シスターエヴァはモノローグの謎を聞く

よすが 爽晴

序章

神の贋作は声を聞く

 神が世界を作ったなら、シスターエヴァは神に作られた贋作だった。

 なだれ込むように聞こえる声と言葉に顔をしかめながら、エヴァは今日も自分を作った神に祈りを捧げている。薄く目を開けた先にある人々から聞こえる声と言葉は、態度と一致していないものばかりだ。

「明日のミサ、合唱のソロですってね。おめでとう」

『私の方が上手なのに、なんでこんなのがソロなのよ』

「えぇ、ありがとう!」

 優しい笑みを浮かべるシスターの声に重なるそれは、恨みがずいぶんと籠っているものでついエヴァはその様子を見てしまう。嫉妬深く、とても女々しいそれはエヴァの知らない感情だった。知らなくとも苦労はしないけど、つい気になって顔を向けてしまう。

 しばらくそんな事をしていると、向こうの方もエヴァに気づいたようで。ふいに顔を上げたと思うと、少し厄介そうな表情を浮かべながらエヴァを一瞬だけ見る。

「あらエヴァ、こっちを見てなにか用?」

『こっち見ないでよ』

 重なるように聞こえたその声に、エヴァは若干申し訳ないと言いたそうに目を伏せながら首を横に振った。そんなエヴァを見たシスターは、それだけで機嫌が悪そうに顔をしかめながらも背中を向けてきた。

『ロクに役割すらもらえていない役立たずなのに、こんな場所でサボらないでよね』

「……聞こえていますよ」

 そんな、エヴァだけに聞こえるエヴァへの悪態を吐き捨てながら。

 慣れてしまっている自分もどうかと思いながら小さく首を横に振り、エヴァは回廊を歩く。今日は新しい祭司がくるからと朝から教会全体が慌ただしいが、そんな時でも聞こえてくるのは感情的なものばかり。思わず、そっと意識的に目をそらした。

(本当に、シスターなのか疑問に思えてしまう)

 皇国の中心部に位置するマーレット教会は、いつだって世俗に染まっている。

 神にこの身を捧げると言ったのは口ばかりで、蓋を開ければ高めのプライドで固められたような人ばかり。それはエヴァにとって日常の一部であり、さして気にするような事でもなかった。

 ただ、少しだけ。思う事があるのも事実ではある。

「……なぜ先生は、私をこの教会に呼んだのでしょうか」

 先生、と彼女が慕っていた会う事のできない存在に思いを馳せていた時に、横をふと誰かが通りすぎたような気がする。

「邪魔よ、エヴァ」

『こんなところで突っ立っていないで、どこかに言ってよ。こんな笑わずなにもできない子、前の院長はなにがいいと思ったのかしら』

 少しだけ、胸の辺りがズキンとした気がする。

 彼女だってまさか心の中でついた悪態が聞こえているとは思わない。実際、聞こえないはずだから。

 しかしエヴァの耳には、はっきりと届いていた。その言葉に込められている感情も、まとめて。

(なにがいいと思ったなんて、それは私の方が聞きたいのに……やっぱり、こんな能力はいらなかった)

 いつからかと聞かれたら、それはおそらくもの心がついた頃からだ。

 口から紡がれる言葉とは違うその音が最初はみんな聞こえると思っていたが、どうやらそうでもないらしく。自分だけが心の声がわかっているとわかったのは、育った孤児院で同じ院にいた友人の心の声を言葉にして言ってしまった事からだった。幼いエヴァにとって、それは単に深く考えずよかれと思い言っただけの話。けどそれが余計な事であったと知ったのは言ってしまった後で、目の前にあった友人の怒りと悲しみが混ざった表情を、エヴァはいまだに忘れられずいる。

 その時からだ、エヴァが嘘つきと言われるようになったのは。

 人との距離がわからなくなり、表情の使い方がわからなくなったのは。

(そんな私の事を始めて信じてくれたのは先生で、先生がいたからこそ私は今なんとか生きていけている……)

