。
「詩応さん!!」
澪が叫ぶ。詩応は咄嗟に両手でグリップをホールドし、ターコイズが特徴的な瞳でバレルの先端を見据えた。
一気に引き金を引くと、火薬が爆ぜ薬莢が銃身から飛び出す。その瞬間、男は
「ぐぁぁぁぁっ!!」
と太い声を絞り出し、噴き出す血で汚れる肩を押さえる。激痛に銃を落とすのを尻目に、詩応は
「行くよ、澪!」
と言った。突然のことに固まった澪は
「は、はいっ!」
と返した。
……詩応さんは、あたしより強い。だから、もっと強くならなきゃ。空回りしそうなほどの焦燥感と悲壮感が、手足に絡み付いてくる。
今は、2人の足手纏いにならないように。それだけだった。
「詩応さん!?」
イヤフォン越しに飛び込んできた澪の声に、流雫は2人が合流したことを知る。
……合流してほしくなかった。しかし今は、室堂澪と伏見詩応、2人が無事であることを願うしかない。そう思った流雫が前を向いた瞬間、その奥で銃声が響いた。4発……そして2人が倒れる。その手にはそれぞれ銃が握られていた。
護身のために思わず手にした、しかしそれが犯人の目に止まり、返り討ちに遭った。
……銃を持っていることがバレれば撃たれる、だから持っていても撃てない。護身用の意味が無い、しかしやはり撃たれるのが怖い。それは当然のセオリーではある。
そして、護身のためとは云え銃を手にした結果、撃つ前に撃たれた。その光景は、銃を持つことが無意味であることを思い知らせる、見せしめとしては最高だった。ただ、それに屈しない少年の存在は、犯人にとって唯一の誤算だったが。
目前にスロープが見えた流雫は、迷わずその方向に曲がった。緩いカーブの下り坂を駆け下り、踊り場から長い階段……その隣のエスカレーターのステップに立つ。
「このっ……!」
と声を上げた男もそれに続こうとする。そしてステップを踏んだ……瞬間、流雫は
「ほっ!」
と声を上げた。
シルバーヘアの少年は、手摺を強く掴み、ステップを強く蹴って跳び上がった。膝を折り曲げると、今度は奥の……手摺を強く掴み、腕を軸に前に身体を動かす。膝を伸ばしてステップに着地すると、男は慌ててエスカレーターを引き返そうとしたが、逆走は叶わない。諦めて駆け下り、上りのエスカレーターに乗って追い掛けようとする。
……段差を使って蹴り落とすのは、銃の射程距離の問題が有る。それができないなら……。流雫は展望フロアへの階段と、その隣のエレベーターに目を付けた。
ドアが閉まりかけたエレベーターに飛び乗ると、男の目の前でゴンドラが動き始めた。
「ドブネズミめ……!」
と男は洩らした。あの少なからず人間離れした動きと、アップダウンを諸共しないすばしっこさは、見下すならドブネズミが正しい。
「はぁっ……はぁっ……っ……く……」
流雫は、展望フロアへ向かう貸切状態のエレベーターで、ようやく息を整えることができた。
……あのまま階段を駆け上がるだけの体力は無い。地下から上がれたとしても、同じだけ下りなければならない。流石に保たない。
先刻一瞬だけ見えたが、このエレベーターは理由は判らないが、減速と停止が苛立たしくなるほど遅い。硬貨を立てても倒れないのでは、と思えるほどだ。これで追い付かれることは覚悟していた。
しかし、展望フロアに行ったところで、1周するだけだ。階段前で待ち伏せされては同じだ。……それなら、少しでも呼吸を整えられる方を選んだ。
……流雫は、エレベーターに逃げたことで、ふと澪との初対面を思い出す。
犯人と警察の特殊武装隊による銃撃戦から逃れ、エレベーターに逃げた2人。しかしドアが開いた瞬間に犯人の1人がいて、銃弾を浴びることを覚悟していた。だから流雫は、澪を壁に張り付かせ、自身は反対の角でしゃがんだ。
やがてドアが開くと、その読み通り、犯人が銃をゴンドラに向けたままドア前に立ち塞がっていた。しゃがんだままの流雫は、咄嗟に犯人の股間に銃を当て、引き金を引いた。
……あの時は上手くいっただけに過ぎない。流雫はそう思っていた。何より、このエレベーターは三方シースルー。そしてドアにも窓が付いていて、中の様子が見えるようになっている。
……流雫はドア側の角に張り付く。そして、右手首を飾るブレスレットに、銃を持ったまま左手の指で触れた。
去年の誕生日、東京で3日違いの誕生日を祝い合った流雫と澪。そのプレゼントは、ウィメンズのブレスレットだった。流雫が、ウィメンズでも澪と揃えたいと言って決まった。
流雫のアクセントは、ルビーの月のチャーム。澪のそれは、カーネリアンのティアドロップのチャーム。それぞれ、名前に合わせた上に、裏には送り主の名前が小さく彫られている。
アウトレットの売り尽くし価格だったからこそ、高校生でも手に入れることができたが、今ではデートの時に必ず着けている。逆に着けていないと、何だか落ち着かない。
エレベーターの動きがゆっくりになる。
「……澪」
とだけ呟いた流雫は、グリップを強く握り締めた。止まるまでが焦れったいが、それは相手も同じだ。早く、僕を撃ち殺したいだろう。
地上14メートル、地下から22メートルもの高さに聳える展望フロアが、ドアの窓越しに見えた。
……一瞥する限り、いない。死角に隠れているのか……と思った流雫の目に、誰かが階段を駆け上がってくる様子が、透明の柵越しに映る。……ネイビーのスーツ、あの男か。
ドアが開くと、流雫はエレベーターから降りる。どうにか最上段を踏んだ男が左に振り向き、目が合った。
「くっ!」
息を切らし、屈めた身体を無理矢理起こし、柵よりも高く片腕を上げた男の銃口が、シルバーヘアの少年の額を捉える。流雫は咄嗟に身体を屈めた。
大きい銃声によって放たれた銃弾は、エレベーターの金属のドアに抉ったような弾痕を残す。
「チッ!!」
と舌打ちした男が、疲労が滲む足を前に踏み出した……と同時に、金属を踏むステップ音が前から聞こえる。
チェックメイト……、そう男は思った。しゃがんでいるに違いない。一歩踏み出して頭に穴を開けてやる。そう思った瞬間、白とシルバーのドブネズミが目の前に飛び出した。
「死っ……!」
男の声が途切れ、次の瞬間には
「ごぉぉっ!!」
と悲鳴に変わる。そして股間に走る激痛と吐き気。銃を落とし、
「ぉ……ぉっ……!」
と悶えながら見下すと、怒りを露わにした少年が見上げている。
……流雫は精巣を狙って銃を振り上げた。男への急所攻撃で最も効果的なのは、勃起する海綿体ではなく精巣。吐き気を伴い、いっそ死んだ方がマシとすら思えるほどの痛みに数十分も苦悶する……。
男だからこそ判る痛み。卑怯だろうと形振り構っていられない。自分がやられてイヤなことをしなければ、生き延びることはできないのだ。
反撃……どころではないだろう。流雫は目の前に転がった銃を蹴って階段の踊り場まで落とすと、地上へと階段を駆け下り始めた。
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