霜葉集

橘暮四

短編『煙に巻く』

 アパートのベランダに出ると、大抵彼女と顔を合わせる。彼女は向かいのアパートに住んでいて、その部屋もちょうど僕の部屋の真向かいとなる。つまりお互いのベランダが向かいあうようにできているから、二人がせーので手を伸ばせば触れられるほど近い。実際試したことはないけれど。

 今日も彼女はいつものように、煙草を咥えてぼうとしていた。僕が窓を開けてベランダに出ると、ちらりとこちらに目をやって軽く微笑む。口の端を上げて目を細めるその笑い方は、なんだか悪戯好きな子どもを想像させた。けれど、その口から溢れる薄い煙やベランダの欄干に置いてあるウヰスキーのボトルが、彼女が大人の女性であることをどうしようもなく証明していた。

「やぁ、少年」

「毎回言ってますけど、少年ってなんですか。僕もう十七ですけど」

「十七歳ほど少年が似合う歳は無いよ。十でも、二十でもなく、十七だから少年なんだ」

「どういうことですか。まぁ二十二歳に比べたら、子供に見えるかもしれませんけどね」

「それは二十二歳を買い被りすぎだよ。私がそんなに大人に見える?」

「十七歳にとって、二十二歳はどうしようもなく大人です」

「二十二歳にとっては、二十二歳なんてどうしようもなく幼いよ」

 彼女がけらけらと笑う。その度に口から煙が舞う。その煙をまた喉の奥に封じ込めるかのように、彼女はウヰスキーを呷る。

「好きですよね、ウヰスキーと煙草。身体に悪いですよ」

「だからいいんじゃない。なんか人生全部馬鹿にしてるみたいでさ」

 彼女はそう言うと、ボトルの飲み口に軽く唇を当てた。柔らかく形を変えるその唇はいつも魅力的に映る。結局僕も、心ではウヰスキーと煙草を辞めてほしくないのだ。プリンになった髪を揺らしながら、退廃的に人生を食い潰している彼女の在り方は、有り体に言って美しくみえた。僕たちの人生を空気みたいに支配している社会の常識というか、透明な枠組みみたいなものから外れて生きる彼女が、僕はどうしようもなく羨ましかった。呑んだくれのクソ親父に人生振り回されながらも、普通に生きることに囚われ続けている僕とは正反対だ。だからこそ、こうやって彼女とベランダで話す、この夜の冷たい空気が好きだった。彼女の口から溢れる煙の匂いが、どうしようもなく心地よかった。

「ときに、少年」

「なんですか?」

「今から海に行かない?」

 彼女からそんな誘いを受けることは初めてだった。


 父が酔い潰れているリビングをこっそり抜け出して、僕は彼女と、高速道路をバイクで走っていた。バイクを二人乗りするのは初めてだった。バイクの後ろから落ちないように掴んだ彼女の身体の柔らかさとか、風が吹くたびに香る彼女の髪の匂いとかで、僕は常に落ち着かなかった。その心音を誤魔化すように、僕は何か適当なことを言う。

「海って、どこに行くつもりですか。舞鶴?」

「んー違う。瀬戸内海」

「嘘でしょ?」

「ほんとだよ。瀬戸内海じゃなきゃだめなの」

 彼女は切な声で言う。僕は黙ってしまう。


 ようやく海に着いた。時間は確認していないけれど、もう日付はとうに回っているだろう。目の前はどこまでも深い藍色で、その底は見えなかった。秘め事をしているかのような海だ。

 そんな暗闇に、ふと小さな灯りが点った。横を見ると、彼女がまた煙草を取り出していた。数秒その白い筒を咥えて、ふぅ、と深く息を吐き出す。

「何か求むる心海へ放つ」

 彼女がぽそりと呟いた。煙は闇に消えた。

「え?」

「尾崎放哉の俳句だよ。私好きなの」

 彼女の瞳が僕を捉える。その瞳の色はこの海によく似ている。

「放哉もさ、最後はこの瀬戸内海の島で死んだ。だから私はここに来たかった。ここじゃなければだめだった」

 そう言った途端、彼女は僕の顔に煙を吐き出した。煙が目に染みて、僕は思わず目を細める。その瞬間だった。

 彼女が、僕にキスをした。そう気づいたのは数秒の後だった。その間もずっと、僕たちの唇は触れ続けていた。その柔らかい唇の感触が、どうも気持ちよかった。

 そしてゆっくり、彼女の顔が離れる。いつものように、目を細めて笑っていた。

「どうだった、お姉さんのキスは」

「……少し、苦かったです」

「そう。私はね、なんの味もしなかったよ」

 彼女は再び海の方を向き、数歩歩く。そしてゆっくりと、煙が上がるような速度で振り返る。

「ねぇ、私今から死ぬの。君も一緒にどう?」

そう問われる。僕の答えは決まっている。

「やめておきます。明日も学校があるので」

 僕の答えを聞いて、彼女はまた笑う。「そう言うと思ったよ」と軽く呟く。

 僕の唇に残っていた彼女の味は、ゆっくりと消えていった。

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