 元々この教会は、今とは違う院長が管理をしていた。お人好しで、なにがあっても笑っていて。そんな、孤児で両親の記憶がないエヴァにとっては父のようであり先生のような存在。お人好し故に孤児院や他の教会から独断でシスターを連れてきていたその人を、快く思っていなかったシスターがいるのももちろん事実である。

 エヴァをマーレット教会へ連れてきた事だって、きっと同情だったとエヴァは思っている。

 事実、エヴァも前院長に引き抜かれた内の一人だった。エヴァが考えるに、ただどこへ行っても嘘つきと呼ばれる彼女を哀れに思ったのかもしれない。真相はわからずともそれしか考えられず、しかし結果として「嘘つきを教会に連れてきた」という事が前院長を快く思っていなかった人々が避難をするために引き合いとして出すに格好の的になっている。

「……それでも、先生は」

 エヴァにたくさんの事を教えてくれたのも、また事実だ。

 優しさや、孤児院にいた時に触れる事が絶対できなかったようなものまで。

 そんな先生と慕っていた前院長も、もういない。

 数か月前に、院長はマーレット教会の前を流れる川に自ら身を投げてその命に幕を下ろしてしまったのだから。最期まで近くにいたはずのエヴァでさえ、心の声ではわからず気づく事ができなかった。

「先生は、結局私になにを教えたかったのだろう……」

 原因すらわからない、前院長はエヴァに向かって優しく微笑んでいた。あの笑顔の裏になにがあったのか、エヴァにはわからなかった。

 聖職者でありながら、自分でその命を捨てる選択をしたという事実。たとえどんな理由であれ残されたのはその事実だけで、聖職者として誇れない事であるのはエヴァももちろんわかっている。

 人の心は、美しい。

 ならばなぜ、美しいと思うなら、あの人は命を絶ったのだろうか。

 それは数か月経った今でも、エヴァの中で居座っている。

「先生も、噓つきですね」

 誰に聞かれるわけでもなく、そっと言葉を落とした。

 そんな空間がなんだか息苦しくて、エヴァはそっと隅の方へ移動をする。

「そう言えば聞きました? ピクシー様の件」

「えぇ、また迷える方に手を差し伸べたとか」

「本当に、このマーレット教会の誇りですね」

「…………」

 しばらく回廊を歩いたところで聞こえてきたのは、ピクシー様というマーレット教会ではちょっとした有名人についてだった。


 深夜の時間、就寝の鐘は鳴る頃に告解部屋でノックを五回。

 そうすればピクシー様が、悩みに答えてくれる。


 おとぎ話に出てくるような内容のそれは、現在進行形でマーレット教会に広がっている都市伝説のような存在だ。ノックを五回して入ると、本来はミサの前だけ開放されるそこは当然のように明かりがともっていて小窓越しには人の気配がある。

 その人物は昼に告解部屋を仕切る祭司とは違い女性で、まるで考えている事を見透かしているように的を射た言葉を返してくれる。そんな、夢かと錯覚するような噂話。

目の前で楽しげに話しているシスター達は規則正しい生活をしているから、基本的に夜の教会を知らない。危険をおかしてでも見に行けばいい話なのだが、きっと彼女達は世俗に興味を持ちながらも結局は神に仕える身と頭のどこかで理解をしているのだろう。

(それにしても、ピクシー様なんて名前を付けたのは誰なのだろう……)

 誰がつけたかわからないその名前は、おそらくヘロンベルの神話に関連したものだ。

 ヘロンベル神話の中でピクシー、すなわち妖精という存在は神に助言を授ける存在として書かれてきた。エヴァには理解ができなかったが、おそらく実際に赦しを聞いてもらった信者からはピクシー様のように見えたのだろう。

