フランの声を聞かせてよ

芝大樹

第一話 仄かに暗い一室にて

「ダメだよ、フラン。まだ、ダメだ――」

 それでも少女は、青年の声には耳を貸さず、まっすぐに進んでいこうとする。青年の方も、素直に彼女が従ってくれると思い、そう口にしたわけではない。

「彼はまだ眠っている。目を覚ますまで待ってあげよう」

 ――そうでなければ、悔やまれない……。

 青年の視線の先に、イスに座った男性の姿があった。まだ微睡みの中、うなだれている。

 ――彼女の目に、彼はどう映っているのだろう。

 彼女はどう思っているのだろう……。

 分かるはずがない――。

 人の心の内を読むことなんてできるはずがない。

 ――ましてや……。

 青年は少女の姿を追った。

 学校の制服に身を包んだ少女がそこにいる。彼女は、なおも進んでいこうとする。まるで、何かにひかれるみたいに――。


 ――世界の在り方が変わってしまったのだと思う。

 青年は車のハンドルを握りながら、何気なくそんな言葉を思い浮かべていた。あるいは、サイドウインドウの向こうに流れていく景色を眺めていて、魂の琴線にそっと触れてくるものがあったのかもしれない。

 ――ここら辺は、まだ傷跡が残ったままだ……。

 あのときから、世界の在り方は変わってしまった――。

 青年はもう一度、その言葉を繰り返した。

 ――そして、人の心も……。

 三年前、パンデミックが起こった。世界中でウイルスと混乱が蔓延し、人々の心がようやく落ち着きを取り戻した頃、全人口の三十パーセントが、死神の手によってその命を刈りとられてしまっていた。

 生命の価値が変わった瞬間でもあった。それは文字通り生きている者の命の価値であったろうし、驚くべきことに、死者――これもまた文字通り命を失った者達のことだ――に対する、これまでとはまったく異なる捉え方が生まれた瞬間でもあった。

 ともかく、人類はその未曾有の事態が沈静化するまでは、つまりはワクチンが完成するまでは、玄関に固く鍵をかけ、息を潜め、じっと家の中に閉じこもり続けた。それこそ、呼吸をする音さえ、ためらわれるほどに――。

 青年は大学の四回生。大学院への進学がすでに決まっている。だから、まだ就職活動に奔走する同級生も残るこんな時期でも、休日にはソロキャンプなどと悠長に遊んでいられる身分であった。

 だが、青年に言わせれば、これはどうしても必要な儀式のようなものだった。音も光も雑念も、一切が入りこまぬ暗闇にその身を置き、世界という空間にひとり宙ぶらりんに投げ出される。青年はそこで、自分という器を見つめなおす。

 彼は家族を失っていた。パンデミックの最中、父と母、そして妹までも。

 ――いや、奪ったというのが正しいか……。

 変わってしまったのは、自分の方かもしれない――。

 青年が運転する白の軽ハイトワゴンは、すれ違う車もまばらな田園地帯を走っていく。窓の向こうには、頭を垂れた稲穂を背景に、風もなく彼岸花が揺れていた。花はどこまでも紅く色づいていた。

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