「私もいつかピクシー様にお会いして……ん?」

「あっ」

 バチンと、目が合ってしまった。

 厄介なのと目が合ったと考えていると、案の定シスター達はエヴァにこそこそ隠れるように話をしている。心の声とか聞こえないようにとかではなく、わざと聞こえるように。

「本当に、ピクシー様とあの嘘つきが入れ替わればいいのに」

「そうですね、彼女なんかよりピクシー様の方が神もお喜びになりますでしょうに」

『あんな嘘つき、なにの役に立つのか』

『本当に、前院長の考える事はさっぱりわからない』

 心の声の方が、言っている事がかなり私怨であった。

(ピクシー様が誰なのか確認もしようとしないのに、好き勝手を……)

 顔が見られない存在をどうしてそこまで信じられるのか、エヴァにはわからない。

 しかしここでなにかを言い返しても状況がよくなるわけではないのもエヴァは知っているからこそ肩を落としていると、ふと背後に別の影が現れたのがわかる。

「気にする事ないって、エヴァ」

「アンナ……」

 エヴァより少し早くこの教会に入ったアンナも、エヴァと同じで前院長を慕っているシスターの一人だった。

 箒を持ったまま心配そうに声をかけてきたアンナに、エヴァは目線を動かした。

 少しそばかすが印象的な彼女から聞こえる声は心の声も同じで、つい安心してしまう。

「彼女達、またピクシー様の事話している……」

「そうね、けどすぐに飽きるでしょ」

「……エヴァは、ピクシー様嫌いなの?」

「嫌いなのは、ピクシー様って呼び方」

「呼び方?」

 首を傾げるアンナを横目に、エヴァは小さく溜息を零した。

 ピクシー様という存在を、エヴァは否定しない。きっとこの教会の中で、エヴァが一番理解していると思っているくらいだ。ただ、強いて言うなら一つだけ。

「ピクシー様なんて、そんなものいないから」

「え……?」

 小さく零した言葉に、アンナは聞き間違いではないかと言いたげな表情を向けてくる。

 対するエヴァもなにもそれ以上は反応せず、そっと目を伏せるだけだった。

「……私、ミサの準備があるから」

 他のシスター達とは逆の方向へ、足を向ける。

 ひそひそとエヴァの事を話す声を聞きながらその場を離れようとすると、どこからか別の足音が聞こえてきているような気がした。

「おや、ピクシー様とは……なにやら愉快な話をしているようですね?」

 エヴァ達シスターよりも身長が高く、少しだけ低い声。その主はシスター達に声をかけると、楽しそうに頬を緩めていた。優しい笑みは天使の使いのようで、それこそ教会の外を歩けばすぐに声をかけられるだろう。どこまでも澄んだ碧眼と、濡れたように黒い髪が印象的だった。

移民も多いこの国でも黒い髪の存在は少なく、名の知れている人物なら現教皇くらいのものだ。黒い髪がよく似合う男は、まるで昔からその場にいたかのように立っている。

「あ、あなたは」

 シスターの内で一人が、男に問いかける。

 困惑とそれから邪な感情を含んだその声はエヴァが心の声を聞かずともなにを考えているかは筒向けで、珍しくエヴァも顔をしかめるほどだった。神に云々はどこへ行ったのか、これでは信仰もなにもない。

「あぁ、申し遅れました。私は本日よりこの教会で祭司として赴任をしたリベリオと申します。お気軽にお呼びください」

 祭司として洗礼を受けるには、かなり若いのが印象的な男だった。男というよりも青年という言葉のが似合いそうな彼は優しい仮面を貼り付けたまま、ふとなにかに気づいた様子でエヴァとアンナの方へ顔を向けた。最初は気のせいかと思ったがそうでもなく、見ている先にあるのはどちらかと言えばエヴァの姿である。

だからエヴァは、目線が合わないように視線を少しだけ落とす。

「ごきげんよう、シスター」

「……ごきげんよう」

 面倒で、今にもこの場を離れたかった。

 しかしそうもできない場の雰囲気に簡単な挨拶を返すと、ふいにリベリオが視界に入った。あぁ、やってしまった。そう思った時にはすでに遅く、リベリオの声が聞こえてくる。

『最初は祭司として潜り込むなんて難しいと思ったが、意外とできるんだな』

「っ……!」

 エヴァの肩が、大きく揺れた。

 今、目の前の男から聞こえてはいけない言葉を聞いてしまったような気がする。いや、気のせいなんかではない。心の声は、嘘をつかないから。

(今この男は潜り込むと言った……なら、祭司ではない?)

 しかし祭司でもない男が神に祈りを捧げる場に身元を偽って潜り込むというのは、かなり難しい話だ。

 なにを言っているのか理解が追い付かずじっとリベリオの顔を見つめると、続けるようにはっきりと声が聞こえる。

『しかし親父も無茶を言う――いくら教皇の息子でも、これがバレたらどうするつもりなんだ』

「…………」

 その一言で、エヴァの本能がなにかを叫んでいた。

 知ってはいけない事と、聞いてはいけない事。それを聞いてしまったのは完全な不可抗力であったが、エヴァにはどうする事もできない。改めて。己の能力の心の底から恨む事しかできなかった。

(そう言えば、今の教皇様はご結婚されて家庭を持った後で聖職者になったと聞いた事がある……五人の息子で、一人だけ離れた末の五男がいると)

 見た目からして、五人の息子の内なら彼が五男である事は容易に想像ができた。

 想像はできたが、なぜ今ここにいるのかという話は理解ができなかった。そもそも彼の言う通り、聖職者しか出入りできない場所に身分を偽って潜入をするなんて行為はあるまじきものだ。例えそれが教皇の指示であっても、例外ではない。

 そんな重大な事を不本意にも聞いてしまったエヴァと、知られた事に気づいていないリベリオ。二人の態度は真逆のもので、表情を崩さずエヴァに声をかけ続ける。

「先ほどの話、あなたもピクシー様をご存じで?」

「……この教会に、ピクシー様なんて者はおりませんので」

「おや、しかし他のシスターはピクシー様で持ち切りですが」

「ただの噂でしょう、私のような下のシスターにはわからない事です」

 小さく首を横に振りながら、これ以上声を聞かないように目線を逸らす。

 聞かないように、そしてその事を悟られないようにするので必死だった。しかしそれがリベリオには興味に繋がってしまったようで、ずいと顔を近づけてくる。

「本当にそうでしょうか、そんな噂でしたらここまで話題にならないと思いますが」

 まるで、言葉の隙に入り込んでくるような言い方だった。

 言い返せない状況に顔をしかめていると、ふと違う声が現れる。

「ちょっと、なにをしているのです」

 話を遮るように声を上げたのは、マーレット教会でも二番目の発言力を持つマリネッタ副院長だった。他のシスターからリベリオの存在を聞いて急いできたのだろう。普段は涼しい顔をしている彼女の額には、うっすらと汗が浮かんでいる。

「あぁリベリオ祭司、ここにいらしたのですね。到着の知らせがないので心配しておりました……ところで、この状況は」

「あぁ、それなのですが」

「……用件がそれだけでしたら、私は失礼させていただきます」

「あ、ちょっとエヴァ!」

 いかにも不機嫌な態度を作りながら今度こそこの場を離れるために、背中を向ける。

 一刻も早く、この空間からエヴァは離れたかった。

 そんなエヴァの背中を見送るリベリオはなにを考えているのか、少しだけ頬を緩めている。

「……彼女は」

 そんなリベリオの視線も呟きも、もちろんエヴァには届いていない。

 頭の中を支配しているのは、この生きた心地のしない空間から離れる事と、ピクシー様の事だけで。

(ピクシー様なんて、そんな都合のいい存在はいない)


 ピクシー様など存在しない。

 告解部屋のシスター――エヴァ本人は、そんな名前でなど一度も名乗った事がないのだから。


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